第15話 無知との遭遇・下
急ごしらえの応接間の、古びたソファにエルクラッド・ル・トワールは座っていた。この建物はトワール伯爵家の持ち物であるが、家具まではなかった。必要な家具は「とりあえず」持ち込んだのが明らかにわかる質素なものである。貴族の子弟を出迎えるようなものではない。
まあ、エルクラッドからすればそういう対応には慣れっこである。
エルクラッド・ル・トワールはよくも悪くも市井にて親しまれている人物だ。何せ普通の跡取りが勉学や武術の修練に費やしている時間、街で遊び歩いているのだから。
街の者たちの意見は「こんな跡取りで大丈夫か?」派と「周りが優秀ならなんとかなるんじゃない?」派で二分されている。ちなみに対立はしていない。
事務のお姉さまに声をかけたエルクラッドは、ひとまずここで待つように指示された。魔術師ってインテリ系のいやーな奴なんだろうなあとか思いつつそれに従っている。基本的に魔術師という連中は身分の上下というのを気にしないらしい。
貴族だからと言って特別厚遇されることはないのだ。
とは言え待ったのは五分程度のことだった。
扉が開いて入って来た者の姿に少々驚いた。それが年端もいかない少年だったからだ。十代に差し掛かったばかりにも見えるが、よく見ると少し耳が尖っている。ハーフエルフだろう。つまり見た目で年齢の判断がつかないということだ。
この国では人族とエルフ族の仲が険悪であるため、ハーフエルフというのは非常に珍しい存在だ。だがあえて深く掘り下げて事情を尋ねるようなことでもないだろう。エルクラッドは阿呆だが、その辺の機微については敏感なのだ。
もっと妙なのは肩の上に乗せたふかふかもふもふした謎の生命体である。子犬のようにも見えるが、明らかに違う。あんな生き物は見たことがない。
「ごきげんよう、エルクラッドさん。僕がリュヴェルトワール支部を預かる魔術師、リュイ・アールマーです」
リュイは人好きのする笑みをうかべ、右手を差し出した。こちらが貴族であるということについては本当に関心がないのだろう。しかしかわいらしい顔だ。これが女の子だったら口説いていた。
「エルクラッド・ル・トワールだ。そちらの仕事を手伝うように言われて来た。よろしく頼む」
エルクラッドはリュイと握手を交わした。女の子のように小さく柔らかい手だと、エルクラッドは思った。一方リュイの方はエルクラッドと手を繋いだ瞬間少し目を見開いた。妙な挙動だったが、エルクラッドは気に留めないことにする。
「シャルロタさん、悪いんだけどお茶を淹れてきてくれる? バラージュ司祭が持ってきてくれた焼き菓子があったはずだからそれも」
「かしこまりました」
リュイに指示されて、事務員のシャルロタが引っ込む。シャルロタは魔術師ではないが、リュイより明らかに年かさだ。論理教の内部でも上下関係はあるらしい。魔術師というのは論理教の中で聖職者に当たるのかもしれない。
「意外です」
「何がだ――ええと、ですか?」
「普通にお話くださって結構ですよ? 年上ですよね、十七歳」
リュイはにこりと微笑んでそう言った。こちらのことはある程度調べてあるらしい。ということはエルクラッドの風評も知っているはずだが、特に見下しているとかそういう様子はない。いたって友好的だ。
「じゃあお前も普通に話してくれていいよ。尊敬もされてないのにかしこまられても居心地悪いだけだし」
「それはそうかもね。ニックネームはエルク、で合ってるよね?」
エルクラッドが肩を竦めて本音を言うと、リュイはあっさりとそう返した。貴族相手にこの対応、案外肝が据わっているいるようだ。大商人の子息というのもあるだろうけれど。
「トワール伯爵が僕らが始めた教室に協力するっていうのが意外だったんだ。ほら、この街は聖竜教会の声が大きいでしょ? シスター・ペトラに会ったけど、ああいう行動を日常的にやってるみたいだった。王都であんなことしてたら聖竜教会のシスターと言えど牢屋送りだよ」
「ああ……会ったのか、あの尼さんに。ご愁傷様」
エルクラッドは遠い目をする。誰彼構わず女性を口説いていたエルクラッドもシスター・ペトラの襲撃を受けたことがあるのだ。どういう風にしたらあんな育ち方をするのかがよくわからない。
「――まあ、それはいいんだよ。アレを放置してるくらいだからよっぽど聖竜教会に頭が上がらないのかなって思ってたんだけど。伯爵は本腰入れて識字率を上げたいのかなって」
「しきじりつ?」
「ああ。ええとね。人口全体に対して読み書きができる人の割合のことだよ。トワール伯爵はこれを増やしたいってこと」
「それになんの意味があるんだ?」
「んーとね。貴族や商人の家だと読み書きができて当たり前だから実感がないけど――例えば読み書きができれば騙されて不利な契約を結ばされるみたいなことがなくなる。法律を始めとした色んなことが理解できるようになるから、不当な扱いを受けたら司法に訴えることができるようになる。何より読み書き算術ができればできる仕事が増える。住民全体の生活の質が向上するんだ」
「そ、そうなのか」
「そうなの。反抗を恐れてあえて識字率を上げない領主もいるけどね。トワール伯爵はかなり良心的な貴族だよ」
「そうだったのか――親父も家庭教師もそんな丁寧に説明してくれなかった……」
エルクラッドが呆然としていると、応接室の戸がノックされ、手にした盆の上に茶と焼き菓子を載せたシャルロタが入ってきた。
「お茶をお持ちしました」
「あ、シャルロタさん。小間使いみたいなことばかり頼んで申し訳ないんだけど、後で領主様に書状を出す必要があるから用意しといて。別に急ぎじゃないんだけどね」
「かしこまりました」
リュイはシャルロタにそう指示を出す。シャルロタは特に不満を漏らさずお茶と焼き菓子を並べると部屋から退出していく。
「で、ええと――なんだっけ。ん? どうしたの? パッフ」
リュイの肩に乗っていた白い生き物――パッフが翼もないのにふわふわとエルクラッドの方に飛んでくる。パッフはエルクラッドの匂いを嗅いで、じっと観察すると、ぺろりとその顔を舐め上げた。
「ぷう!」
「ふふ、気に入られたみたいだね」
「こ、この生き物なんなんだ?」
「さあ? なんだろう。一応調べてはいるんだけどね」
「よくわからない生き物飼うなよ」
そのままパッフはエルクラッドの頭の上に座ってしまった。
「本当に気に入られちゃったみたいだね――それで教室なんだけど」
「あ、ああ。親父――父上から協力しろって言われてるやつな」
「うん。獣人たちも貧困層の子供たちもあまり来なくて。ネムの店のマイアにも協力してもらってるんだけど、中々周知されてないみたいでね」
リュイは育ちの良さを思わせる品のいい所作でカップに口を付ける。いや、貴族のエルクラッドよりもずっと堂に入った優雅な所作だ。
「マイアって、あの跳ねっ返りと仲いいの? お前」
「うん、ネム家の店子なんだよ。その関係でね。いいよね彼女、頭がいいから話が早くて助かる」
「あの気の強いのをそう言えるお前すごいわ」
「それは置いといて、人数が増えたらエルクにも教師役を手伝ってもらうことになると思うんだけど、まずは周知をしないとね。それと貧困層については子供も働いてるだろうから来れないと思うんだよね。だから何か――まかないみたいなものを出せたらと思ってるんだけど、どうも予算がね。シャルロタさんが首を縦に振ってくれないんだよ。紙や筆記用具はネムの店を通すことでかなり経費削減したのにさ」
「そうなのか? いや、まあそうだよな。読み書き教えるだけなら食い物なんていらないもんな」
「うん。でもここで読み書き算術を学べばついでに食べ物ももらえるってなれば貧困層も興味を持つでしょ?」
「それはわかる」
「だから費用をトワール伯爵家から捻出してもらえないか、領主様を説得してほしい」
「は!?」
リュイの言葉にエルクラッドは目を見開いた。
「いやいや無理無理。俺に父上を説得なんて――」
「次期領主でしょ、それくらい頑張ってみてよ。そもそも伯爵閣下がここを手伝えって君を寄越したのも、そういう勉強のためだと思うよ?」
「うっ――」
まったくもってその通りだ。ぐうの音も出ないとはこのことである。
「僕は君が街で言われてるようなぼんくらだとは思ってないよ。ただ師に恵まれなかっただけなんじゃないかな? 大体エルク、君自身は悔しいと思わないのかい?」
「……悔しいに決まってるだろ」
それがエルクラッドの本音だ。数年前まではエルクラッドだって精一杯努力していたのだ。
「よし、俺が親父を説得する! 獣人たちや貧民たちへの根回しだってどうにかしてやる!」
「え、貧民街に行くつもりなの?」
エルクラッドが拳を握って立ち上がり宣言すると、さすがにリュイが驚いて目を丸くする。
「もちろん護衛はつけるけどな。伯爵家が本気だってことを見せなきゃ貧民街の連中は信じちゃくれない」
「――なるほど、それは確かに。エルク、やっぱり君はボンクラなんかじゃないよ。うん、パッフが気に入るわけだ」
それから同い年の少年同士として二人は色々と話をした。エルクラッドはリュイにうまく乗せられたことに結局最後まで気づくことはなかった。
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