4.




 ふと気が付くと、目の前に広がる光景は見知らぬものだった。

 瞼の裏のような、うっすらと赤が混じった闇の空。

 足元にはどこか霞んだ色合いの紫陽花が見渡す限りに広がっていて、薄い色の闇と混じり合っている。

 最大の謎は、首を傾げたわたしの前に、がいることだ。


「あなた、ポートマフィアのイヌになるつもり?」


 目の前の『わたし』は、顔と同様に顰めた声でわたしにそう声をかけてくる。

 はてはて。これは一体どういうことなのか。

 わたしは夢を見ているんだろうか?

 見ているんだろう、きっと。でも、どうして、わたしがわたしの夢を見るのか……。

 何も言えないわたしに、目の前のわたしは苛立たしげに舌打ちした。同じ顔と声なのに中身が違うだけでこうも違うのだな、とぼんやり考えて、わたしのことを睨みつけるわたしを見つめる。「いぬ?」「そう」「わたし、ひと」「そういう狗じゃないわ」わたしは足元の紫陽花を踏みつけながらわたしのもとまでやってきて、わたしの胸倉を掴み上げた。中也が買ってきたワンピースがしわくちゃになる。


「私はポートマフィアが嫌いよ。

 私であるあなたも、ポートマフィアが嫌いなはずなの」

「そう…?」

「そうよ。この馬鹿」


 馬鹿、と言われてしまった。

 実際、昔に死にかけたというわたしは、生きてはいるけどどこかポンコツだ。人とズレている、自覚はしている。だから、馬鹿、というのは否定ができない。

 至近距離でわたしを睨みつけるわたしは言う。「おぼえていないの」「なにも」正直にこぼすとわたしは悩ましげに溜息を吐いた。

 うっすらと赤が混じった闇の空に、ぼんやり、中也の姿が映る。

 彼はどうやらわたしの面倒を看ているようで、先生の部屋にあるベッドで顔を歪めて寝ているわたしに布団をかけ、氷水で絞ったタオルで額やら顔やらをきれいにしてくれている。

 もう一人のわたしはわたしの服を離すと、その中也を指さした。


「ポートマフィアが何をしたか、忘れたらしいから言ってあげる。

 彼らは私の両親の仕事を失くし、路頭に迷わせた」


 服を離してもらったわたしは小さく咳き込んで一歩下がった。「おかげで両親は借金まみれ、最後には自殺。私には負の遺産だけが残って……擂鉢街に逃げるしかなかった。それだけでも結構不幸よ。なのに最期は、彼が運転するバイクに撥ねられて、私は死んだ」続けざまに喋ったわたしは一つ二つと大きく呼吸し、眉間に皺を刻んで中也を睨みつける。

 一気にたくさんのことを言われてわたしの頭はパンク気味だ。

 目の前にいるわたしは悔しそうに地団太を踏む。「ねぇ、アイツのせいで私は死んだの。死んだのよ!」ヒステリックに叫んで足元の紫陽花を掴み、投げ捨てる、そのわたしは、なんだか、哀れだった。

 本当なら。何もなければ。生きるのは目の前にいたこのわたしで、わたしは、生まれなかったのだろう。

 しゃがみ込んで、紫陽花に体を埋めて悔しそうに歪めた声を上げるわたしの頭を緩く抱き寄せる。



 どうあっても変えようのない現実。

 これが夢なら、目が覚めるのはわたしで、消えるのは彼女だ。

 この束の間の邂逅をわたしが憶えているかはわからないし、きっと、たぶん、忘れてしまう。

 ただ、彼女というわたしを、できるなら憶えていてあげたいな、と思った。

 世界の誰も彼女のことを知らないなんてかわいそうだ。

 本当なら生きていたはずなのに、こうして叫んでいる彼女を誰も思わないなんて、かわいそうだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る