White Maiden

「ううー、あっつーい!」

 自転車をこぎながら、私は叫んだ。叫ぶと余計に暑いけど、叫ばずにはいられない。

 まだ時期としては春だけど、これは夏だ。うん。

 今日は部活で遅れてしまって、もうすでに闇が迫りつつあった。星もチラチラときらめく。

 いそげいそげ。


 それにしても。


 夏、か。


 私は夏を感じるたびに、ふと、あのときのことを思い出す。


 ~七年前~


 わたしは、家族が嫌いだ。


 あまり外に遊びに連れていってもらえないし、いけたとしても、すぐに家に連れて帰られる。

 いつも暗い顔をしていて、ママはビクビクしているし、パパは何かあるとすぐにわたしの機嫌を取ろうとする。

 わがままを言うとなんでも聞いてくれるし、たくさん構ってくれるけど、わたしじゃない、他の誰かを見ているような気がした。


 わたしは、夏が嫌いだ。


 だって、夏休みになると、おかしなママとずっと一緒にいなきゃいけないんだから。それに、この季節のママとパパは、いつもより変だ。

 ママは普段よりもさらに家にこもってお買い物にもいかないし、いくとしても、わたしは連れていってもらえない。

 パパは毎晩のようにお土産を買ってくる。だいたいは食べ物で、なかにはわたしが好きじゃないものも混じっている。それを残すと、パパはすごく悲しそうな顔をするの。


 わたしは、ユリの花が大嫌いだ。


 夏になると、わたしの家の庭にはユリの花が咲く。真っ白で、大きくて、とてもきれい。

 でもわたしは、大嫌いだった。


 ユリの花が咲くのを見るたびに、ママは泣くし、パパも鼻をすんすんしている。そんなにいやなら、育てなければいいのに。


 夏のお庭は、ユリの花しか咲いていない。いつもならいろんなお花が咲いているのに、八月までは、ユリしか咲いていない。

 昔は向日葵なんかも植えていたって、おばあちゃんは言っていたのに。そういえば、その話をしたときのおばあちゃんも、泣きそうになっていたっけ。


 いつも外にいけないけれど、夏は特にだめだと言われる。どんなに良いお天気で、どんなに外でおともだちの声がしても、ママは遊びにいっていいとは言わない。


 だからわたしはずっと、本を読んだり積み木で遊んだりお人形遊びをしたりして過ごすけど、だんだんイライラしてきて、ママに怒鳴る。


「いなほも外で遊びたい!!」


 居間でテレビを見ていたママに向かって、だだをこねた。

 ママはといてもいないボサボサの髪を雑に後ろでまとめている。黒い髪は艶なんてなくて、よどんでいた。

 畳に寝転んで、ジタバタと両手両足を動かして、ママに言う。

 でも、ママはわたしを見て、首を振る。ママの目は、顔にぽっかり穴が空いているみたいで、嫌いだ。


「だめよ、稲穂ちゃん。お外は危ないの」

「やだやだ! いなほも外で遊ぶの!!」

「おねがい、稲穂ちゃん」

「やーだーやーだー!!!」


 わたしはぎゃんぎゃん泣いて、ママにおねがい(?)したけれど、ママはいいとは言わない。


「いい加減にしなさい!」


 とうとう、怒られた。わたしはビクッとして、からだの動きを止める。

 でも、わたし以上におびえていたのは、ママだった。しわくちゃの服をさらにくちゃくちゃにして、やせほそったからだを抱きしめて、震えている。

 それから口元を抑えて、泣きそうな目を見開いて、わたしを見た。


「おねがい、稲穂ちゃん」


 ママはさっきの言葉を繰り返した。


「家のなかに居て?」


 わたしは下唇を強く噛んで、部屋を出た。


 その日の夕方。ママは珍しく、お買い物に出掛けた。もちろんわたしはお留守番。


 ママが出ていってからしばらくした頃、わたしは玄関の前に立った。


 なんとか外に出てやろう。


 その気持ちで頭のなかがいっぱいで、あとで怒られるかもとか、そんなことも考えられなかった。

 ただただ、こんな毎日が嫌だった。


「うーん! うーん!」


 背伸びをしてもジャンプをしても、鍵に手が届かない。いつもはだっこしてもらっているけれど、そんなこと、いまはしてもらえない。


 わたしは一度いつも遊んでいる部屋にいって、そこにある小さないすを取ってきた。その部屋は二階で、わたしは持ち上げるなんてことはできないので、引きずって降ろす。そのたびに、がたんがたんと、大きな音がなる。


「よいしょ!」


 ドアの前にいすをおき、わたしはその上に立った。

 目の前には、さっきまで手が届かなかった時計回りに回す鍵。


 どきどきと心臓の音がする。こんなことするのは、初めてだから。

 おそるおそる鍵に触れて、思いきって、


 鍵を、回した。


 ドアを開けると、ふわ、と、柔らかなオレンジ色の風が吹いた。家の中のじめじめした空気が、どんどん暖かい色に染まっていく。

 わたしはふらふらとくつをはいて、外に出た。


 オレンジ色の星空は、いつもよりもきれいに見えて、泣きたくなるほどやさしかった。

 もう帰りたくないな。

 心のそこからそう思った。


「あれ? いなほ!」


 わたしがあるいている道のさきに、おなじ幼稚園のまことくんがいた。短いツンツンした髪が、夕日に照らされてキラキラ光る。

 まことくんはおもちゃのバットとボールを持っていた。いつものように、野球遊びをしていたんだろう。

 見ると、膝のところに新しいきずができていた。


「めずらしいな、外にいるなんて」


 まことくんは首をかしげた。

 わたしはほっとした。まことくんは、一人だった。まことくんのママはいない。たぶん、家にいるのかな。


「どこいくんだ? もうすぐ六時だぜ。帰らねえの?」

「う、うん。もうちょっと」


 まことくんは、あやしんだようすはない。ママやパパの目をよく見ているので、ある程度なら、あいての人が何を思っているのかわかるけど、まことくんのくりっとした目は、『不思議』の色しかなかった。それにそれも、すぐに消える。


「いいなー。おれももうちょっとあそぼうかな」


 まことくんはそう言っていたけれど、「やっぱママに怒られるから帰る」と言って、帰ってしまった。


 わたしはまことくんがわたしの横を通ると、すぐに走り出した。


 ばれちゃいけない……ばれちゃいけない……ばれちゃ……


 まことくんが、まことくんのママにわたしに会ったことを話して、それでばれてしまうかもしれないと思うと、わたしは怖くて、とにかく走った。

 どこへいくわけでもないけれど、ずっとずっと長い時間、ただひたすらに走って、それで。


 道に迷った。


「ここ、どこ?」


 見たことのない家。見たことのない公園。見たことのない景色。


 視界を包むオレンジ色は、黒色に飲み込まれようとしていて、頬に感じる風も、ひやりと冷たかった。

 そのことにきづいたとたんに、怖くなった。


「うわあああん」


 家の近所にあるような街灯はなく、まわりはすでに真っ暗で、お月さまだけが静かに輝いている。

 心細くて、寂しくて。家を出たことを後悔した。

 怒られるかな、と、ふと頭にそんな考えが浮かんだけれど、それでも良いと思った。

 帰りたい。帰って、それで、ママとパパにちゃんと、わたしがなにをしたいのか、伝えよう。何度も言えば、わかってくれるはずだから。


 だから、帰りたい。


「うわああああん」


 泣いて泣いて。急に、嫌なことに気がついた。


 自分の泣き声でわからなかったけど、わたしの周りで、音がしない。冷たい風と、静かなお月さまの光、そしてわたしだけが、そこにいた。


 もう、泣きさけばなかった。さけぶことすらできないほど、どうしようもなく、怖かった。

 からだが氷みたいになって、動かなくなった。家を出るときとはまたちがった心臓の音が、わたしのなかでひびく。


 リ……ン


 鈴のような音が、わたしの耳元で鳴った。


「……!」


 言葉にならない悲鳴が、わたしの口のなかで消えた。

 お月さまの光がいきなり強くなって、わたしの目の前を白色で埋め尽くした。


 見えなくなったのは、ほんの一秒くらいだった。


 なのに、わたしの一メートルくらいさきに、しらない人が立っていた。


(お、お化け!)


 そう思うのに、なぜかわたしの心臓の音は静まって、どうしてだかわたしは、安心していた。


 冷たい風が、ふわりと吹く。


 月の光に照らされて、まるで銀色の糸のように輝く長い髪は、もつれることも絡まることもなく、あくまできれいに、闇のなかを舞っていた。


 わたしより少しだけ背の高い女の子は、ママにそっくりな笑顔でわらった。


「初めまして、稲穂ちゃん」


 女の子は裸足で、真っ白なワンピースを着ていて、


 両手いっぱいに、大輪のユリの花を抱えていた。


 ~現在~


 私が生まれる前、お母さんとお父さんには、「百合」という名前の娘がいたそうだ。ユリの花が咲く五月に生まれ、ユリの花が散る八月に、お母さんと買い物にいった帰りに、交通事故で亡くなったそうだ。当時まだ、十歳だったらしい。

 その話を初めて聞いたのは、あの、プチ家出をした一週間後。そのときはよくわからなかったけど、大きくなってから、ようやく、理解した。

 お母さんたちは、娘を失った悲しみから、抜け出せなかったのだ。


「おーい、小百合!」


 私は小百合の通う保育園のなかに入り、小百合を見つけて、声をかけた。


「おねえちゃん!」


 二つくくりにされた色素の薄い茶髪が、ぷくっと赤みを帯びたほっぺを撫でる。

 こちらを向いた小百合の顔は、笑顔だった。淡い茶色の瞳は、無垢な光を放っている。


 周りの友達にばいばいを言って、小百合が私に駆け寄る。小さな体で突進してくるので、転びやしないかと心配になる。

 事故の時すでにお母さんのお腹のなかにいた私はともかく、お母さんたちはもう、子供をつくる気なんてなかったらしい。けれど、あの事故から実に八年後、私の妹、小百合が生まれた。小百合は今年で、六歳になる。


『小さな百合』。その名前からして、お母さんたちはまだ、立ち直ってはいない。いや、そんな時は永遠に来ないのだろうと思う。だって、最愛の娘を失ったのだから。立ち直る必要なんてないと思う。


 ユリなんて咲かない、寒い一月に生まれた小百合。自分の名前の由来が気になるときがくるのかな。

 もしそのときになったら、私は、あの不思議な体験を話してあげよう。

 今はもういない、けれど確かに存在した、会ったことのない、たった一度だけ会った、私たちの姉の話を。


 保育園の先生たちに挨拶をして、自転車を片手で押して、もう片方の手で小百合の手を握り、帰路に着く。


「今日は楽しかった?」

「うん! 今日『も』楽しかった!」


 私が家出したことをきっかけに、お母さんたちは少しずつ考えを改めて、以前に比べればかなり自由にさせてもらえるようになった。小百合にも、私が着いていくのならと、公園に遊びにいくのだって許可してくれている。

 小百合は、のびのびと育ってくれることだろう。


「それはよかった。明日も楽しみだね」

「うん!」


 私は家族が好きだ。


 なんだかんだいって私たちを愛してくれていることがわかったから。


 私は夏が好きだ。


 私たち家族を繋いでくれた季節だから。


 私は小百合が大好きだ。


 ぽかぽか明るい、『百合』の生まれ変わり。


「今日の晩ごはんはね、小百合の好きなハンバーグだって!」

「やったあ!!」


 小百合の顔から、こぼれてしまわないかと思うほどの笑みが浮かんだ。


 空はオレンジと紺が混ざりあう。

 星空に、満月が浮かぶ。


 南東の空で、乙女座が輝いた。


__________

今回の作品は、Twitterにて開催された『月に詠む物語第1話』への応募作品となっております。

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