第14話 今日のお兄ちゃんは研磨をする

 私はお兄ちゃんの妹。今日はリビングで廃材から机を作る動画を見ている。とんてんかんてん。一定のリズムで釘を打つ音を聞いていると気持ちよくてだんだん眠くなる。


 緩やかな雰囲気に包まれていたリビングが突然、緊張感に包まれる。――ッ!! お兄ちゃんだ!! お兄ちゃんが作務衣さむえで!! バンダナ!!


 ……おっといけない。落ち着け。私はブラコンじゃない。お兄ちゃんの妹であることをアイデンティティとしているだけだ。だから、お兄ちゃんの職人風の姿にテンションを上げたりしない。


 リビングに現れたお兄ちゃんは何やら殺気をまとっている。そのまま、足音もさせずに静かにキッチンへと向かう。


 お兄ちゃんが取り出したのは砥石と三徳包丁だった。なるほど。どうやら今日は包丁を研ぐらしい。そういえば、YouTubeで包丁を研ぐ動画に夢中になってたっけ。毎度まいどながら影響されやすいなお兄ちゃん。


 最近、我が家の包丁の切れ味は今一つだったような気がする。切れない包丁は切れる包丁より危ない。安全のためにも包丁の手入れは欠かせないのだ。

 そして刃物を研ぐというのは多少なりとも危険が伴う。お兄ちゃんの纏う緊張感の理由が分かって安心する。私も背筋を伸ばしてお兄ちゃんを観察する。


 お兄ちゃんはまず、取り出した二つの砥石を水に沈めた。一つは中砥石。家庭用ならこの砥石で十分だ。もう一つはより目の細かい仕上しあげ砥石。これは切れ味を追求するものだ。ほほぅ。どうやらお兄ちゃんは本気らしい。

 そのまま10分程度放置する。砥石に水を吸わせるためだ。これにより砥石の研磨性が高まり、摩擦による発熱も抑えられる。待っている間、お兄ちゃんは瞑想していた。私の視線にも微動だにしない。


 砥石に十分な水を吸わせたら、作業台に敷いた濡れ布巾ふきんの上に置く。こうすることで砥石がすべらない。

 そしていよいよ右手に包丁を握り、刃を砥石に当てる。理想は15度だ。左手を刃の腹に添えて、肩の力を抜き、腕の重みで優しく撫でるように砥石の上を往復させる。


――シャッ。――シャッ。――……。


 リビングに砥石と包丁の擦れる音が美しく響く。耳を澄ませていると、いつの間にか呼吸のリズムを同調させていた。緊張と緩和が交互に押し寄せて、心身がリラックスしてゆく。


 片面が終われば、もう片面。そして、仕上砥石に交換して再び研ぐ。工程が進むたびに刃は輝きを増してゆく。なんだか、お兄ちゃんの放つ気迫が移ったようにも見える。


 そしていよいよ研ぎ終わった。最後に砥石同士を擦り合わせて凹みを矯正して終了だ。


 包丁が放つのは妖しい輝き。それは妖刀さながらだ。対照的に、それを見つめるお兄ちゃんの瞳はくらく染まっていく。大丈夫かお兄ちゃん。


 お兄ちゃんは冷蔵庫からトマトを取り出してまな板に置く。早速、切れ味のチェックをするらしい。トマトに包丁を水平にあてがって、特に押さえるようなことはせずに――ッ! 引き切った。恐ろしい切れ味に戦慄せんりつする。


 お兄ちゃんはまだ足りないといった様子で試し切りを続けようとする。いよいよ瞳の色が狂ってきた。

 次は、包丁の刃を上向きにして持つ。コピー用紙を反対の手に持って、その上に構える。そして、そのまま手を放す。

 コピー用紙は重力に従って落下し、包丁を通り過ぎると――……。音もなく二つに分かれて床に落ちた。ッ! タツジン! コノハギリ! 


 その圧倒的な切れ味にお兄ちゃんは満足した様子で、うっとりと包丁の背を撫でる。いけない。お兄ちゃんは包丁の妖気に取り憑かれてしまった。

 包丁ごときに私のお兄ちゃんを渡すわけにはいかない。私はお兄ちゃんを守るために叫ぶ。


「正気に戻って! お兄ちゃん!」

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