第5話 ほころび

 夜の11時半も回った頃、私はやっと自主学習を終えようとしていた。

 私は、兄が目指していた医学部を目標にしている。できれば自分の実力を知るために塾通いや模試を受けたいのだが、『輝人にはそんなもの必要なかった』と父に言われてしまった。

 田舎は学力が低いとか、医学部は常に一位を取るくらいの成績が必要だとか、そういう情報は全て父と母から聞いている。親が言うからそうなんだろうが、やっぱり情報の裏付けは欲しいし、客観的な評価も知りたい。

 こんな臆病な私はきっと、兄よりも度胸がなくて男らしくもない。本当に女は脳も心も脆弱だ、どうしてこんな体に生まれてきたのか。


 そろそろ父の食器を洗わねばと思っていた時、小さく襖がノックされた。

「姉貴。いい?」

 康人の声だ。

「どうぞ」

 返事をしてやると、康人がそっと襖を開けて入って来た。

「お前、何時だと思ってんだよ。小学生なんだから9時には寝ろよ」

「目が覚めたんだよ。てかさ」

「何」

 康人はそこで少し黙った。

「姉貴に、さ。ずっと……その、聴きたい事、あったんだけど」

 何を緊張しているのか、つっかえつっかえで必死に言葉を繋いでいる。

「なんだよ。怖がらずに言ってみろ」

「――姉貴って、レズなの?」

「は」

 突拍子もない質問に、私は変な声を漏らしてしまった。

「いやだって、姉貴、ずっと男みたいな話し方してるから。もしかして、て」

「康人。それは考え方から間違ってる」

 私は康人を手招きして呼び寄せ、その肩に右手を置いた。

「レズと言うのは、女性ばかりを好きになる女性の事。私はまだ恋とかしたことないけど、おそらくレズじゃない」

 むしろ女は恐ろしい。集団で攻撃してくるから。

「じゃあ、なんで男の喋り方するの」

「『長男代理』だからだよ。なよなよした【女】のままで、どうやってうちに来る悪い奴らを倒すんだ」

 それと、両親がそう望んでいるから。兄の恰好をして男の言葉を話す私に、一時でも喜んでくれたから。

「じゃあ、姉貴はスカート履かないの」

「制服以外に? 履くわけねえ」

 私は腹を抱えて笑った。

「想像してみろよ、気持ち悪くて吐き気がするだろ。キモくて歩く公害レベルだわ」

 ああ、自分で言っていて背筋がぞっと寒くなる。私がスカート? 学校の制服以外じゃ絶対にあり得ない。

「俺は、姉貴に女の子でいて欲しい」

「だからやめろ、気持ち悪い。――私、金貯めて性転換するつもりだから」

 私は、胸に秘めていた思いを初めて口にした。

「大人になったら絶対やる。【女】になんて生まれたら、得する事なんて一つもねえんだよ」

 ニュースを見ても【女】は不利だ。出産適齢期を考えたら、大学を卒業したらまともに働けるのは2年ほど。たった2年で仕事を辞めて、子供を産んで育てて、稼ぐためだけにパートに出て、あとは死ぬまで家族に尽くすだけの人生。


 母を見ていると分かる。【女】は【男】に寄生しなきゃ生きられない。

 だけど私はそんなの絶対に嫌だ。私は【男】のようにずっと社会の中にいたい。


「どうせ親にすら『男のなりそこない』って思われてんだ、ならば真っ当な【男】になった方が早いだろ」

「姉貴は女の子だよ!」

 康人はむきになって叫んだ。

「それにお父さんとお母さんが言ってる【お兄ちゃん】って、お兄ちゃんが『そうなれ』って押し付けられてたお兄ちゃんだ! 姉貴がなりたいお兄ちゃんとお兄ちゃんは全然違う!」

「えと、康人。分かったから落ち着け」

 弟ながら大人びた子だと思っていたけど、やっぱりまだ小学生だな。何を言っているのかさっぱり分からん。


「お兄ちゃんが消えた時、康人はまだ3歳とか4歳とかだったろ? そんな頃の事なんて、普通は小さすぎてよく覚えてないはずだよ。だけど親父とお母さんは、14年もお兄ちゃんを見続けてきたんだ。だから確実な記憶は親父とお母さんの方――」

「姉貴までお兄ちゃんの事忘れたの!?」

 私の視線が右へと彷徨う。消えた7年分の記憶がバレたのか。

 いや大丈夫だ、康人になんて見破られるものか。

「忘れるわけ、ないじゃん。河原に一緒に行ったの、覚えてるし」

 唯一残っている記憶。眉間にしわを寄せ、広い川の対岸を睨む、厳しい顔をした兄の顔。

「だったら、なんでこんなマネしてんだよ! あの時の事覚えてんのなら、なおさら分かんないよ!」

「え?」

 どういう事だろう。あの日、兄に何かあったのか?

「いい加減かわいい自慢の『お姉ちゃん』に戻ってよ! 本当は【男】になんてなりたくないくせに、このままだとお兄ちゃんの二の舞だよ!」

 二の舞? 二の舞って、何が? どういうこと?

「いや、絶対にかわいくはない。――キモ過ぎる」

「俺の記憶が『確か』なら、昔の姉貴はかわいくて優しかった!!」

 康人はムキになって叫び、荒々しく襖を閉めて出て行った。私はしばらく何も考えられなかったが、机の上の時計が12時を指しているのを見て席を立った。

 お父さんの食べた食器を片付けよう。朝ごはんの用意もしておこう。あと、前髪も切らなくちゃ。


 康人の言葉なんて、気にしている暇はない。

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