第一章・身代わり

第1話 六月の図書室

 帰りのホームルームが終わると、周囲は途端に騒がしくなる。


 私は淡々と鞄や補助バッグに荷物をまとめ、窓脇の自席から外の様子を見た。青々とした里山がやけに近くに見え、空には梅雨らしい分厚い雲が増えている。

 ――雨が来るな。

 それだけ察して、私は一年二組の教室から出た。周囲から聞こえる「さようなら」は、どれも私宛ではない。私には友達などいない。



 廊下に出て、今度は透明なガラス越しに外を見上げた。向かい合うように立つ旧校舎の薄汚れたアスファルトが、湿気で更に黒ずんだように見える。

「渡辺双葉、何見てるんだ」

 いきなりフルネームを呼ばれて、私は面倒に思いながら顔を向けた。階段に向かう曲がり角から、白衣を羽織った大きな大人がにやけながら立っている。大矢先生だ。


 ――なんでいつも、そこで待っていやがんだ。


 そんな疑問はおくびにも出さず、私は黙って会釈をした。校則『教師及び来訪者には、会釈を返す事』を忠実に実践する。

「本当、お前は真面目だな」

 呆れる大矢先生を無視し、私は階段へと歩を進めた。

「やっぱり今日も行くのか。よっぽど好きなんだな」

 何も聞こえないふりをして、私は階段を上る。大矢先生は余裕の足取りで、私の後ろをついていく。一年生の教室がある二階から四階へ。そこを右側に曲がった突き当りが、目的の場所。


 図書室。

 私は図書委員で、大矢先生は図書委員の顧問だ。


 私達はそれぞれの上履きを脱ぎ、高さの低い靴箱に仕舞った。既に上級生の委員が当番に来ているようだ、ほかにも上履きが二組ある。

「おつかれー」

 大矢先生が引き戸を開けて声をかけると、カウンターに座る当番二人が揃って頭を下げた。

「渡辺さん、今日もお手伝いに来てくれたの?」

 うち、女子の当番が親しげに微笑んだ。

「はい。何かできる事はありますか」

 私が控えめに尋ねると、男子の当番が軽く首を振った。

「特にないよ。まだ誰も来てないし」

「あ。じゃあ、俺の作業を手伝えよ」

 大矢先生が、私たちの会話に割り込んだ。

「寄贈された本に、分類シール張って欲しいんだけど。いいか?」

 図書室の隅を親指で示して、親しげに笑う。

「……はい」

 教師の命令に嫌とは言えず、私はしぶしぶ頷いた。本当は、この人と一緒にいたくないんだけど。




 私と大矢先生は絨毯の床に座り込み、積み上げられた本の背表紙にシールを張る作業を行った。これは本に住所を書くようなもので、図書業務の中ではとても重要だ。

 しばらく作業していると、大矢先生が話しかけてきた。

「お前、読みたい本とかあったんじゃないのか」

「もう昼休みに借りました」

「へえ。どんな本?」

「図書室で私語は厳禁です」

 そう答えつつ、プリントされた一覧表を確認しながらシールを貼る。

 大矢先生は、盛大にため息をついた。

「厳禁じゃねえよ、無駄話するなってだけだ」

「会話が無駄です」

「極端な奴だな。ちょっとぐらいの会話は許されるっていうんだよ」

 私は内心うんざりしていた。この人はどんなに冷たい対応をしても、やたらと私に絡んでくる。一人静かに過ごしたいから図書室に来ているのに、なんで他人の話し相手なんてしなきゃいけないんだ。

 私は手を止めずに、周囲をぐるりと見渡した。何十冊という本が、うず高く積み上げられている。二人でかかったところで、一時間やそこらでは終わらない数だ。

「この量の本にシールを貼るのに、話す暇ありますか」

「今日中に終わらせる必要はねえよ」

 私はため息を呑み込む。私と会話がしたい人間なんて、噂好きの悪趣味か罠にハメたいイジメっ子しか見たことない。この人は大人だから前者だろう。兄の事件を掘り返したい人か、父が殺人犯だという証拠が欲しいエセ探偵か。


 ――だけど先生からは、そういう大人の邪気が感じられない。そのくせやたらと視界に入るから、私は扱いに困ってしまう。


 私は会話を断線させるべく、正座で大矢先生に向き直った。

「教師なら、図書室でおしゃべりをしても許されるルールがあるんですか」

 しっかり目を見て諭してやると、大矢先生は「ちっ」と舌打ちをした。

「じゃあお前とおしゃべりをしたい時は、どこなら許されるわけ?」

「校則に書いてある通りです」

 教室では静かに、廊下では静かに、特別教室では静かに、体育館では騒がない。そんな当たり前ばかりの中学校の生徒手帳に、しゃべるなと書かれていない場所なんてあるものか。


 その時、5時を知らせる校内放送が響いた。図書室を閉める時間だ。

 私は床から立ち上がり、軽くスカートの埃をはらった。

「それでは失礼します」

「あ? ああ、そんな時間か。気をつけてな」

 大矢先生は虚を突かれた様子だったが、納得した顔で手を挙げた。私は黙って会釈をし、近くに置いていた鞄と補助バッグを拾った。カウンターの二人にも挨拶をする。

「お先に失礼します」

「おー、お疲れー」

「お疲れ様」

 図書室を出て戸を静かに閉める。大矢先生には疲れたけれど、今日はまだ無事に終わった方か。本当は、のんびりと樋口一葉でも読みたかったな。

 あとは帰るだけだと安心して階段を下りていたら、途中で誰かにぶつかりそうになった。

「すみません」

 軽く謝って去ろうとする。


「あっ、待って! 『双葉ちゃん』!」


 下の名前を呼ばれて総気立つ。ゆっくり振り返ると、長い三つ編みの女子がフルートと譜面台を抱えて経っていた。吹奏楽部の誰かのようだ。

「双葉ちゃん、あのね? 聞きたい事、あるんだ、けど」

 おどおどと私を名前で呼ぶ彼女に、私は見覚えがあった。かつての幼馴染、のちにイジメっ子。

 

 私の顔が、反射的に鋭くなった。

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