第3話 『性違和』


 私は、舗装された農道をひた走った。

 片側は一面の田んぼだ。稲はまだ幼く、張られた水が良く見える。天気のいい日は太陽の光を反射して、水面がきらきらと輝く。

 だけど今の私には、季節の風情を楽しむ余裕はない。頭の中は門限である午後5時半までに帰れるか、それだけでいっぱいだ。

 反対側は、壁のようにそそり立つ土手だ。この向こうに河原があり、すぐそこに海がある。

 だけど、私はこの土手の向こうを知らない。昼なお暗い土手の影が、私の世界を区切っている。


 私にとって世界とは、土手の中にある田んぼ、学校、そして家だけだ。


 濡れたスカートが脚にまとわりついてイライラする。スニーカーの中だって水が溜まって走りづらい。だけど不安で、心配で、立ち止まることができない。

 何も起きていませんように。お母さんが無事でありますように。

 神様、どうか、どうかと願いながら、私はとにかく必死で走った。。



 やっと着いた家は、とても静かだった。

 私はまず外観を確認し、落書きがないことを確認した。ポストの中もあらためた。無料のタウン情報誌と脱毛サロンのチラシだけ。怪文書やいたずらの品はない。ここまでは平常どおり、大丈夫だ。

 私は玄関の前でゆっくりと深呼吸をした。まだ安心できない、何があってもいいように、自分に暗示をかけなくては。


 ――私は『長男代理』。しっかりしろ。


 私はしっかりドアノブを持って、早すぎず遅すぎず計算をしながら玄関のドアを開いた。

「ただいま」

 するとドタドタという足音がして、暗い家の奥から母が駆け出してきた。私をじろじろと見まわして、落胆したように壁にもたれる。

「門限5分前とか、トロいのよ」

 母は汚い物を見る目線をよこした。

 ――本当の『長男』じゃなくて、悪かったな。

 いつもの事だと言い聞かせ、私は髪をかきあげた。この反応なら大丈夫だ、私の留守中に母の心を乱すような事は起きていない。

 それにしても全身がびしょびしょだ、本当に汚いな。

「あんた、傘忘れたの」

「いんや。出るのが遅くなったから、差さずに走った」

「バカじゃないの」

 冷たく言い放ってから、母は意地悪な笑みを浮かべた。

「ああ、本当にバカだったわ。中一程度のテストで一枚も満点が取れない、超おバカ」

「分かってるから言うなよ!」

 かっとなって思わず怒鳴った。クラス最高点ならいくつか取っているが、こんな田舎の学力なんてたかが知れている――って、お父さんも言っていた。私達は都会から転勤してきた人間だ、田舎の人間に負けるようでは大学になんて行けない。

 母は頬に手をあてて、悲しそうにため息をついた。

「輝人は賢くて、落ち着いたいい子だったのに。――なんで消えたのが、あなたじゃないのかしら」

 母はやっぱり情緒不安定なのか、私にどうしようもない文句を言った。もう何度も言われた母の本心なのに、私の胸は痛いほどの苦しさに慣れてくれない。

「ちょっと、シャワー浴びてくる」

 母の言葉を振り払うように、スニーカーと靴下をたたきで脱ぐ。鞄も補助バッグも玄関に置いて、なるべく廊下を濡らさないようにつま先立ちで風呂場に向かう。

 洗面所で服を脱ごうとして、鏡に映った自分を見た。

 ぼさぼさの髪、両親の悪い所を引き継いだ不細工な顔、中途半端な背丈、不自然に膨らみつつある胸。

 背後から、母の声がした。

「下手くそな女装みたい」

 鏡の中の私を見て、楽しそうに笑っている。

 私は鏡を見ないようにしつつ、制服を脱いだ。だって、本当にその通りだから。

 なんで私は、意地でも男に生まれなかったんだろう。

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