第11話 接点
深い深い闇の中、強い流れに任せて漂っていた。抗う力はとっくに尽きて、頭の中も澱んでいる。浮かぶ言葉はたった一つ、それをあてどなく繰り返す。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
何が悪いのかも分からない。だけど胸の中は後悔だらけだ。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
――もうやめろ。お願いだ、謝るな。
「……もう、本当にやめろ……」
掠れた低い声が、雷鳴に隠れるように聞こえた。私はゆっくり目を開けた。白い虫食い模様の天井。白く輝く蛍光灯。ここは保健室のベッドの上なのだと、なんとなく気が付いた。ざあざあと、耳鳴りがする。
右手が温かい何かに包まれているのに気づいて、私はそれを確認しようと首を動かした。
「気づいたのか」
右手を包んでいたものから、わずかに力が抜ける。
視線を動かすと、大矢先生が私のベッドの側に座っていた。大きな両手で挟むようにして、私の右手を握っている。
「――ごめんなさい」
私は自分の身に何が起こったのか、なんとなく理解していた。多分、私は倒れたのだろう。そして保健室まで誰かが運んでくれて、大矢先生が監視についたのだ。
「って、今何時ですか!?」
ヤバい、門限!
「家には、別の先生が電話してくれたから。焦らなくてもいい」
「いや、帰ります!」
家を空けてはいけない。
「凄い雨だし、俺が送るから」
言われてみれば、耳鳴りだと思ったのは雨音だった。だけどそんなのは関係ない。
「すぐ帰らないと駄目なんです、うちの母は、事情があって一人にできないんです!」
ベッドから降りようと暴れる私を抑えていた大矢先生は、しばらくして口を開いた。
「事情って、『輝人』の事件か」
私は帰ろうとしていた事を一瞬忘れ、大矢先生を恐る恐る見上げた。
「なんで、兄のこと」
「俺は、輝人の担任だったんだ。――輝人を死なせたのは、きっと俺だ」
大矢先生の迷いながらの発言は、私にはすぐ受け入れられる物ではなかった。
しばらく互いに黙った後、最初に口を開いたのは大矢先生だった。
「俺は気づいてたんだ。輝人が、追い込まれているって。知っていて、止められなかった」
「兄は生きています」
私は淡々と答えた。
「兄は強い人でした。男の中の男でした。だから、自殺なんてするわけがありません」
私が、父から聞いたそのままを言い切ると、大矢先生の眉が少し動いた。
「まだ6、7歳のガキだったお前に、あいつの何が分かるんだ」
私は記憶がない事を見透かされた気がして、思わず強い口調で言い返した。
「じゃあ先生は、兄の何を知っているんですか!」
「親に言えない悩み」
そんなものあるかと言い返そうとしたら、その前に大矢先生が被せるように聞いてきた。
「お母さんを一人にすると、どうなるんだ」
「え? ――あ。あー、今は、分からない、けど」
私は額に手をやり、状況が一番悪かった時期を思いだした。
「信仰宗教の人が家に来たり。家に落書きされたり、いたずら書きをポストに入れられたり。それでお母さんの気分が、荒れて」
「うん」
「それが、康人……弟に伝染して。叫んだり、暴れたりして。私じゃないと、泣き止んでくれなくて」
昔の康人は、とても敏感な子供だった。周囲の空気が少しでも変わると、まるで赤ん坊に返ったかのように泣き喚く。父や母が宥めても聞かない。
「今は、私が帰るまでは外に出るなって、父が強く言ったから、そういう事はないです。けど――やっぱり、急いで、帰らないと――」
言っているうちに、言葉が紡げなくなるほど不安があふれてくる。こんなことをしている場合じゃないんだ、私がいなくちゃ家族が壊れてしまう。
「やっぱ私帰ります」
無理やりベッドから出ようとすると、大矢先生が強く腕を掴んだ。
「だから待てって」
「何でですか」
大矢先生は酷く迷った様子だったが、何かを決意して口を開いた。
「話さないか」
「何を」
「輝人の事、お前の事。俺は、お前と話がしたい」
強い目で見つめられる。押し切られぬよう、私もその目を睨み返す。
互いが互いに、心の奥まで探る様に瞳を覗き込んでいる。
「今度。今度でいいですか」
根負けしたのは私だった。大矢先生は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
「そうだな。今日はさすがに無理だよな。悪かった」
そう言うと、大矢先生はちらりと自分の腕時計を見た。
「もう平気なら、車で送ってやるよ。どうする」
「じゃあ、お願いします」
「分かった。支度して待ってろ」
大矢先生は立ち上がって、軽い駆け足で出て行った。ふわっと何か香った気がしたのだが、気のせいだろうか。
少しぼんやりした頭で、私はベッドから降りた。荷物は足元のカゴに入れられていた。私はスカートのしわを確認した後、髪を手櫛で整えながら廊下に出た。
保健室は職員室のすぐ近くだ。私がどちらで待つべきだろうと迷っていると、昇降口の方から足音が聞こえてきた。
「双葉」
怒気を孕んだ低い声に、私の心臓は跳ね上がった。
「親父、なん――」
全部を言い終わる前に、私は平手でふっ飛ばされていた。びたん、とビニールの床に体が打ち付けられ、起き上がる間もなく髪を掴まれ引きずり起こされた。
「親に迎えに来させるなんて、いいご身分だなあお前は!」
どう答えるべきか迷っていると、父が私の耳元でがなり立てた。
「お前が帰ってこなかったせいで、家がどうなったか分かってんのか」
私は息を飲んだ。まさか、今になって何か起こったというのか。
「美津子が投書を見つけて泣き喚き、それが康人にも伝染してガキに戻り、家の中はぐちゃぐちゃだ! 家の事は長男代理のお前に任せると、俺はお前にしっかりと言いつけてあったよな!」
「ごめんなさ――」
「謝れば許されると思ってんのか、このボケが!」
父は、私の額を床に強く打ち付けた。そして今度は私の襟首を引っ張り、ぐいっと強く引いた。
「立て! 職員室に頭下げに行くぞ!」
私は急き立てられるように引きずられ、父が開けた出入り口から職員室に押し込まれた。
「渡辺でございます! 本日は、うちのバカ娘がご迷惑をおかけしました!」
勢いよく直角に頭を下げた父に叱られまいと、私も必死で頭を下げる。頭がぐらぐらして気持ち悪い。
「担任の東恭子先生は、どちらにいらっしゃいますか」
「あ、あの、私、です」
フルネームを呼ばれた東先生は、少し引き気味に立ち上がった。完全に怯えている。
父はまた私の襟首をつかみ、そちらに引きずっていった。
「うちのバカが、本当にご迷惑をおかけしました。体調管理をしっかりするよう私からも言いつけますので、何卒先生からも厳しいご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
「いえ、それは奥様からも伺っておりますので……」
「恐縮でございます。――双葉、お前も頭を下げんか!」
父は私の後ろ髪を掴み、強引に押し下げた。私は屈辱を感じる暇もなく、なすがままに頭を下げた。
「コラ、お願いしますとはっきり言わんか!」
私は、言いたくないと奥歯を食いしばった。父が更に私の髪を引っ張ろうとしたとき、横から慌てたように別の女の先生が割って入った。
「まあまあ! 今日は彼女も体調が悪いわけですから、早く休ませてやって下さい」
すると父は慌てた顔になり、その先生にぺこぺこと頭を下げた。
「すみません、我々が先生方の貴重なお時間を奪っておりました」
「いえ、そうではなくて――」
「それでは、この辺で失礼いたします。おい双葉、挨拶!」
「失礼しますっ」
息切れがして声がかすれた。
「もっと元気のいい声を出さんかっ」
父にまた頭を後ろをひっぱたかれ、私は軽いめまいを起こした。
また急かされるように出入口へと押し出される中、私は目の端で大矢先生を探した。
大矢先生はこちらに背を向けていた。机に両手をついて、白衣の背中を丸めるようにして立っていた。車の鍵を握りしめた右手が、少し震えているように見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます