外伝:天才は、故に足を踏み外す

 渡辺双葉が帰った後の、数学準備室。

 3年生担当の数学教師・佐野徹哉は、同僚の大矢慶二郎に向かって土下座をしていた。

「――すみませんでした」

「佐野。土下座ほど相手を怒らせるモンはないって、知らねえようだな」

「なんで呼び捨てっすか!ちゃんと『さん』付けて下さいよ、俺が木の棒なんか持っていたせいで、大矢さんが生徒に殴られたのは分かってますから!」

「なんにも分かってねえじゃねえか」

 大矢の声のが一段と低く下がった。佐野は相手が怒りを増した兆候を察知し、その類まれなる頭脳を慌てて回転させた。



 佐野徹哉の人生には、挫折というものが一つもなかった。

 運動会の花形こそなれなかったものの、頭脳明晰で成績は常にトップ。趣味のプログラミングは小学生にして大人の技量をはるかに凌駕し、中高一貫の難関男子校に進んだ後は、生徒会役員として学内カーストの上位にいた。

 要領の良かった彼は、教師からも受けが良く、贔屓された。逆にいつも怒られるクラスメイトについて、佐野はその存在理由が分からなかった。その学校は、選ばれし天才しか入学できないはずだったからだ。


 賢い人間というものは、独自の理論を組み立てる事に長けていると言える。

 佐野徹哉は劣等生の特徴に興味を持ち、そして自分で結果を導き出した。

 ――彼らは、相手から求められた最低限のことができていない。それが理解できないのは、メモリが足りないのかCPUが悪いんだ。

 確かに、人とコンピュータには類似点が多い。しかし佐野徹哉の問題は、人とコンピュータを全く同じに考えてしまった部分にあった。人の脳は、ストレスなどで能力が上下するものなのだ。

 もう一つ。彼はその出自から、無意識に刷り込まれていた『常識』があった。

 ――人間には優性種と劣等種があり、自分達のような優性種だけが社会の強者として君臨する。

 歴史ある封建的な名家に育ったが故に身に付いた、危険思想であった。


 それでも、最初は暴力的なやり方に抵抗はあった。

 だけど『成功例』を見てきたからこそ、生徒を叱咤する方法が効率的だと考えたのだ。『成功例』を分析して、本来の自分とは違う『厳格な先生』キャラまで演じてきたのだ。

 大矢には良くない方法だと再三言われた。だけど結局のところ、世の中は数字だ。効率重視で何が悪い。


 

 大矢は、双葉に殴られた右腕をさすりながら言った。

「俺は、お前じゃなくて渡辺双葉を守ったんだよ」

「はあ」

 あれのどこが守ったになるんだろう。むしろ殴られにいってたじゃないか。

「佐野。なんで生徒が教師を殴るのか、分かってんのか」

「それは、色々なケースがあると思いますが――」

 顔を上げると、思いっきり睨まれていた。駄目だ、この答えは正しくない。

「反抗期だからじゃないかと!」

「じゃあなんで反抗期が来るんだ」

「それは、ええと」

 佐野は必死に頭脳を巡らせた。反抗期をどういうアプローチで説明しよう、反抗期とは子供が大人に牙を剥く時期のことだ、それは十代に集中して起こり、子供が大人から自立する過程だとも言える。なぜ自立の時に反抗するかと言えば、自分も一人の大人として考えを持つようになるからで、それが既存の大人の概念と衝突するからで。

 だけど昨今は反抗期のない子も多くいて、そういう子は家族との関係が良好であるという説が――。

「もしかして、家族、問題?」

「ご名答。さすが難関大卒」

 大矢は佐野の目線に合わせて、ヤンキー座りになった。

「お前は助けを求める生徒に対し、罵声を浴びせて嘲笑したんだよ」

「いや、罵声を浴びせたつもりは」

「人間を『狂犬』って呼んどいて、何が罵声じゃねえだよ。お前はあいつに、『自分は人間以下だ』って思い込ませちまった」

 ほんの少し、それは言い過ぎだろうと思った。だけど大矢の次の言葉で、佐野の顔から血の気が引いた。

「あいつ、泣いてたぞ。『私は人間として、何が足りないんですか』って。あいつの親父はお前も知ってるだろ。あいつは、家でも人として扱われていねえんだよ」

 そうだった。いつか来た渡辺双葉の父親は、あまりにも卑屈な態度で頭を下げ、更に自分より低く娘の頭を押し下げていた。あれは明らかに普通じゃない。

「反抗っていうのは、自我を否定されるほどでかくなるんだよ。あいつは本気でお前を殴ってきた。てことは、きっともう限界だ」


 大矢が白衣の右袖をたくし上げると、そこにはくっきりと真っ直ぐな赤黒い痣ができていた。その痛みがどれほどのものか、経験がなくとも分かるほどの怪我だ。


「限界超えちまったら、自殺だってしかねない。俺はそういう思いはしたくない、だからあいつを守りたい。――だから、二度と双葉には関わらないで下さい。佐野『先生』」


 大矢は、目線で佐野に返事を促した。

 佐野はそれを分かっていながらも、頷くことはできなかった。

 彼もまた、反抗の途中だった。一族に定められた『後継者』という道から逸脱しようと、もがいている最中だったのだ。

 初めての挫折に負けたくない。自己中心だと責められようと、心を折る訳にはいかないのだ。

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