第10話 陰口と記憶

 東先生の発言は止まらない。

『どうにも渡辺は反抗的な生徒でして、私も手を焼いているんですの。図書委員会の顧問をなさっている大矢先生には、本当に問題児を預けてしまって』

『いい生徒ですよ』

 大矢先生が、被せるように発言した。

『僕は見た通り不器用ですから。彼女にはシール貼りだとか細かい作業を手伝ってもらったり、図書のルールを教わったり、他にもいろいろ助けてもらっていますよ』

 大矢先生の言葉に、私は少しほっとした。ほっとした後、慌てて首を振った。家族以外の人間は、みんな敵だ。嫌われたところで何だというのだ。


『それは、本当の彼女を知らないから言えるんじゃないです?』

 東先生の声に、ますます攻撃性が増した。

『家庭訪問の時に、ご両親にも言われたんですよ。うちの娘はあまりにも躾がなっていないから、しっかり叱って欲しいって。なんなら体罰もやってくれって。私もそれはさすがにって思いましたけど、本当にあの子は反抗的で、いくら叱ってもずーっとだんまりで、一切謝らないんですよ。一切、一度もですよ!?』

 東先生は、どんどん興奮して大きな声になっていく。

 私は、東先生が何を怒っているか察しがついた。今日のかえりのホームルームであった事を、ずっと根に持っているのだ。

 だって、あれは本当に私じゃないのに。

 違うと言っても、信じなかったのは東先生の方なのに。


『結局、誰が犯人だったんですか』

 大矢先生は、間延びした返答をした。

『は?』

『怒ってるのって、今日黒板に落書きされた事件の事でしょう。生徒から聞きましたよ』

『いや、今はその話じゃなくて――』

『渡辺双葉じゃなかったんでしょう、犯人は見つかったんですか』

『いえ、それは……見つかって、ません』

 東先生のテンションが下がった。

『いつまでも恨まない事ですよ。教師やってれば、そんな事いくらでもありますから。疑ってしまった渡辺双葉に謝りさえすれば、その場は収まりますしね』

 大矢先生はにこやかに言っているが、私は東先生に謝られていない。謝るような人なら、あんなキレ方はしないと思う。


 ――大矢先生って、キレイ事好きなオコサマなんだな。

 私は急に大矢先生への興味を失った。子供に頭を下げるような大人は、恥を知らない愚か者だ、父はいつもそう言っている。大矢先生は、大人社会ではきっと格下なのだ。

『そういう事ではなくて! 私はお話を聞いて欲しいんです、渡辺は本当に手のかかる生徒なんです! 身だしなみもボロボロだし、協調性もないし、だからご両親からもわざわざ厳しくしてくれってお願いされるくらいですから!』

 必死で言い募る東先生は大声なのに、発言にはもう力がなかった。きっと大矢先生が聞く気を失ったのだろう。

 ――帰ろう。なんでこんな話を聞いちゃってんだ。


 私がやっと歩き出した時、唐突に机をぶん殴ったような音がした。私はびくっとして、職員室を振り向いた。

『そんなもん信じるんじゃねえ!』

 がちゃっという今の音は、おそらく椅子を蹴って立ち上がったんだろう。

『すべての親が、子供を思っているわけじゃねえ! 愛と支配をはき違えてるバカは沢山いるんだよ!』

 さっきまでと違う殺気だった気配に、私の心臓がドクドクと強く打つ。

『……大矢先生』

 年配の、男の先生の声がする。すると職員室は、急に静かになった。

『ひっどぉい』

 東先生の呟きが、やけに大きく聞こえる。

『怒鳴るなんて酷いじゃないですかぁ……私、大矢先生にちょっと愚痴を言いたかっただけなのに……相談したかっただけなのに……』

 とても胸が痛かった。急な音に驚いたり、大矢先生の怒りに触れたのもある。だけど東先生の言葉にも、声音にも、大矢先生の願ったものが響いていないのが感じられた。


 いつのかも分からぬ記憶が蘇る。どんなに必死に訴えても、私の話だけ無視された。泣いてみても冷たい一瞥があったきりで、私の心は急速に死んでいった。

 思い出のせいで、胸の痛みは息苦しいほどに増した。


 ヒールの足音が小走りに近づいてきて、私は我に返った。やばい、きっとこれは東先生だ。ここを逃げなきゃ。

 だけど私の足元は、妙に覚束なかった。そこに不意打ちのように職員室の出入り口が開けられた。飛び跳ねそうな心臓を抑えて見上げると、口元に手を当てた、一見泣きそうな顔をした東先生が、飛び出そうとするのを踏ん張るように立っている。

「渡辺さん、あなた、なに盗み聞きしてるのよ!!」

 手をどけた東先生は、鬼の形相だった。それが私の脳裏で何かに結びつき、途端に息ができなくなった。

「先生が聞いてる事が分からないの! 早く答えなさいよ!」




 東先生の手が伸びてきたまでは、見えていた。それから視界が暗くなっていき、胸倉を揺さぶられるまでは分かった。だけど指の先から体が冷えていって、力がどんどん抜けていく。激しいはずの声も、こもるようにして遠ざかる。


 ――沈む。


 意識が消える寸前、誰かが背中を支えてくれた気がした。けれど、その記憶は定かではない。

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