第10話 疾風怒涛 ~上~
鎖分銅が嵐のように襲いかかる。
ある者は武器を奪われ、ある者は手足を拘束され自由を奪われる。
そして一陣の風が吹き抜ける。
無力化された者は、己がどう死ぬのか、あるいは死んだのかさえ分からぬまま絶命する。
忍は痕跡を残さない。
工作、諜報活動は隠密を極めた。
交戦ともなれば、立ち合った者の生存者など皆無である。
風の噂、それはどこからかともなく。
忍を知る者が得意気に吟じていたとも、あるいは酔狂な者の戯れ言とも。
数ある噂は伝播し、それは通り名となって雷名を轟かせた。
疾風怒濤の忍。颯、風吹。
風を冠した名、女はおおいに気に入った。
「アタシが風吹ってことで良いのか? なかなか可愛げがある。そう思わねーか?
「決まった名を持つな。そして俺は颯じゃない、忍だ。その場その場で己を偽る」
「アタシと居るときは颯を名乗れよ。カッコ良いじゃねーか」
「忍に名など必要ない」
「つまんねー奴だな」
親の記憶さえ持たぬ孤児二人、忍の里にて兄弟のように過ごした。
忍の才に秀でているからこそ生きる場所を与えられ、忍としてのみ生きる価値を与えられた。
この二人を見出したのは里の忍頭であり、
二人は里の”影”として育てられる。
青年となり、忍としての任務につくようになる。
初めて与えられた名――
やがて疾風怒濤の名が大きくなるにつれ、任務の難易度も上がる。
二大王朝の狭間で暗躍し始めると、それは賞金首の忍として指名手配されるほどに。
その報酬は、小国を十分潤わせることの出来るものであった。
ある晩、里内にて二人は命を狙われた。
里の”影”である二人を処理してもさして問題にはならず、大国に賞金首を差し出すことで信頼と報酬を同時に得ることが里の総意となっていたからだ。
「忍として任務は絶対である。儂はお前たちを殺さねばならん」
数秒の間に、数年の記憶が天狗翁の中を駆け巡る。
里の”影”は使い捨ての駒。
手駒は多いほうが良い、最初はそんな気持ちで二人を預かったはずだった。
任務があれば、帰らぬことも承知で送り出すはずだった。
いつからか鬼と化し二人の忍を育てた天狗翁。
まるで獅子が我が子を崖から落とすように。
その内は必ず二人が任務から帰ってこられるように、生きていけるように願った想いの形。
――まさか、この手で殺めることになろうとは……。
対峙して気付く。
二人は殺されることを望んでいる。
それが里の総意であれば、師である天狗翁の任務であればそれで良いと。
太刀を持つ手が震えている。
四方には見分役が潜む。
このまま天狗翁が動かねば、無抵抗な二人は見分役の忍に殺されてしまう。
――せめて、この手で痛みを感じる間もない死を。
震える手で太刀を構える。
――偽らざる心、偽りの心を以て刃とせよ――
迷える時にのみ口を開いたかつての師、その言葉が心を問う。
すると、答えを見つけたかのように天狗翁の強ばった表情が緩んだ。
偽らざる心――二人を生かしたい。
偽りの心――忍として絶対である任務を裏切らずに遂げる。
――儂が手塩にかけ育てた忍、こんな所で死ぬはずもなかろう。
構える太刀は微動だにせず、その一閃の予感だけが場を制する。
見分役の忍は、まさしくこの場を見届けるだけの存在として一切の介入も許されはしない。
立ち尽くす二人を前に、天狗翁の口がおもむろに開く。
「二人に任務を与える。儂を殺し、二人で生き延びよ」
――さぁ、この儂を殺してみよ。儂は全力でお前たちを殺すぞ。
構える太刀の柄を外すと刃が現れ、両刃となった太刀を口でくわえる。
その両刃は逆立った天狗の髭を思わせ、天狗翁の憤怒の面を表している。
怒れるは己の運命か。
下駄がタタンッと不規則なリズムを床に刻み始め、羽織る外套に隠れる両腕と暗器が幾通りもの死を選択している。
どう死ぬか、いつ死ぬか、死の際を感じさせないその手口は
――……天狗翁。誰が付けたかこの通り名。死んだ者の怨念か、生ける者の憎悪か。
任務を重ねるうち、いつの間にか通り名に己を重ね続けた男。
本当の名と己自身さえ失い、老いる風貌と共に天狗翁そのものになってしまった。
眼前の二人に名など無い。
与えられる任務の度に
二人には、いずれ自身のように運命を呪う日がくるであろう。
一度だけ吟じたことがある。
それは酔いを覚まそうと障子窓を開けた時だった。
名も無き心地よい風が吹き込むと、遠い縁側の記憶が蘇る。
すると、三人で過ごした数年こそが己自身でいられた日々であったと思うのだ。
天狗翁は吟じた。
我が子とさえ思う弟子を誇り、愛する者がいるということを。
いつか二人が己の運命を呪うとき、名も無き風がこの想いを乗せて届けてくれるように。
突然言い渡された任務を前に、未だ立ち尽くすだけの二人。
見分役の忍もまた、飲み込む唾の音すら立てられぬ緊張感に固まっている。
天狗翁が再び口を開く。
その表情は、憤怒の面でも天狗翁でもない優しいもの。
張りつめた空気の中、天狗翁だけにはいつかの心地よい風が吹いたに違いなかった。
風の噂は確かな便りとなって結実したのだ。
――二人とも決して死ぬな。生き延びよ。
「これが最後の任務じゃ。相手は
――死力を尽くせ。
「作戦名は疾風怒涛」
――誇り、愛すべきこの風に名を与えよう。
「
――本当の名を。
「颯、風吹」
両刃の刀を左手に構え、外套に右手と暗器を忍ばせる男——颯。
我が子とさえ、父とさえ思っていた者同士は、その心を刃に対峙する。
下駄の不規則なリズムの中に足音を忍ばせた一瞬、間合いを詰めにかかる天狗翁。
一撃必殺のはずの暗器は、交わる度に床に使い捨てられていく。
手の内を知る者同士、もはや暗器の意味を成さないのだ。
目くらましに外套を投げつける動作、死角から放つ手裏剣の軌道、両刃を交える姿。
その全てが合わせ鏡のように重なっている。
それを傍観する女——風吹。
二人の心の刃が交わる度、自身が斬られるような痛みを感じている。
その痛みで死んでしまったほうが楽とさえ思えるほどに。
忍の殺しは一撃一瞬。
天狗翁、颯ほどの忍ともなれば、数分の交戦でもかなりの消耗を強いられる。
力が拮抗すればするほど、戦い方は限られる。
両刃が身を削り、心を蝕む。
いよいよ、互いに致命傷の一閃が放たれる刹那、怒濤の嵐が吹き荒れる。
「……やめて」
風吹の放つ鎖分銅が天狗翁、颯の手足を拘束する。
二人にとって、巻き付く鎖分銅は足枷と手錠。
天狗翁を殺してまで生きようとは思わない。
颯には生きて欲しい。
風吹の想いは、二人の心の刃を一瞬でも納めたい鞘そのもの。
——……馬鹿野郎。忍が心を刃に出来ずどうすんだ。
——その優しさもまた、偽らざる心の刃よの……。
二人を拘束する風吹自身もまた動けぬ膠着状態が続く。
忍としての後ろめたさに俯く風吹。
その視線の先、二つの血だまりが合わさり広がってゆく。
天狗翁、颯はどちらが先に倒れてもおかしくない。
これを好機とばかり、突如として四方に構える見分役の忍が動いた。
任務には幾通りもの思惑が潜む。
見分役には天狗翁が颯、風吹を処理する任務を見届けること、あるいは機に乗じて三人を処理することが真の狙いであったのだろう。
忍頭の座を奪おうと一人が天狗翁へ、賞金首の手柄を得ようと三人が颯、風吹へと襲いかかる。
四方という特定された場所から繰り出し、上方から襲いかかったのがそもそも間違いであった。
天狗翁、颯の拘束を解く風吹。
鎖分銅は連結する鎖の形状を尖らせ、直上へと跳ね上がる。
「とんでひにいるなつのむし」
一対多数を得意とする風吹、地上百八十度を地獄に変える剣山の舞。
見分役の忍は、ただ肉片となって散るのみ。
同時に雌雄も決していた。
風吹の鞘から抜かれた二つの心の刃は重なり、砕けた者の命を奪った。
鈴虫の音が響く月光の夜。
この美しき静寂に眠れる者は、どれほど安らかでいられるのだろう。
忍とはほど遠い世界。
仰向けに倒れ、笑みを浮かべたままの天狗翁は遠い世界にいってしまったのだ。
風吹の背中が震えている。
それは嗚咽となり、やがて溢れる感情は慟哭へ。
少女のそれと変わらないほど正直で、止む時の静けさは驚くほどに。
風吹は天狗翁の見開いた両眼を優しく閉ざし、羽織る外套をふわりとさせ、亡骸となった天狗翁に優しく被せた。
己の心を偽れぬ者、それを否定出来ぬ颯。
心を刃にしたところで、一体何をなし得るというのだろうか。
師でさえも、最期は心を刃に出来なかった。
そうでなければ相討ちに違いなかった。
そう己に問う颯は、それでも心を刃に生きる以外の術を知らない。
忍ぶ者である限り。
「……行こう、風吹。二人で生き延びるのが与えられた任務だ」
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