久々に捲ったその楽譜は、少し埃を被っていて

自分がどれだけこの曲を記憶の奥底にしまっていたのだろうかと、考えてしまった。


最初は覚束なかった指も段々と感覚を思い出し、今では目を閉じてても弾けるまでになった。

隼人と碧の歌も順調そうだ。

ただ、碧から不思議な提案があった。


『本番まで一切併せをしない事、を約束して欲しい』


つまりぶっつけ本番。一発勝負。

何故このような提案をしてきたのかも、碧は教えてくれなかった。


本番、"これまでに無い奇跡" が起こると

それだけ伝えられた。


あの日から一切僕らは顔を合わせず、各々で練習を続けている。

ソロ活動?と問いかけられても何の疑問も浮かばないだろう。


誰もいない、楽譜とCDだらけの散らかった部屋で、僕はひとり

ずっとギターを鳴らしている。

僕が音色を合わせる対象は、

古ぼけたCDから聞こえる叶多の歌声だけ。


~♬︎

ふと、スマホの着信音が響いた。


「もしもし」


「お疲れ様です、悠さん」


聞き慣れた碧の声だった。


「お疲れ様、どうしたの?」


「今日もし暇でしたらご飯に行きませんか?」


碧からこういう事を言われるのは初めてかもしれない。少し間を置いて答えた。


「空いてるよ。今どこにいるんだ?」


「神楽さんのバイト先です。6時に終わります」


「じゃあ6時に迎えに行くから、また」


「ありがとうこざいます!」


嬉しそうな碧の声が心地好く感じた。

珍しい誘いに胸が高鳴る。


ライブまであとわずかに差し迫ったこの時期に、この誘いという事は、歌の相談だったりするのだろうか。

予期せぬ出来事に少し不安を覚えながらも、約束の時間までまだ余裕があったので仮眠をとることにした。


「おやすみ」


叶多の写真に向かってそう呟き、電気を消して

暗がりに身を寄せた。


この時遠くのサイレンがうるさくて、あまり眠れなかったのを今でもよく覚えている。

何せ、これが転機だったのだから。

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