第13話 13 克己の、その後

克己は雨に打たれたまま、動く事は無かった。


美和を失った喪失感が、思いの外大きかった様子だ。

胸にぽっかりと、大きな穴が空く虚無感に包まれていく。


流石に雨の冷たさに参った克己は、家に戻って熱いシャワーを浴びる。

シャワーの水滴が苦い涙と汗を、打ち消す様に洗い流していく。


その後はベットに寝転がる克己だったが、美和の事が頭から離れず眠る事はなかった。


(美和……)


(美和……)


うわ言の様に離れていった彼女の名前を、繰り返し口にする。


外は雨が止み、夜が明けてきた。朝になってしまった様だ。

克己はこの後会社に行くために、出勤の用意をしなくてはいけない。

まとまらない思考を抱えながら、最低限の身支度を整えて出勤する。

食欲は無いので、お茶だけで済ませる。

雨が止んでいるので、今日は400ccのバイクで出勤する。車も良いのだが……。昨夜別れた彼女を乗せていた車に乗っただけで、辛い事を沢山思い出してしまいそうだ。気持ちをスッキリさせたい感情が、バイクを選択するのだった。


いつも通りの出勤。事故など起こす事なく会社に着く。

克己の勤め先は建築や土木関係の工務店である。今日の現場は新幹線が通過する線路のある山の斜面。斜面は自然のまま剥き出しになっている為、無造作に草木が伸びている。このまま放置していくと、枯れた時や台風などの災害時に斜面が崩れたりする可能性がある。斜面が崩れる事を防ぐ為の、コンクリートタイル張り作業をしている所だった。


いつも怒鳴る親方や、差別意識を持つ同僚の西さんがセットになって作業している。

この様な職場は辞めて転職した方が良いよ!と、時々周囲から心配される。

車やバイクの改造費と維持費の為にもと、少しでも稼げる所にしたかった。克己は同じ作業の繰り返しになる、工場でのライン作業に向いている人間ではない。

例え殴られようと、罵詈雑言を並べられようと、自分のスキルが向上していく現場タイプの人間であった。そうこうして、入社して4年。並大抵の事では腹を立てる事は無かった。



だが……事件は起きてしまう。



克己は耳が聞こえない為、親方からの指示や注文をハッキリと確認出来ない事が多かった。前歯が無い親方の口の動きを読むのは、非常に困難であった。


「かけや!」

「ハンマー!」

「大パール!」


様々な指示が怒号と共に飛んでくる。

持ってくる物を間違えたりしたら、殴られた。


「バカヤロー!パールもわからんのか!!早く持ってこい!!バカヤロー!」

「さっさとしろバカヤロー!」

「もっと綺麗に切れ!このヤロー!」


と、克己の被るヘルメットが割れるほど殴られる事もある。


当然パワーハラスメントではあるが、そんな事を訴えた所でどうにかなるものでは無いのが、現実である。大きな団体のバックアップが無いと、一人が訴えた所で揉み消されるのはよくある話。


聴覚に障害を持つ者を支える大きな団体として「日本ろう者協会」「難聴者協会」などの団体が存在するのだが、克己はこれらの存在は知らない。知っていたとしても、加盟する気持ちは無いだろうが……

この時加盟していて訴えかけていれば、社会的に何らかの影響はあったかもしれない。この件については、また別の話という事で……


話を戻して、毎日のように怒鳴られたり殴られながら、黙々と職務をこなしていく克己。

草がぼうぼうと生えて荒れた斜面。

高度成長期の建築ラッシュの影響か、捨てるように埋められた大きめの岩や鋼線屑など色んな物を掘り起こす作業であった。


克己は別れた彼女の事を考えないで済むように、一心不乱に指定された箇所をツルハシで掘り起こしていく。

次第にツルハシを握る手に力が入って、溜め込んでいた感情のこもった声が漏れる。


『くそっ!!』


一時間ほどの昼食を終えて、引き続き午後の作業に入る。


おにぎり二個程度の昼食を済ませた克己は、容易に美和の顔が目に浮かぶ。


ある程度掘っただろうか。呼吸が整えられないほど疲労した克己は、少し休憩しようと手を止める。


すると、拳大ほどの石が横から飛んで来たのだ。


(なんだ??)


石が飛んで来た方向に視線を移すと、同僚の西さんがいきり立つ姿がある。気付かなかったら死んでいる可能性があったぞ!


「バカヤロー!もっと真面目にやれ!全力でやれ!このヤロー!死ねっ!」


なんとその男は石だけでなく、近くに落ちていたツルハシを手に取って投げてきたのだ!

信じられない。そこまでするか?俺を殺す気なのか?

それにしても、あそこまで強い殺意をぶつけられたものだ。いったい俺の何がいけなかったんだ??


その瞬間に克己は走馬灯の中を進む感覚を覚える。

西さんが投げたツルハシがグルグルと回転しながら飛んでくる。

克己は思わず身を半分によじっていく。

この瞬間は、ほんの数秒の出来事なのだが……何十秒も経っているように感じられる。


ドガっ!!


投げつけられてきたツルハシが、克己の足元に突き刺さる。

咄嗟の瞬間ではあったが、辛うじて避けることが出来た。



『……』

「……」



その場にいた全員が状況を把握するのに数分を要した。

この現場には、親方よりさらに上の責任者である現場監督の姿がある。


この様子を終始見てきた現場監督は真っ先に飛んできて、ツルハシを投げた男に注意をする。


「ちょっとやり過ぎだ。西さん落ち着くんだ!」


この場にいる全員作業はストップし、現場監督から注意と話が始まる。それから克己は休憩という扱いで、現場を離れる指示が下る。


「西さんを怒らせる事をしたのか?」


克己と現場監督。付き合いが長く、簡単なやり取りなら筆談用具がいらないほどコミュニケーションが取れてきていた。それでも確実ではないので、互いに聞き取れなかった際には簡単にでも筆記用具を使っている。どうにか克己と現場監督の意思疎通が図れた様子だ。


『わかりません。一通り掘ったので、手を止めて少し休憩しようとしただけでした』

「そうか。西さんに注意してくるから、暫く休んでいなさい」

『わかりました』


克己は休憩する。


(今日は昨日に続き悪い事ばかり続いている気がする。それにしても西さんはなんでツルハシ投げてきたんだ?)


いくら考えても、ツルハシを投げつけられる覚えはない。とにかく呼吸を整えられないほど全力で掘ったんだ。呼吸を整えようと少し休んだだけで?自身の非を探そうとしたが、思いつけない。


指定された休憩場で、刈り取った草の上に腰を降ろして休んでいる克己。


「おい!」


克己はうつむいたまま、考え事をしている。

横から動く気配を感じ取った克己は振り向く。そこには、先ほどツルハシを投げつけてきた西さんが立っている。


「おい!聞こえないのか!バカヤロー!」


相変わらずいきり立っている。この男は本当におかしい。自分が聴覚に障害があるという事は、周囲の承知だ。にも関わらず、突っかかってくる。二代目社長もこれまでに何度か、説明したのを見ている。それでも全く改善されず、理解も得られない。このような人と一緒に作業して得られる事は何も無いという事だろう。

「そんな人は居ないでしょ?」と言いたくなる気持ちはわかるが、残念ながら居るのです。

いくら説明しても理解しようともしない人種が……

事前に何度も別の現場にして欲しい、と社長に訴えている。それでも「たまには良いじゃないか?」という期待を込めての配置だったのかもしれない。結果的に最悪の事態に繋がった訳だが……


『すみません。何か問題あったんですか?』


克己は一所懸命答える。

しかし理解の無い男に、克己の言っている事を理解するのはほぼ無理である。

西さんは逆上して、克己に殴りかかる。






ーーーーーーーーー


こんにちは、桜俊です。


お待たせしました。

美和と克己の別れのパートから、その後日の展開の話となっています。


今回は「周囲はいい人ばかりではない」と、聴覚障害者に対する理解を持ち合わせない人もいるのだ。と実際の体験談をもとに、組み込んでみました。

聴覚障害者が言っている事や求められている事を理解できないまま、理不尽な目に遭うという事。

ひょっとしたら、親方や西さんは「そのつもりはなかった」と弁解するかもしれません。

かといって訴えに出ると、聴覚に障害があるという事を理由に無かった事にされる。ひょっとしたらこの実態は見えていないだけで多く起きているかもしれません。

この小説(フィクション)を読んで、少しでも何かを感じてもらえたら幸いと、筆者は願います。


次話公開は来週前半を予定しています。引き続き応援よろしくお願いいたします。

桜俊


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