第16話 尊ばれぬ犠牲

 父は7時前に返って来た。

「美津子は」

 母がキッチンにいないので、きょろきょろと部屋を見渡している。

「寝てる」

 私が夕食を用意しながら答えると、父はかぶせるように詰問した。

「お前、何をした。言わんか」

 怒られる。恐怖で喉が潰れそうなのを必死で開き、なんとか声を絞り出す。

「宗教の人が、来てた」

「何しとんだお前は!」

 後頭部を横なぶりに殴られる。私は慌てて踏ん張った。カレーをご飯の上にかけているところなのだ、カレーが鍋ごと吹っ飛びかねない。

「だから時間までには帰って来いって、さんざん言うとろうが!」

 怒りのせいか、父の口調が生まれ故郷の方言に戻っている。

「帰って来たけど、その前にもう来てた」

「だったらもっと早く帰れ!」

 頬に張り手を受けそうになり、私は慌てて身をよじって逃げた。

「親父、夕飯の用意の邪魔しないで」

「口答えすな!」

 私がダイニングテーブルにお皿を置いたところを見計らって、父はさっきよりも力を込めた平手を私の頬に打ち付けた。よろめいた私を見て満足したのか、父は母が引き籠った寝室に入っていく。

 私はその背中を、寝室のふすまが閉じられるまで見ていた。


 なんでも私のせいにしたいんだね。

 私がいなかったら、お母さんは宗教に狂っていたのにね。

 今日の夕飯だってなかったのにね。


 そんな言葉が心に浮かんだけれど、それは恨みではなかった。可哀想な父を哀れむ、まるで見下すような心持ちだった。自分の心の卑しさに気づいた私は、叫びたくなるのを唇を噛んで耐えた。




 食卓には、父と私と康人の3人分だけが並んだ。母は食欲がないといって、部屋から出てこなかった。

 揃って手を合わせ「いただきます」と唱えた私達は、ただ静かに食事を進めた。今日に限った事ではない、これが我が家の日常である。

 私はカレーを半分まで片づけたところで、ふと思い出して父に顔を向けた。

「親父。成績表が戻って来たから、ハンコを押してください」

 さっき父の逆鱗に触れたので、言葉選びも慎重になる。

「見せろ」

「ご飯の後でいいから」

「今持ってこい!」

 私は自分の部屋にすっ飛んでいき、成績表を掴んで戻って来た。

「これ、です」

 父はスプーンを口にくわえたまま、差し出した成績表をひったくった。それをおもむろに開き、目を細めながら眺めている。

 父はスプーンをねぶるようにして口から出した。

「お前、数学が15位ってバカか」

 父は私を睨んで吐きだした。

「すみません」

 私は顔を伏せた。

「前も言っただろうが。5位以下は全部バカだ、教科1つで見てもそれはおんなじだ。社会も9位だとか、理科も7位だとか。うちの一族に、こんな成績を取った奴は一人もおらんぞ」

「ごめんなさい」

 返事が苦しくなっていく。やる気はある、頑張っている。だけどなかなか成績が伸びない。

 父が皮肉気に口元を歪めた。

「おうおう。家庭科も10位か。女としても欠陥品か、もうただのクズだな」

 女として欠陥品。その言葉が妙に心をえぐった。確かに私は男になりたい、女という性別を捨てたい。だけど、『女としても欠陥品』という表現には、『人として失格』というニュアンスが含まれているように感じた。

 黙っている私を気分よさげに眺めながら、父はカレーを一口食べて口を歪めた。

「これ、お前が作った飯だったよな。おいおい、変なモノ混ぜてねえだろうなぁ、家庭科がバカの料理は得体が知れんから怖いよなぁ、なぁ康人?」

 父が上機嫌でいびつな笑顔を向けた途端、康人は突然テーブルを蹴った。

「おい、何してんだ康人!」

 慌てる父の目の前で、康人は耳をふさいで叫び始めた。

 文字にはできない、獣のような唸り声だ。

「康人、どうしたの、ねえ!」

 私が腕を掴んでも振り払う。目は焦点を失ったかのように宙を見ている。

 テーブルを蹴る勢いは増していき、卓上のスプーンが1つ2つ、床に振り落とされていく。


 父は席を立ってこちらに回り、強引に康人の口を塞ぎにかかった。

「おい、近所迷惑だ! 静かに――いでぇ!」

 康人は父の中指にかぶり付き、父は反射的に康人を椅子から突き飛ばした。その勢いで康人がダイニングテーブルにぶつかって、テーブルごと派手な音を立てて倒れた。カレーもサラダも、全てが床にぶちまけられる。

 父はしばらく固まった後、我に返ったように自分の額を殴った。

「あー、双葉、ここはお前が責任取れ」

「え!?」

「これはお前が怠けた罰だ、ちゃんと元に戻しとけ」

「親父? ちょ、待って! ハンコ!」

 父は大股に部屋を出ていき、玄関ドアの閉まる音が響いた。その間も、康人は駄々っ子のように手足をばたつかせて泣き叫んでいる。

 ふと見ると、襖が細く開いていた。しかし私の視線に気づいたからか、音もなくそっと閉じられた。

 

 私はぼんやりと考えていた。

 本当に、これは私の罰なのか。私が『ちゃんと』していれば、起こらなかったことなのか。

『そんな簡単な話ではない』、私の中の天使が言った。だけどその奥から悪魔が言った、『その通りだ、お前は人間失格だ』。

 そんな題名の本があったなと思いながら、私は康人の隣にしゃがみこみ、強く抱きしめた。康人は唸る事はやめたが、時折思い出したかのように辺り構わず蹴りまくった。

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