第9話 職員室にて

 図書室の鍵を閉めた私は、二人と1階の廊下で別れた。他人といると、歩くだけで疲れるのがよく分かった。特に河野さんが落ち込んでいて、空気が重い。


「それじゃ、また明日ね」

「……バイバイ」


 はっきり挨拶してくれた戸村君と、何故かふてくされている河野さんに、私はただ「ありがとう」と答えてすぐ職員室を目指した。少しだけ時間は短縮できたが、今日もやっぱり時間がない。さっさと鍵を返して家に戻らねば、門限を超えてしまう。


 私は小走りに職員室の入り口前に向かい、引き戸を開けた。

「失礼します」

 中には多くの先生がいて、ノートパソコンに向かっている。私に気づいた先生も数名いたが、すぐに画面に視線を戻した。

 私は入ってすぐの壁に向かい、キーボックスを開けた。『図書室』とシールが貼られた位置に鍵をひっかけ、ボックスの蓋を閉じる。それから大矢先生の元に向かう。図書室を閉めた報告をするためだ。


 ところが。

「先生、失礼します」

「……」

「大矢先生?」

「……」


 大矢先生はノートパソコンに没頭していて、私の声が聞こえないようだ。というか、キーボードを人差し指二本だけで操作するのって、とても非効率だと思うのだが。――あ、打ち間違えたみたい。Deleteキーを連打している。これは時間がかかりそうだ。


 私は覚悟を決めて、息を大きく吸った。腹の底から大声で、一喝。

「大矢先生、失礼します!!」

「うおおお!?!?!?!?」

 大矢先生は、慌ててノートパソコンに覆いかぶさった。

「なんだ、双葉かよ。脅かすなよ……」

 あれ、私の呼び名から『渡辺』が取れている。

「うっそ、もうそんな時間か!」

 大矢先生は時計を振り返り、見事なまでに二度見した。

「やっべ、テストの提出期限に間に合わねえ……」

「え、それ期末テストなんですか!?」

「おう、二年生のな」

 私は一応聞いてみた。

「提出期限って、いつですか」

「……一応、今日」

 気まずそうにつぶやいた大矢先生に、私はうっかり言ってしまった。

「手書きの方が早くないですか。先生、パソコン使えてないから」

 途端に、隣の七三ヘアの先生が「ブフォッ」と吹き出し、声を殺して笑い出した。それにつられて、周囲の先生達もクスクスと肩を揺らしている。

 私は大矢先生に恥をかかせた事に気づき、体が一気に強張った。

「ご、ごめ、ごめんなさい!」

 なんとか体を動かして、腰が直角になるまで勢いよく頭を下げた。子供を大人を笑い者にするなんて、絶対にやっちゃいけない事だ! ああ、自分が笑われているとき以上に息が苦しい、胸が痛い!


「――やっぱそうだよなぁ」

 ところが聞こえてきた大矢先生の声は、むしろ愉快そうだった。

 恐る恐る顔を上げると、大矢先生は閉じたパソコンの上で頬杖をついて笑っている。

「しゃあねえ、残りは手書きにするわ」

 気分を害した様子がないのに安堵していると、さっきの七三ヘアの先生が意地悪く言った。

「大矢さん、一人だけ昭和の技術ですよ」

 小声で笑っていた先生達が、どっと爆笑した。大矢先生が苦い顔をしているのが分かって、私は思わず胸の辺りのボタンを握りしめた。

 結局、私は大矢先生をこの場の笑い者にしてしまったのだ。辛すぎて息が苦しい、胸が痛い。――相手の痛みが跳ね返ってくるって分かっているんだから、私なんて最初から口を開かなければいいのに。

 私が深く後悔していると、大矢先生が笑顔になって私の頭に手を載せた。

「そんなに気にすんなよ。当番お疲れさん」

「……すみませんでした」

「だから気にすんなって。不器用なのは事実だから」

 もう一度謝ろうとしたが、先に「気を付けてな」と手を振られてしまった。私は仕方なく「失礼しました」と挨拶をして、大矢先生の席から離れた。


 出入り口に向かう途中、東先生の席の近くを通った。私は少し立ち止まって会釈した。

「失礼しました」

「早く帰りなさい」

 東先生は返事も返さず、あごで私を追いやった。私はその態度にもやっとしつつも、職員室の戸を開けて外に出た。

 廊下から振り返り深く礼をする。そっと戸を閉じて昇降口に向かおうとしたとき、職員室から東先生の声がした。

『大矢先生、よろしいですか』

 やけに耳障りな、若作りした声。

『はい、なんでしょう』

『いつもいつも、うちのクラスの渡辺がすみません。お機嫌悪くされましたでしょう? 本当に、担任ながら恥ずかしくなる生徒でございまして』

 その笑みを含む媚びるような、だけど私への悪意ある発言に、私の足が固まった。

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