第三章・孤独な壁
第12話 約束
七月の初め、期末テストの成績表が帰って来た。
出席番号が最後の私は、喜怒哀楽でざわめく教室に紛れながら席に戻り、そっと成績表を開いた。
――8位。
私は複雑な気分で成績表を閉じ、早々に鞄に仕舞った。入学直後の学力試験は15位だったから、順位が上がったのは良い事だ。だけど、兄はずっと5位以内だったらしい。両親に言わせると、それ以下の成績など『社会』の恥以外の何者でもないらしい。
そっと周囲を見渡して思う。一年生は4クラスあるから、5位以内に入った子は各クラスに一人か二人。もし5位以下が恥というならば、この教室の大半は表にも出せない面汚し。
本当にそうなのか。このクラスは一人二人を除いて全員、『社会』から追放すべきゴミなのか。
「はいはい、早く片付けて!」
東先生が、急き立てるように手を叩いた。
「成績表は必ず親に見せて、ハンコを貰って来るように! 自分で勝手に押しちゃ駄目よ!」
私は視線を窓の外に移した。空は久しぶりに青く、綿のような雲が浮いている。考えるのはやめよう、きっと私が『社会』に合っていないだけなんだ。
チャイムが鳴り、戸村君の声が大きく響いた。
「起立!」
私は周囲と同じように立つ。揃って頭を下げ、「ありがとうございました」と唱和する。満足げに東先生が頷き、帰りのホームルームが終わる。
私は鞄を持ち、騒がしい教室を出ようとした。
「渡辺さん!」
呼ばれて振り向くと、『また』戸村君が笑って手を振ってきた。
「『さようなら』、また明日ね」
「――うん、明日」
私は辟易しつつ返事をした。図書室で手伝いをしてくれた日以来、彼は私に帰りの挨拶を強要してくる。5、6年は孤立を貫いてきた身としては、居心地が悪いったらない。
「双葉! いるかー!」
唐突に下の名前で呼ばれて、私はびっくりして廊下側を見渡した。
「大矢先生? え?」
私と目が合った途端、大矢先生は満面の笑みで駆け寄ってきて、廊下と教室の間の窓から身を乗り出した。
途端に、クラスの女子が喜びの悲鳴を上げた。そういえばこの人、イケメン? なんだっけ。
「ふーたば。約束だぞ、話しようぜ」
「え、いや、あの」
歌うように誘われて、私は戸惑った。あと、話ってなんだ。
「あのう、大矢先生?」
いつの間にか、東先生が大矢先生の隣に立っていた。
「女子生徒を下の名前で呼ぶのは、その、あまりよろしくないのでは?」
ちょっと媚びた笑みを浮かべた東先生に対し、大矢先生は明らかに上っ面の笑みで切り返した。
「渡辺は『もう一人』いるんで」
「でもっ! 一年生にはいませんし――あの!」
大矢先生は話を最後まで聞かず、顔を背けるように私に向いて手招きした。
「早くしろよ、時間ねえんだろ」
「え、あ、はい」
私は慌てて廊下に出た。大矢先生は白衣を翻すようにして東先生を避け、私に指先で『来い』と合図する。
ゆったり踊るように歩く大矢先生の後を追いながら、私はそっと東先生の方を見やった。その場にじっと佇む様子に、嫌な予感がざわざわと胸を掻き回した。
渡り廊下を渡って旧校舎に入り、右側の階段を上った中ほどの部屋。ふざけた足取りだった大矢先生は、そこで足を止めた。
「おう。入れ」
見上げると、入り口の上に看板が貼ってある。『数学準備室』。
一歩中に入り、私は少し眉をしかめた。タバコ臭がする。
「なんですか、ここ」
「俺の城」
確かに、そこは『城』だった。普通の教室の半分くらいのスペースに、小型冷蔵庫に電気ポット、電子レンジにコーヒーメーカーにカセットコンロまでが雑多に置いてある。このまま籠城できそうだ。
「とりあえず座れ」
大矢先生は転がっていた大きな三角定規を足で押しのけ、事務用の椅子を引っ張ってきて座面を叩いた。私はおずおずと腰かけた。古いのか、かなり軋んだ音がする。
大矢先生は椅子に座らずに、白衣を脱いで散らかった机の上に投げた。それから窓を開けて腰のポケットから煙草の箱を取り出し、箱を振って器用に一本咥えたところで「あ」と言った。
「いいか?」
「どうぞ」
大矢先生は胸のポケットからライターを取り、火を守るようにして煙草に火を点ける。
ゆったり煙を吐きながら、けだるげに壁に背を預ける大矢先生。私は初めて、煙草を吸う大人をかっこいいと思った。
大矢先生は煙草を最後まで堪能した後、机の灰皿に手を伸ばして揉み消した。
「じゃあ、話そうか」
「何をですか」
「そうだなあ、何からにするかな」
大矢先生は困ったように笑い、視線を床に落とした。
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