五
ぽつぽつと雨が降り始め、それに気づいたおばさんは、少しふらつきながら立ち上がった。
それと同時に玄関の方でガタガタ、と物音がする。
おばさんは小さく舌打ちをしながら、顎で「帰りな」とでも言いたそうな素振りを見せた。
古き良き日本家屋の床は、ギシギシと軋む。
長い長い廊下を進み、降り続ける雨を見つめながら口を開こうとした。
すると前方から、ふと声をかけられる。
「あんた、それ」
見上げると、青ざめた表情の中年女性が碧の顔を見るなり呆然と立ち尽くしていた。
「ああ、似てるけど別人だよ。こちらは碧ちゃん。仕事先で仲良い人の娘さんでね」
おばさんが何を言ってるのかわからず、とりあえず女性に頭を下げた。
「な、なんだそうなの。いらっしゃい。もう帰っちゃうの?」
「雨が降ってきたからね、送ってくよ」
「そう。またいらっしゃいね」
女性はさっきの表情とは打って変わって朗らかな笑顔でそう言った。
ああ、そうか。
"真宮憂"が居ると思ったから、あんな顔をしたんだ。
声を出さなくてよかった。と同時に
こんなに息が詰まる思いをずっとしていたのかと
自分の存在を自分で押し殺し、それを強要されるような家で生きていたんだと
そう思うと、それ以上何も言えなかった。
お互い無言のまま玄関まで辿り着き、扉を開けておばさんに一礼した。
「もう二度と来るんじゃない、こんな所に」
彼女は悲しそうな顔で、そんなことを言う。
たった一言「はい」と返事をして踵を返し、少し早足で
"実家" とも呼べぬ場所を後にした。
その日は、酷く寝付けなかった。
頭の中で何回も何回も同じセリフを反芻する。
その度に脳が揺らいで、耐えられない痛みが続く。
"真宮憂"はこの劣悪な環境下で何を思い、どう生きたのか。
それを探らなくてはならない。
それを見つけ出さなければならない。
その為に音楽に縋って頼って生きているのに、その先に一切の希望が見いだせず
何もやる気が起きなかった。
スマホがずっと振動している。
今日は練習だったはずだ。
目尻に涙が溜まって、それを拭いながら
耳に枕を当てて何も聞こえないふりをした。
疲れた。
意識が沈み始める頃、着信音と振動は聞こえなくなっていた。
朧気な記憶と、体温と、ぬるい空気と、
ほんのりとした絶望に、碧は全てを委ねた。
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