第41話 夢のサーカス

 気付くとリュイは、真っ暗な闇の中に立っていた。


 これがアンゼリカの心象風景なのだろう。五年の間、彼女は闇の中にいた。これが自然な在り様なのだ。


 だがそれだけではないはずだ。彼女の世界から光が消えたのは八歳の頃。彼女にはそれまでの間に目にしたものの記憶が残っているはず。


 ここは恐らく彼女の表層意識だ。彼女に取り憑いている夢魔ナイトメアはもっと意識の奥深いところにいるはずだ。


 リュイにとってこれは明晰夢。魔術の力に頼らなくとも自分の力や姿を思い通りに操ることができる。


 だがアンゼリカの夢でもある以上、リュイがこの世界を変容させようとすれば反発が来るはずだ。つまりこれはアンゼリカの無意識とリュイの意志の力比べということになる。


 リュイはイメージする。もっと深く、深く。河の底よりももっと深く――そう海だ。深い深い海の底に潜っていく自分をイメージする。


 そうすると途端にねばついた粘液のような闇がまとわりついて、リュイを押し戻そうとしてくる。


(深く、深く――!)


 リュイは海の底深く潜る生き物――魚の姿をイメージする。闇の中でリュイの姿は魚に代わり、闇を突き抜けアンゼリカの深層意識の底へ潜り込んでいく。


 凄まじい重圧を突き抜け、深層意識の奥底へ辿り着くとリュイは魚の姿から人間の姿に戻る。そこで周囲を見渡したリュイは目を瞠る。


(これは――サーカス……?)


 目の前にあるのは各地を巡業するサーカスのテントだった。王都にももちろん訪れることがあるが、アンゼリカが生まれ育ったリュヴェルトワールでは重みが違う。


 リュヴェルトワールのような田舎町ではこれと言った娯楽がないのだ。ましてやアンゼリカは貴族の令嬢で、気軽に遊べる同年代の子供もいない。サーカスが来た時、アンゼリカは大いに喜び、はしゃいだはずだ。


(きっとこの中にアンゼリカ嬢がいるはずだ)


 周囲はサーカスを楽しみにやって来たリュヴェルトワールの人々がいる。だが領主の息女が来ているとあれば目立つはずだ。世話係や護衛もなしに貴族の娘が歩き回るとは思えない。だが――。


(八歳の子供の記憶だからな……)


 母親のマーシェリーや世話係のリュセット、兄姉のエルクラッドやクローディアからアンゼリカの人物像を聞き出しておいた方が良かったかも知れない。自分はもっと慎重なつもりだったが、どこかで慢心があったのかも知れない。リュイは少しだけ我が身を省みる。


「でもまあ――いくらだってやりようはある」


 失せ物探し、迷い人探しは魔術の得意分野だ。もとよりそういった仕事を請け負うために魔術師ギルドには魔術師が控えているのだ。


 リュイはワンドと銀のベルを手に取ると、アンゼリカの顔を思い浮かべ、呪文を唱える。


「キツネ、コンパス、風見鶏――ここに汝の名を示す。彼の名はアンゼリカ・ル・トワール。叡智の光よ。智慧の音色よ。我を導け――」


 リュイは呪文を唱え終わるとワンドで軽く銀のベルを叩く。


 チリン。チリン。チリン――。ベルの音が転がるようにざわめきの中に広がっていく。その音に耳を澄ませながら、リュイは鷹目石ファルコン・アイの原石を取り出す。


 想定通りなら鷹目石ファルコン・アイは小鳥の姿に変わるはずだった。


 しかしここでリュイの魔術は想定外の動きをする。


 取り出した鷹目石ファルコン・アイはもこもこと風船のように膨らみ始め――パチンと弾け飛ぶ。


 そこに顕れたのは白いふわもこ――現実世界に置いて来たはずの使い魔ファミリアー、パッフだった。


「ぷう!」


「ええ!? パッフ、ついて来ちゃったの? 一体どうやって――」


 予想外の事態に、さすがのリュイも動揺を隠せない。しかしここはアンゼリカの潜在意識――夢の中で、パッフはドラゴンの幼生体だ。何が起きたって不思議ではない。


「ううん、夢の中では通常の魔術は使えないのかな――それともパッフが手伝ってくれるのかい?」


「ぷう!」


 リュイがパッフを抱き上げて問うと、パッフが元気よく答えた。


 リュイが何かするより早く、パッフはリュイの手の中から飛び出し、ふわりと浮かび上がる。


「ぷうっ!」


 ついて来いと言わんばかりにパッフが鳴く。


「わかった。僕の使い魔パートナーを信じよう」


 リュイは人込みを縫うように飛び出したパッフの後を追って駆け出す。

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