第17話 導火線

 翌朝。

 私はけたたましく鳴る目覚まし時計を、叩き潰すようにして止めた。

 いつもの6時。体が、いつになく重い。

 

 昨夜寝たのは、日付が変わって3時頃だった。

 一人で飛び散った料理や割れた皿を片付けたり、汚れた服や雑巾を洗濯機で回したり、寝入ってしまった康人のために掛け布団を2階から降ろしてかけてやったり。

 その後軽くシャワーを浴びて、宿題をして、予習と復習を済ませたら、睡眠時間は3時間しか残っていなかったのだ。

 私は布団から起き出して、少し頭痛のする頭を拳で叩いた。制服に着替え、鞄を持って1階に向かう。

 玄関のたたきを見ると、父の靴だけがない。どうやら、昨日の夜から帰っていないらしい。

 ――逃げやがって。

 今まで感じなかった苦々しさを呑み込みつつ、リビングのドアを開ける。康人が掛布団にくるまって、健やかな寝息を立てている。

 私は台所のシンク下からフライパンとお玉を取り出して、康人の耳元でガンガンと叩いた。

「うわっ、うるせ!」

 飛び起きた康人に、私は無表情な顔を寄せた。

「おはよう、もう6時半だぞ」

「え? 俺、いつ寝たの?」

「大暴れした後」

「誰が? 親父?」

 私は小さく息を吐いた。康人は、昨夜の自分を忘れているらしい。忘れた事は、もう責めようがない。

「とにかくシャワー浴びてこい。昨日入ってないんだから」

 康人は首を捻りながら立ち上がり、歩き出そうとして急に止まった。

「姉貴。後ろ寝ぐせ」

「もういい。面倒くさい」

 康人はふうん、と返事をして、今度こそ風呂場に向かった。

 襖の向こうから、母が着替える衣擦れが聞こえた。私の胃が、鉛を呑み込んだかのように重くなった。




 ――眩しい。

 牛乳しか喉を通らなかった私は、少し早めに家を出た。くすんで見える青空と黄色く濁った太陽が、やけに目に刺さる。

 母は、昨日の事を何も言わなかった。何事もなく振舞う母の笑顔は、康人にだけ注がれていた。

 私は、そんな母にも不愉快さを感じていた。康人が暴れた時、母の手で閉ざされた襖。あの場面が、いやにリアルに蘇る。

 とにかく、体も心も頭も疲れ切っていた。本気で学校が来いと心で唱えたが、そんな事起こるはずもない。

 やっと校門が見えたところで、私は後ろから衝撃に襲われた。

「ふーたばちゃんっ」

「う」

 目の前がぐらっと揺れる。振り返ると、河野さんが満面の笑顔で立っていた。が、すぐに訝し気な表情に変わった。

「どしたの? クマすごいよ」

「なんでもない」

 返事をするのも億劫だ、早く席に着きたい。椅子に座りたい。

「マジでどしたの、後ろ髪がすんごい跳ねてるじゃん! そだ、私ブラシとか持ってきてるから。教室で直そう!」

「もういいってば! ――ちょ!?」

「よくないでしょ、それ絶対に東が攻撃してくるから!」

 河野さんは、嫌がる私を強引に引っ張っていく。あれよあれよという間に、私は自分の教室に放り込まれた。

 私の教室に一緒に入った河野さんは、まず私を自席に座らせた。

「はい、ちゃんと座って」

「は、はい」

 それから自分の鞄を開けて、中から小さなヘアブラシを取り出した。

「河野さん、それ校則違反」

「黙って前を向けい!」

 私は慌てて背筋を伸ばし、黒板の一点を凝視した。河野さんは手櫛とヘアブラシを交互に使い、丁寧に後頭部の髪を梳かしていく。

「くっそ、直んねぇ」

 河野さんが忌々し気に呟く。

「だろうね」

 直せるものなら、自力で直している。

 それよりも、やたらと視線を感じる。私と誰かが一緒にいる事が、周囲の興味をそそるらしい。――弱ったな、私は目立ちたくないんだけど。

「双葉ちゃんの髪って、まだお父さんがやってんの?」

「え? えっと、まあ一応」

 なんで知ってるんだ、この子。

「言っちゃ悪いけど、あれは男子向けだよ? 双葉ちゃんは、そろそろヘアサロンとか行きなよ」

「いいよ。もったいない」

 私は男になりたんだ。それに私みたいなクズ人間は、外見に金をかけたところで無意味だろう。

「ねえ双葉ちゃん」

「何」

「昨日の夜、家で何かあった――」

「別に?」

 慌てて被せ気味に即答したものの、私の声は上ずった。私は改めて姿勢を正し、質問に無関心を装う。

 河野さんは絶えずブラシを動かし続けていたが、少し鼻から息を漏らした音がした。

「何かあったら言ってよ。言うだけで楽になる事ってあるじゃん」

 私は黙っていた。家の中の事は、誰にも言う気はない。

「双葉ちゃんの味方って案外いるんだよ?」

 口を閉じたままでいると、河野さんが苦しそうに付け加えた。

「……私が信用できなくても、戸村がいるから」

「いやっ、そういう意味じゃ」

 私は慌てて振り返ったけれど、そこから言葉が出てこない。悩んで悩んで、やっと出たのはこんな言葉だった。

「河野さんに頼らないのなら、戸村君にも頼らない」

「それは極端すぎ」

 少し軽くなった河野さんの声と、5分前の予鈴が重なった。河野さんは、大急ぎでブラシをしまい荷物をまとめた。

「だいぶ良くなったけど、まだちょっとはねてるから。ごめんね」

 彼女は最後に、手櫛で私の髪を一撫でした。指の通ったところから、頭全体に暖かさが広がる感じがする。

「あ、あの、あり、ありがと」

 どもってしまった私を見て、河野さんは目を細めて微笑んだ。

「いいってことよ。じゃあね」

 駆け足で彼女が教室を出ていくのと、東先生が教壇に立ったのはほぼ同時だった。

「起立!」

 戸村君が号令をかける。全員が、急いで自席に向かい机の前に立つ。

「礼!」

 頭を下げて、大声で「おはようございます」と唱和する。

「着せ――」

「全員、起立のまま!」

 東先生が、怒声を張り上げた。何事かと周囲がざわめく中、東先生は私を鋭く睨みつけた。

「渡辺さん、さっさと来なさい!」

 私はため息を呑み込んだ。河野さん、あなたの努力は無駄だったみたい。

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