第二章・秘密と真実

第6話 見せしめ

 その日は、帰りのホームルームから荒れていた。


「渡辺さん! 言い訳すらもないの!」

 私の目の前でキャンキャン吠えているのは、クラス担任の東先生だ。すぐ後ろの黒板を力任せに叩きながら、私に向かって怒鳴りつけている。その黒板には『ブスだんご』だとか、『エロエロ教師』だとか、頭が悪そうな言葉が乱雑に書かれている。

 東先生の定番ファッションは、後ろで固くまとめたお団子ヘアと、胸元が開いたブラウスにタイトスカートだ。つまりこの落書きは、間違いなく東先生を示している。


 で、なぜ私が教室の前に立たされ怒鳴られているかというと、クラスの誰かが「渡辺さんがやったんだと思いまーす」とほざいたからだ。頭に血が上っていた東先生は、発言した人間を確認もせずいきなり私の名を叫び、教卓の前に呼びつけた。

 私は最後の授業が終わった後、ずっと図書室で借りた本に没頭していた。だから犯人は私ではない。しかし、証明できる方法もない。


 

 つまり、これはいじめだ。

 私が東先生に怒られて、何を言っても許されない様子を見物する、趣味の悪い催し物なのだ。



「渡辺さん、黙ってないで何か言ったらどうなの!」

「やってません」

 私は懇願もせず、淡々と答えた。それが真実だ。

「はあ? 聞こえない! もっと大きな声で、

 

 私は諦めて、口を噤むことにした。そもそもこの人は、前から私に目をつけている。この前、前髪を自分で切ってきた時も、今と同じように教卓の前に立たされ「見苦しい」だの「身だしなみが分かっていない」だのとつるし上げられた。

 要するに、私を見せしめとして利用しているのだ。そういう後ろ暗さがあるから、黒板の落書きも私の仕返しだと信じたのだろう。


 思い込みは簡単に消せない。端から疑うような人間など、信じさせるなんて不可能だ。だから私にできる事と言えば、相手の気が済むようにサンドバッグになってやる事だけ。

 いじめる側はそれを知っている。落書きされた言葉も含めて、実に趣味が悪い奴らだ。


「大人をバカにするのも、いい加減にしなさい!」

 東先生が右手を振り上げた時、誰かが勢いよく椅子を蹴る音がした。

「先生! 渡辺さんはやっていません!」

 どこかで聞いた声が教室に響く。号令係の学級委員長だ。

「は? しょ、証拠は!」

 興奮しているからか、東先生が舌を噛む。

「僕は、彼女がずっと席で本読んでるの、見てました!」

 東先生は、イライラした顔で発言者を上から下まで見回している。振り上げた拳のやり場に困った、という感じである。

「あの、私も見てます……」

 今度は、弱弱しい女子の声がした。こちらは誰か知らない。

「私が消しゴム落としたの拾ってくれて、それからずっと文学全集を読んでました……」

 そんな事あったっけ。久木田独歩にハマっていたから覚えてないや。


 東先生は苦々しい顔になり、私の後ろに向かって叫んだ。

「渡辺さんが、本を読んでいたのを見ていた人!」

 それから少しの沈黙があって、東先生の顔が苦々しく歪んだ。どうやら、他にもいたようである。

 東先生は、私を更にきつく睨んだ。

「やってないなら、やってないって言いなさいよ。あなたが黙っていたせいで、ホームルームの時間が潰れたじゃないの! どうしてくれるの!」

 ちゃんと言いました、という反論は飲み込んだ。大人は子供の言う事を聞かない。大人は、子供に責任なんて負わない。

 私もいつか大人になると、こんな醜い表情で子供を怒鳴るようになるのだろうか。嗚呼、絶望だ。




 帰りのホームルームでの連絡事項は、期末テストまであと1週間だということと、部活動が休みになることだった。東先生がそれだけ言ったところでチャイムが鳴り、いつものように学級委員長が号令をして解散だ。東先生は私の方を見る事もなく、いつものようにさっさと教室を出て行った。

 周囲で別れの挨拶が飛び交う中を、私はいつもの如く黙ってすり抜け廊下に出る。そしていつものように窓ガラスから旧校舎を見やり、その屋上をぼんやりと眺める。


 ――あの高さなら、死ねるかな。


 最近、何を見ても死ぬことばかり考える。木を見たら首を吊れる太い枝はあるかとか、階段から後ろ向きに落ちたら死ねるかなとか。大人になって心や表情が醜くなる前に、清らかなまま死にたいとか。自殺であれば両親に疑いがかからないから、心置きなく死ねるなとか。

 なんだか、生きる事が辛い。楽になれるなら死にたい。


「何、物騒な顔してんだ」

 背後から声をかけられて、私は我に返った。

 私はいつもの無表情を作って、声の主の方に体を向ける。いつものように黙って会釈をしたら、大矢先生の暗い声が少し上から聞こえて来た。

「校舎の4階から飛び降りて、生き残った奴がいるらしいぞ。そうそう簡単には死ねないもんだな」

 恐る恐る顔を上げたら、すぐそこに大矢先生の顔があった。無表情だけれど、妙に視線が刺さる。

「ほら行くぞ。今日はお前、当番だろ」

 背を向けて歩きだした大矢先生の後ろを、私は慌てて追いかける。


 今の言葉は、私の考えを読んだのだろうか、それとも知識を披露しただけなのだろうか。読まれたのだとしたら、――嫌だな。それこそ死んで消えてしまいたい。

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