湿気だらけの恋

増田朋美

湿気だらけの恋

湿気だらけの恋

雨が降って、やや寒いかなと感じる日であった。何だか良いこともあるが、悪い事ばかりがクローズアップされ、大変な日々を過ごしている人たちを多くのテレビが取材しているが、それを見ている人はどんな気持ちなのか、分からない世のなかである。世の中にはいろんな人が居て、実に多彩である。

その日、杉ちゃんはいつも通り、製鉄所の利用者と一緒に、水穂さんの世話をしていたのであった。今日は珍しく男性が製鉄所を利用していた。いつも利用者は女性ばかりなので、大変珍しい利用者だった。その時、玄関の戸がガラガラっと音を立てて開いた。

「ただいまあ。行ってきました。」

ひとりの女性利用者が、製鉄所に戻ってきたのだ。

「あ、お帰りなさい。どちらへ行ってこられたんですか?」

男性の利用者がそう聞くと、

「ええ、これを取りに行ってきました。フリマアプリで宅急便ではなく実際に手渡しをして、売買

契約をするという物があるんです。」

そういって女性は着物を一枚見せた。緑色に、黄色で格子柄を描いた、元禄袖のかわいい紬の着物であった。

「はあ、すごいなあ。これ、上田紬じゃないかよ。なかなか売ってない紬だよ。」

杉ちゃんがそれを見て、びっくりした顔で言った。

「上田紬って何ですか?」

利用者が聞くと、

「ああ、あのねえ、昔、江戸幕府がお百姓さんに絹の着物を着るのを禁止したときに、じゃあ絹に見えなければいいんだって、お百姓さんが開発した着物の事をいう。洋服で言ったら農作業用のジャージだ。」

と、杉ちゃんは答えた。

「ちょっと待って。こんなにかわいい着物が、農作業用のジャージなんて、ちょっと見当がつかないわねえ。」

女性利用者は、嫌な顔をする。確かに緑色に、黄色の格子柄を入れた着物は、タータンチェックのような感じで、とてもかわいい感じの着物だった。

「それじゃあ、どっかでおしゃれして着ていきたいっていう時には着てはいけないの?たとえば友達と

、イタリアンレストランで食事をするとか。」

女性利用者が聞くと、

「うーん、それは無理だね。外出着として着るんだったら、小紋とかそういうものを着なくちゃだめで、紬は外出のためにあるもんじゃないからね。」

杉ちゃんは、そう答えた。

「でも、いいじゃないですか。上田紬と言えば、結構稀少価値のある着物ですし、多少の事では破れない長所もありますし。」

水穂さんが布団に寝たままそういうと、

「で、でもだよ。ジャージを着て、何処かへ出かけようって思ったことはないでしょ。アディダスのジャージでコンサートに行ったことある?ないだろう?其れと同じだよ。」

杉ちゃんはデカい声で言った。

「でもアディダスのジャージだって、今はおしゃれで着ることだってあるわ。」

女性利用者は、よくわからないという顔で言った。

「そうかもしれないが、着物と洋服は一寸違うからねえ。」

「やあねえ杉ちゃん。結局のところ、アディダスのジャージだって、今はおしゃれで着る人はいっぱいいるんだから、それで同じことじゃない。今は、タータンと一緒だと思えばそれでいいのよ。明日の食事会は、是非、この着物で行こう。もし、誰かに何か言われたら、アディダスのジャージと一緒って、答えておけばいいわ。」

「食事会だって?そんな時に紬の着物はまずい。辞めた方がいいよ!」

女性利用者がそういうので杉ちゃんは急いでとめた。

「相手からも顰蹙を買うかもしれないよ。紬なんかやめて、小紋を着ていったら?」

「大丈夫よ。杉ちゃんみたいに、着物に詳しい人はそうはいないもの。」

たまにこの製鉄所には、彼女のような態度を取る人がくることが在る。一度決めると変更ができず、変更してしまうとものすごく混乱してしまうひとだ。医学的にいったら、何とか障害という名前がつくのかもしれないが、杉ちゃんたちは、そういうひとを特別扱いしないで、できるだけみんなと同じように接している。というのは、そういう障害があるからと言って、優遇してくれる人のほうが少ないからだ。

「まあいいじゃないですか。今はさほど格についてうるさがる人はいませんよ。すくなくとも、銘仙よりは、上なんですから。」

水穂さんがそういった。確かにそれはその通りなのであるが、そのような皮肉を言われてしまうと、今度は水穂さんがかわいそうになるのだ。

「まあそれはそうだけど、イタリアンレストランに、紬というのは、あり得ない話だ。食事会に紬は辞めろ。」

「それに、水穂さんも身分の事はあまり口にしないほうがいいですよ。そうなると、ろくなことがないじゃないですか。」

男性利用者が、水穂さんを励ました。そういうことを言い合っている間、女性利用者は、その紬の着物を羽織って、ニコニコしている。その顔はとても楽しそうで、それをつぶしてしまうのは、何だか一寸かわいそうな気がする。

「まあ、明日は、たのしんで行ってきてね。」

杉ちゃんはため息をついた。その女性利用者、つまるところ、伊達五月さんは、着物というものについて、知識がないこともあるが、この上田紬の着物を、洋服と同じような感覚で見てしまっているのだろう。

「まあ、体験して初めて身につくということばもあるからな。」

「そうだけど、杉ちゃん、伊達さんの場合、それだけでは片付かない事もあるんじゃないですか。」

男性利用者が、杉ちゃんに耳元で小さい声で言った。

「そうだけどねえ、説得することだって難しいんだぞ。彼女の意思を曲げることなんて、本当に難しいって、よく分かっていることじゃないか。ほんなら体験して初めて身につくんだなという言葉を信じることだ。」

「でもですねえ。彼女は、もし失敗した時、その反応が、、、。」

男性はそこで言葉を渋った。本人の前で言ってしまう事は何だか本人を傷つけてしまうような事もあり、なかなか口に出すことはできないのである。

「まあ、でもとかだってとか、そういうことを繰り返しても、やってみなくちゃ分からないじゃないか。もし彼女が、そういう過剰な反応をするとか、そういうことをしたら、僕たちがちゃんととめてやらなきゃだめだよ。」

と、杉ちゃんは、男性のいったことをあっさり受け取ってそういってしまった。男性が、杉ちゃん何をいうんですか、と言いかけたところ、

「明日は、誰と一緒にイタリアンレストランに行くんですか?」

と、水穂さんが彼女に声をかけた。

「ええ。野村さんです。」

当然だという表情で、五月さんは答える。彼女は相手が野村さんがだれなのか知らないという前提で話をしないのも特徴であった。それも、彼女の障害といえるかもしれなかった。単に個性的過ぎるだけでは、片付けられない特徴であった。

「その野村さんは、どちら様なんでしょうか?」

水穂さんが、何ごともないように、急いでそういった。そういう風に話すのもコツがいる。大体の人はわけのわからない発言をしていると言って、嫌な顔をするのが多いので。

「野村さんは、あたしの年上の上司ですよね。」

五月さんは、現在社会人だ。確か植木屋さんで働かせて貰っている。植木屋さんと言っても接客はせず、男の職人に交じって、個人の家庭を訪問し、植木の剪定をしたりすることを仕事としている。

「昨日、初めて一緒に食事に行こうって誘われたんです。野村さんがあたしを誘ってくれたのは初めてで。それで、あたしがイタリアンレストランを予約したんです。場所は、富士本町の近くにる、菜の花っていうところです。」

「菜の花ですか、、、。」

と、男性利用者がいった。

「あそこは、イタリアンレストランと言っても、高級ですよ。僕も家族で行ったことがありますけど、確か、カレーライスいっぱいで、3500円はするんじゃないですか?」

「なるほどね。郡司さん英雄!カレーをいっぱいで3500円するような店じゃ、紬ではいけないな。それより、ちゃんと、正絹の小紋でもだめかもしれないな。訪問着とか、そういうものを着た方がいいかもしれない。お前さんは訪問着持ってる?」

杉ちゃんが急いでいうと、五月さんは、

「そんなものありませんよ。あんな地味な着物、何処がいいのかしらね。あんなもの、いすにすわっていたら、上半身に少ししか柄が無くてつまらないわ。」

とまくしたてるのだった。その文句の言い方も、何だかきつくて、相手が妥協しなければならないのではないかと思ってしまうほど感情的だった。

「訪問着もないのかい。ほかにもっと格の高いものはないの?たとえば、橘とか、紅葉とかそういう格の高い柄だ。そういうので埋め尽くされた小紋だったら、3500円でカレーを食べさせる店にいけると思うけど、、、。」

杉ちゃんがそういうと、

「いいえ、それはないわよ。江戸小紋なんて、あたしは地味すぎて着ないわ。こういうチェックの洋服に近いものから、あとは、一寸ペルシャじゅうたんみたいなのとか、そういうのしか持ってないわ。」

と、彼女は答えた。つまりそういうものが、若者の心を引く着物の柄なのだ。多分、彼女は、野村さんに馬鹿にされなければ、訪問着を買うことはないだろうなと思われた。

「あのですね、伊達さん。明日行く、菜の花というレストランは、とても上田紬という着物で行けるようなレストランではありません。あそこはですね、みんなスーツ姿で食事をするところですよ。もし、杉ちゃんのいう通りであれば、ジャージで高級レストランにいって、笑われに行くような物ですよ。そこで笑われたらどうするんですか。伊達さんは、それに耐えられます?杉ちゃんのいう通りに、格の高い着物を着ていった方が、安全です。」

郡司さんが、一生懸命彼女を説得したが、五月さんは、意思を曲げなかった。

「みんないやね。私の言葉に水を差すようなことばっかり言って。湿気だらけだわ。あたしの恋は。」

「仕方ありません。もし、伊達さんが、着物の事でしょんぼり帰ってきたら、僕たちで励ますしか方法がありませんよ。その矯正は、僕たちで責任をもってやらなくちゃなりませんね。」

水穂さんが布団に寝たまま、小さい声でそういうことをいった。

「でも、水穂さんだって、お体が。」

と、郡司さんがいうと、

「それは仕方ありません。誰かがしてやらないと変われないことだってあると思います。」

水穂さんは小さい声で言った。

「じゃあ、明日はその緑の着物で行くんだな。体験して初めて見につくんだなという、相田みつをさんの言葉を信じよう。」

杉ちゃんは、口笛を吹きながら、そういった。それでは、そうするしか無いと、水穂さんも郡司さんも、そう思った。

それでは翌日。

伊達五月さんは、ちゃんと長じゅばんを着て、緑の格子柄の着物を着て、金色の浴衣用の作り帯を締めて、タクシーに乗って駅へ向った。郡司さんは心配そうだったし、杉ちゃんはもう駄目だという顔で、彼女を見送った。どうして、目も見えるし、耳も遠くない彼女だが、こんなに話しが通じないのだろうかと二人とも思っていた。お昼の時間、杉ちゃんは郡司さんと食堂でそうめんを食べていたが、「あの、伊達五月さんはどうしているんでしょうね。」

と郡司さんは心配そうな顔をした。

「さあね、もうじき、着物代官に注意されて泣いて帰ってくるさ。」

杉ちゃんは、そうめんを食べながら、にこやかに笑って言った。

「そうしたらどうなるでしょうかね。又、物を壊して大暴れするでしょうか。」

郡司さんは、彼女がそうなったのを一度目撃していた。もう少しで彼女は風呂場の硝子を叩き壊そうとした。その時は、郡司さんも、必死で彼女を押さえたから、何とかなったようなもので、でも、ひどい修羅場だったことを記憶している。

「そうかもしれないけどね。そうなることは、もうわかっているくらいにしておかないと、彼女を何とかすることはできないだろ。それが彼女が車いすに乗っているのと同じことになるんだよ。それを操作するのは、技術が必要だ。」

杉ちゃんはお茶をずるっとすすった。

「技術ですか。そうなると、それを心得ているのは、水穂さんだけですね。でも、水穂さんは、重い病気で、もう動けないわけですから、僕たちが代理で何とかしなければなりませんね。よく訓練しなければならないでしょうけど。水穂さんのようにふるまうには。」

「困らない。真似すればいい。」

杉ちゃんはまたお茶をすすった。

「そうですけど、杉ちゃん。ある程度彼女のような人を何とかする方法を、書いてある本か、動画なんかがあれば、僕たちもイメージつけやすいんじゃないですかね?」

今時の男性らしく、郡司さんはそういうことをいった。

「ああ、書物なんて何の役にも立たん。知識なんて、何にも役に立ちはしないんだ。学校の勉強がそのいい例じゃないか。もちろん、学校そのものが役に立たない施設でもあるんだがな。」

杉ちゃんは、その発言にカラカラと笑う。大丈夫かなと、郡司さんはため息をついた。

「まあまあ、考えても仕方ない。大事なことは、彼女が大暴れしたらどうやってとめるかを考えればいいんだ。きっとこの後正念場だろうから、身構えて、そうめんいっぱい食べておきな。」

「そうですね。」

杉ちゃんに言われて、郡司さんは其れだけ言った。

と、その時、四畳半から声がした。

「だれだろう。」

と杉ちゃんがいうと、

「だれだろうじゃありませんよ。杉ちゃん。水穂さんがせき込んでいるんじゃありませんか。ほら早く駆けつけてあげないと、畳を汚します。」

と、郡司さんは椅子から立ち上がり、急いで四畳半へすっ飛んでいった。杉ちゃんも、残ったそうめんを急いで口に入れて、車いすを動かしていった。

ふすまを開けると、水穂さんが横向きになったまま、せき込んでいる。郡司さんは急いで水穂さんの口もとにチリ紙をあてがって、水穂さんの背中をさすってやった。予想した通り、水穂さんの口から赤い液体が漏れ出したので、郡司さんはそれをふき取ってやった。

「おう、やったかい。」

杉ちゃんに言われて、郡司さんは頷いた。幸い今回は、畳を汚すことは免れたが、水穂さんに枕元に置いてあった、吸い飲みの中身を飲ますという行為をしなければならなかった。この中身をのむと、せき込むのは止まるが、水穂さんは眠ってしまうのである。今回もそうだった。

「やれやれ、これで、半日は目を覚まさないだろうな。そうなると、晩御飯を又食べなくなるな。全く、眠らないでせき込むのをとめてくれる薬というものは発明してくれないものかな。」

杉ちゃんがそういうが、現在の医学ではそんなモノは作れないということは、明かであった。

「ま、畳を汚さなくてよかったよ。なんでも物事はいい方に取らなくちゃ。そうしないと世のなかやってはいけないぜ。畳の張替え代はとんでもなく高いからね。」

と、杉ちゃんは言っている。郡司さんはそう思うことにした。それはある意味、気にしないという技術が必要だった。男は泣くなというけれど、それはとても難しいことだと思った。

「よし、それじゃあ、水穂さんの事はもうこれでいいことにしよう。」

杉ちゃんに言われて、彼は、伊達五月さんを説得するのも、水穂さんに薬を飲ますことも、同じことなのかなと考え直した。どちらも、介護している自分たちにとっては、何も得することはないことだ。でも、そういう事をしなければならない。

「杉ちゃん、もういいってことにするのって意外に大事ですね。」

と、郡司さんは、小さい声で言った。

「もう水穂さんは、幾ら起しても目を覚まさないから、あとは僕たちで何とかしなければだめだ。」

「ほんとですね。」

と、杉ちゃんのいう通りだと思いながら、郡司さんはそう思った。肝心な助け船は、いざというとき何もつかえなくなるモノだ。郡司さんはそう思いながら、眠っている水穂さんのかけ布団を綺麗に治してやった。

「ただいまあ。」

と、不意に玄関先から声がした。

「伊達さんだ!」

思わず、郡司さんはそういうことをいう。やっぱり彼女は少し落ち込んだような感じだ。やっぱり予想した通り、レストランにやってきた、着物代官と呼ばれるおせっかい大好きな中年のおばさんに言い負かされてしまったんだろう。

「よ、お帰り。どうだった?イタリア料理はおいしかったか?」

杉ちゃんがいうと、

「ええ。でも、隣の席のおばさんに言われちゃった。紬の着物は普段着用だから、こんな高級なレストランには着てはいけないって。」

と、五月さんは、がっかりした顔で、四畳半に入ってくる。

「そうか。まあ、今回は飛んだ災難だったねえ。次は必ず正絹の訪問着で行くんだぞ。」

と、杉ちゃんができるだけ簡潔に言った。そういう時は、グダグダと内容を分析するのではく、次にすることを簡素に話した方が、彼女が激高しないで済む。

「で、相手の、何とかさんは、お前さんの事何か言ったか?」

杉ちゃんが聞くと、

「あきれてたわ。私が、こんな着物を着てきて、何を場違いしているんだって、そんな事を言ったわ。あたし、野村さんがそういうことをいうタイプだったとは、知らなかった。」

と、彼女は言った。それではまた、何かに当たり散らすだろうかと、杉ちゃんは身構えているようであったが、郡司さんはまた違う気持ちがわいた。彼女は彼女なりに、自分が感情のコントロールができないことをしっているのだ。それを彼女なりの努力で落ち着かせようとしているのだ。でも、彼女にはちゃんとできないことも見えているけれど、彼女は決して、感情のままに当たり散らすという女性ではないような気がした。

「まあ、恋愛の事は、恋愛で解決って事もあるからな。まあ、男なら、そこらへんにゴロゴロ転がっているんだからな。新しい奴なんて、すぐみつかるよ。」

杉ちゃんが、カラカラと笑って言うが、彼女はまだ悲しそうだった。

「やっぱり私の恋は、湿気だらけの恋だったのね。」

そういって泣きだそうとする彼女に、郡司さんは、こう話しかけてみた。

「もしかして、その新しい男に立候補するの、僕ではいけないですかね?」


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湿気だらけの恋 増田朋美 @masubuchi4996

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