第4話 『長男代理』

 着替えて夕飯づくりの手伝いをしていたら、玄関のドアが閉められる音が響いた。


「康人!」

 母が優し気な笑みを浮かべて、玄関へと小走りにかけていく。

「おかえり。んもう。遅いから心配したのよ?」

「門限の六時半は守ったじゃん」

 康人は『ただいま』も言わず、ふてくされた口調で言い返している。


 母が心配していたのは事実だ。もう20分は前から「あの子は大丈夫かしら」とか、「迎えにいこうかしら」とか、ずっとそわそわして落ち着かなかった。「過保護になるから止めなよ」と諫めると、「あんたみたいな心の冷たい人間が、『長男代理』なんてホント情けない」と、しつこく罵られた。

 ――もう、ずっとこんな調子だから慣れているけど。母にとって『長男代理』とは、不安を受け止めてくれるサンドバッグの事らしい。

 出来上がった麻婆豆腐を大皿に移していると、康人がキッチンにやってきた。私より3つ年下なのだが、愛らしい見た目に反して態度は少々デカい。


「姉貴、ただいま」

「おかえり。お前、お母さんに『ただいま』って言った?」

「知らねえよ」

「駄目、ちゃんと言いなさい」

「それよりさあ、手伝うことある」

 康人は小言が聞きたくないのか、私の注意を無視した。私は説教を諦めて、炊飯器の方を見やった。

「とりあえず3人分ついどいて。親父はどうなるか分かんない――」

 その時、何かをひっくり返す音が両親の寝室から響いた。

『毎日毎日、バカみたいに遊び惚けて!』

 母の声だ。父からメッセージが届いたらしい。


 私は康人と顔を見合わせ、互いの渋い顔を確認した。

「姉貴。お父さんはパチンコ、確定」

「はいはい。今日も家族全員揃いませんでした、と」

 私と康人は、黙ってテーブルに3人分の夕食を用意した。




 夜の10時を過ぎた頃、父がやっと帰って来た。

「お帰り」

「飯は」

 出迎えた私になんの挨拶もない。母はふてくされて眠ってしまい、父の相手はいつも私一人だ。

「テーブルの上に用意してる」

「おい、もっと背中を伸ばせ。『長男代理』」

 すれ違いざまに、父が力いっぱい私の背中を叩いた。

「痛った!!」

 思わず背中を反ると、父の目は私の胸で止まった。

「でけえなあ、男に揉まれたか」

「んなわけあるか!」

 板についた男口調で答えると、父はニタニタと笑って私の胸に手を伸ばした。

「じゃあ、自分で揉んで育ててんのか?」

「親父、酔ってんのか!」

 手を払いのけると、父は面白そうにケタケタと笑った。

「お前は『長男代理』だしな、自分の子種がどう育ったか、父親の俺は確認せにゃならん」


『長男代理』。それは、父が言い出した言葉だ。

 ――優秀だった輝人が戻ってくるまでの間、お前が長男の代理として家を支えるんだぞ。


 その頃の我が家は、母はうつ状態、父は殺人犯の噂を立てられ、家の壁には酷い落書きが絶えない時期だった。うちは転勤でこの地に来たので、我が家を支えてくれる知人など誰もいなかった。

 私は家族が平和に暮らせるために、『長男代理』を引き受けた。兄の服を着て、両親が語る『勇敢で賢く優しい男子』になりきり、家事も勉強も必死に頑張ってきた。

 

 だけど最近の父は、私を【女】としてからかってくる。嫌だ、私は『長男』だ、【女】の部分なんて一切いらない。


「そ、そうだ。親父、また髪を切ってくれないかな。こんなに伸びると、女々しくて気持ち悪い」

 私の髪は、ずっと父が切っている。康人同様の刈り上げスタイルだ。

 父は途端に、面倒くさそうな顔になった。

「お前は、外で働いて疲れて帰って来た親を労わる事もせず、まだ働けっつーのか」

 ――定時上がりでパチンコに直行したのは、親父だろ。

「分かった。前髪だけ自分で切るわ」

 部屋に戻ろうとすると、背後から父がおかしそうに言った。

「ケツもでかいなぁ、安産型ってやつか」

「やめろ!」

 私は強く吐き捨てて、急いで二階の自室に戻った。

 ああ鳥肌が立つ、私は絶対に女なんかなりたくない!

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