第13話 兄の秘密
少し沈黙が流れた後、大矢先生がふと視線を上げた。
「あの日、あれからどうなった」
あの日、私が倒れた日。
「――言ったとおりになりました」
7時前に父が戻った時、1階は荒れ放題で、母はリビングの隅で震えていたらしい。康人は大泣きして手が付けられなかったそうだ。
父は私を家に置いて、どこかに消えた。家に入ると康人は私に泣きながら抱き着いて離れず、聞き分けの無い幼稚園児のようになっていた。
私はそんな不自由な状態で夕飯を作り、掃除をし、10時過ぎに返ってきた父に更に殴られた。
「テストの成績も悪かったし、きっと私が弛んでいた罰ですよ」
大矢先生は、もう笑っていなかった。所在投げに視線を彷徨わせ、足元に転がる何かを転がしている。
「それ、何ですか」
「ただの木の棒。指示棒代わりにこれで黒板叩くとな、音がデカいから生徒がしっかり黙るんだってよ」
私はその様子を想像し、とても不愉快な気分になった。
「最低」
「俺も、そいつにはそう言ってんだけどな」
大矢先生は、木の棒を憎々し気に机の下へと蹴り込んだ。
「なんか、色々話す気力がなくなったな。――そういや、成績ってどうだったんだ」
「悪かったって言ったじゃないですか」
私はふいっと顔を背けた。
「私、これでも長男代理なんです。なのにお兄ちゃんより悪い成績なんて、恥ずかしくて親に見せられない」
「で、何位?」
私はぐっと詰まったが、圧に負けて口を開いた。
「8位、です」
「すげえじゃん」
本気で驚いている様子の大矢先生に向けて、私は強く首を振って見せた。
「田舎で8位じゃ駄目なんです、都会の人はもっと賢いし、お兄ちゃんよりも上の成績を取らなきゃ相手になんない」
「いやいや。それだけの成績があれば、ハイクラスの高校に入れるだろ」
私はまた、ぶんぶんと激しく首を振った。
「だから駄目なんです、だってお兄ちゃんの夢って、国立の医学部ですから。医学部は難しいから、田舎の1位でもなれるか難しいんですよね?」
私の問いかけに、大矢先生は答えなかった。目を見開き、口を押えて固まっている。心なしか、顔が青ざめて見える。
「先生、まさか私、間違ってる、とか」
大矢先生は、少し目を動かした。だけど体は固まったままだ。
「迷ってられねえ」
大矢先生は、やっと体を起こした。それから強く頭を振って、整えられた髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「双葉。これから言う事は、俺とお前の秘密だ」
「はい?」
私が小首をかしげる。大矢先生は、苦しそうに口を開いた。
「輝人の夢は、医学部じゃない」
「は?――は!?」
だって、父だって母だって口をそろえて言っている、輝人の夢は国立の医学部だった、だから長男代理のお前も夢を継げと!
「じゃあ兄の本当の夢ってなんですか」
「さあな。それを聞く前に行っちまったから」
「行くって、どこへ」
「……ヒガン、かな」
ヒガン。よく聞く単語の気がするけど、意味がすぐ出てこない。
「それだけは、俺が本人から聞いた事実だ。親に言い出せない、親に背くことができないって、そこに座ってよく泣いてた。自分の人生は『人間失格』そのものだって、喚いてた」
大矢先生は、私の座っている場所を見つめた。私は小さく頭を振った。
「兄は、失格になる人間じゃありません」
「ちげえよ、太宰治の『人間失格』だ」
ああ、小説なのか。太宰治は、『女生徒』と『走れメロス』くらいしか知らない。
「あいつの愛読書だった。今思えば、あいつはあの本に影響され過ぎていたのかも知れない。――バカな奴だよ、味方ならたくさんいたのに」
大矢先生は私を見ているようで、私ではない誰かに語り掛けているようでもあった。
「その本は、図書室にあるんですか」
私が口を開くと、大矢先生は一度大きく瞬いた。
「お前にゃ早すぎる」
大矢先生は、ふいっと外に目をそらしてしまった。急に子ども扱いされて、なんだか感じが悪い。
「さて、そろそろお開きにするか」
「え、でもまだ」
5時の放送は流れていない。門限にも余裕がある。
「お前、早く帰らないとヤバイんだろ」
「はい」
私はしぶしぶ席を立った。教師に出て行けと言われたら、生徒の私は出ていくしかない。
部屋を出る寸前、「双葉」と後ろから呼び止められた。
「また話そう、ここで」
大矢先生の顔は、必死で、とても苦しそうだった。私に兄の事を話した事が、まるで大罪だと思っているように。
「分かりました」
それで大矢先生の気が晴れるなら――と言い足そうかと思ったが、嫌味が過ぎる気がして、やめた。
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