第20話 『狂犬』
体育館での終業式が終わった後、教室に戻って通知表を渡された。
周囲が中を覗いて一喜一憂する中、私は開くこともせず鞄に入れた。テストの成績が悪かったのだ、通知表の数字がいい訳がない。
それにいい成績を取ったところで、それが一体何になる。欠陥品が医学部に行くなんておこがましい。
そっと周囲を見渡すと、人間らしい表情を浮かべるクラスメイト達がいた。彼らはどうやって夢を見る許可を与えられたのだろう。何を満たしたら、私も夢を許してもらえるのだろう。
――許してもらえたところで、何を選んだって失敗しかしない。
勝手に劣等感が加速する。自分の周りだけ、色が褪せていく。
チャイムが鳴って、また林先生が号令をして、1学期最後の日が終わる。私は机の中の物を全部鞄に詰めて、誰とも目を合わせず教室を出る。
人のいる空間が辛い。早く帰って、自分の部屋に閉じこもりたい。
と、思っていたのに。
「よ」
昇降口にたどり着くと、爽やかに笑う大矢先生が待っていた。しかも下駄箱の、私のマスを塞ぐように寄りかかって。
私は嫌悪感を露わにして言った。
「どいて下さい」
「嫌だ」
表情一つ変えることなく、大矢先生は腕組みの格好でこちらを見下ろしている。
「手紙入れといたのに、気付かなかったのかよ」
「ああ、あの果たし状ですか」
そう言って睨みつけてやったのに、大矢先生は思いっきり吹き出して、腹を抱えて笑い出した。ただし、背中はしっかり下駄箱にくっつけたまま。
「やべえ、その発想はなかったわ」
何がおかしいんだ、こいつ最高にムカつく。
「いいから、靴取らせてください!」
私は大矢先生を押しのけようとした。ところがその途端、素早い動きで腕を掴まれてしまった。
虚を突かれ呆然とする私に、大矢先生は相変わらずの笑顔でこう言った。
「さあお姫様、お城に参りましょうか」
「いや、――言い方、キモいんですけど」
キモいというか、真夏なのに寒い。
私は大矢先生に手を引かれ、再び旧校舎に向かっていた。
「先生、ちゃんと行きますから。手を放してください」
「駄目」
「なんで!」
「逃げるつもりだろ、お前」
ちくしょう、バレてた。
私はなんとか相手の隙を作ろうと、必死で頭を回転させた。
「ていうか、あの姫?ってアレ、なんなんですか?私そういうガラじゃないですよね、見るからに」
「騎士が守るのは姫って決まってんだろ」
「自分で自分を『騎士』って言うの、恥ずかしくないんですかっ」
大矢先生は歩く速度はそのままに、こちらに振り向きニヤリと笑った。
「もっと歯の浮くセリフ吐いてやろうか」
私は舌打ちを我慢できなかった。歯が浮くかはともかく、本性を出しやがったなこの野郎。
どうにも弱点を突けず歯噛みしているうちに、とうとう数学準備室に到着してしまった。右手で私を掴んだままだった大矢先生は、左手を戸にかけて止まった。
「俺の城に誰かいるぞ、と」
呟きながら戸を開けた大矢先生は、中を見た途端目から光を消した。
「あ、大矢さん。お疲れっす」
軽い口調の声と、タバコの臭いが廊下に漏れる。
「佐野先生。お疲れ様です」
大矢先生が、急に私から手を放した。見上げると、大矢先生は顔に作り笑いを張り付けている。
誰がいるんだろうと大矢先生の後ろから顔を出すと、七三分けに眼鏡という、お堅い見た目の先生がすぐそこにいた。その左脇には、いつか見た木の棒が挟まっている。
――大矢先生が話していた、生徒を脅して授業をする先生だ。
「佐野先生、生徒の前で『さん』付けは止めて下さい」
大矢先生がやんわりと諭すと、佐野先生と呼ばれた人は軽く肩を揺らした。
「もう放課後だし、いいじゃないっすか」
「そういう『キャラ設定』ですよね」
「相変わらずお堅いな」
佐野先生は苦々しい顔になり、ふと私に目を止めて目を輝かせた。
「その子が、例の『狂犬』っすか」
狂犬? 狂犬ってなんだ。
「うわー、大矢先生が指導する事になったんですか? ご苦労様です」
笑みに憐れみを混ぜた声音に、私の胸が突かれたように痛くなった。私は、大矢先生が可哀想に見えるほど酷い人間、もしくはそれ以下だと思われているのか。
「佐野先生。今から彼女と話があるので、部屋を出て頂けませんか」
大矢先生の声がするも、私はその顔を見上げる事ができない。
「あー、すいません。すぐ出ます」
佐野先生は、机にあった灰皿でタバコを揉み消した。そしてこちらに近づいたとおもったら、突然私の頭を木の棒の先で小突いた。
「おい。ぎゃあぎゃあ吠えてないで、先生の言う事をよく聞けよ?『狂犬』ちゃん」
2回、3回と繰り返される打撃に、私のプライドが暴発した。
――見下すな。
私は振り下ろされた棒の先を掴んだ。相手が驚いた隙をついて、体を捻るようにして棒を引き抜く。
「え、ちょちょちょ!」
――こいつ、弱い。
あっさりと棒を奪われた相手の太ももをめがけ、私は全力で棒を振り下ろす。
――潰してやる!
しかし。私が打ち据えたのは、両腕を眼前でクロスする格好で滑り込んだ、大矢先生の上腕だった。
「え、あ」
私は木の棒を握ったまま、大いに狼狽えた。なんだ今の速さは。何者なんだこの人。いや、ど、ど、どうしよう、大矢先生を殴るつもりなかったのに!
「あああああ! あああああ!」
悲鳴を上げたのは、佐野先生だった。大矢先生は痛みを呑み込むように深呼吸をすると、机にぶつかって逃げ場を失った佐野先生を振り返った。
「俺の言ったこと、理解してくれましたか」
こくこくと頷く佐野先生に、大矢先生は強い口調で命令した。
「黙って出て行ってください。後で話しましょう」
「あの、一応すいませ――」
「出てけ!」
佐野先生は小走りに逃げて行った。大矢先生はゆっくり立ち上がり、痛そうに右腕を振った。
「いってぇー。お前、全力出しすぎだろ」
「あの、ごめんなさ、い」
「気にすんな。てかお前、いつまでそんなもん握ってんだ」
大矢先生は私の両手から木の棒を抜き取って、数学準備室の隅に転がした。カラカラという音が、ますます私を追い詰める。
「――先生」
「ん?」
「狂犬って、なんですか」
「あー」
大矢先生は気まずそうに、左手で前髪をかき混ぜた。
「東がな。お前のことをそう言ったってだけだ。気にすんな」
「私、大矢先生のお荷物、なんですか」
「それは違う!」
大矢先生は叫ぶように即答した。だけどその後言葉が続かないのか、苦しそうに手を動かし目を彷徨わせる。
――そんなの、もう信じられないよ。
私は体を震わせて、必死で声を出した。
「私は、何を怒られるんですか。私は何が足りないんですか。足したところで、まともになれるんですか」
ずっと思っていたけど言えなかった疑問が、涙と共に口からこぼれていく。普通になりたい。まともになりたい。だけど私には決定的な何かが足りなくて、人以下の、狂った犬畜生扱いしかして貰えない。
しゃくり上げる私の頭に、そっと大きなてのひらが載せられた。温かくて、頼りたくなる手。だけど、甘えたら邪険にされるであろう他人の手。
「今日は帰れ。――ごめんな」
手をのけられた途端に、心は急速に冷えていった。
私はもう、誰にも関わらない。
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