第15話 本当の夢
家に入ると、母はリビングの隅で泣いていた。
「なんで、私ばっかり不幸なの……なんで……」
「お母さん。泣いてないで、ご飯作ろ」
母は泣きはらした顔をこちらに向け、恨みを込めた目で私を睨んだ。
「私から幸せになるチャンスを奪ってからに」
「いや、あれは確実にヤバイ系だから」
私が言い返した途端、母は低い声で唸った。
「母親の幸せすら願えないのか、この子は」
それは本気の声音だった。私の心が一瞬大きく歪んで、心のどこかが壊れた気がした。
私はそれでも普通を繕い、ダイニングテーブルに置いた鞄を開けた。
「お母さん、成績表返って来たから。確認して」
しかし母は、その顔を激しく歪ませて言った。
「どうせ輝人より悪いんでしょ。これ以上、私に不幸な思いをさせないで」
母はリビングから続く、両親の寝室へのっそりと移動した。ふすまを閉める直前に、母はぼそりと呟いた。
「やっぱり、娘なんて産むんじゃなかった」
私の心が、さっきよりも激しく壊れた。
康人が帰って来たのは、いつもより少し早い6時過ぎだった。
「ただいまー。あれ、お母さんは?」
「寝てる」
私は、台所でキャベツを千切りにしていた。母が作ろうとしないので、私が代わりに夕食を作っている。
「今日は何が来たの」
康人が大げさなほど渋い顔をしたのを、私は手を止めずに目の端で見た。
「宗教。康人、庭からプチトマトとパセリ取ってきて」
「え、うん。……姉貴、今日カレー?」
「だから何!」
私の返答に、康人は少し怯えたようだった。私は我に返り、強く頭を振った。
「ごめん、私、ちょっとイライラしてる」
「分かってる。採って来る」
康人はリビングの掃き出し窓から庭に出た。その背中を見ていたら、6月のある日の言葉が、急に蘇った。
――お父さんとお母さんが言ってるお兄ちゃんって、お兄ちゃんが『そうなれ』って押し付けられてたお兄ちゃんだ!
康人はどこまで知っているんだろう。どこまでが押し付けられた兄なのだろう、本当の兄はどういう人なのだろう。
知らなきゃいけない気がする。少なくとも両親と大矢先生のどちらが正しいのか、見極めなくちゃいけない気がする。
ぐるぐる考えていると、康人が庭から戻ってきた。
「これだけあればいい?」
「うん」
私は真っ赤なプチトマトと育ち過ぎたパセリを、ステンレスのボウルで受け取った。
「ねえ、康人」
「何」
私はしばらく迷った。そんな私を、康人は怪訝そうにしながらもじっと待っている。
私は、思い切って口を開いた。
「お兄ちゃんの夢、本当に医学部だったのかな」
答えはあっけなく返って来た。
「違うよ」
康人は呆れたように肩をそびやかした。
「やっと思い出したの?」
「いや。そうじゃないけど」
まるっと忘れている事は、今さら言えない。
しかしこれで、大矢先生の方が正しい事が証明されてしまった。私は偽物の兄を追いかけていたのだ。
「じゃあ、本当の夢ってなんだったんだろ」
私がひとりごちると、康人が急に激しい口調で吐き捨てた。
「そんなの、どうでもいい。どうせこんな家にいたら、夢なんて嗤われて潰されるんだっ」
「康人、そんな言い方やめろ」
私はこの時、察するべきだった。私が康人の心の何かに、うっかり触れてしまった事に。
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