金木犀の香りが鼻をくすぐる。

この時間でも明るかった空は季節を越え、今ではすっかり暗くなっていた。


いつもの機械音が僕を出迎える。

長らく来る事のなかったスタジオ。背中に乗っているのは愛用しているギター。

この重さすら、本当に久しぶりだ。


防音室の扉を開けると、懐かしい音が鳴っていた。

トクン、と胸の奥が弾む。


「あ、悠さん!」


その音は、僕に気づいた碧をきっかけに鳴り止んだ。


「悠さん、今度のライブでやりたいことがあるんです」

「やりたいこと?」

「この曲をやりたいんです」


碧が指さした先の文字が目に入った瞬間、大きく心臓が跳ねた。


「これは………あまりやる気が起きないんだけど」


「叶多さんとの思い出の曲なんですよね?」


碧は、少し憂うような表情を浮かべた。

叶多が死んでからというもの、この曲を聞けるまで僕の精神が回復していなかった。

思い出であり、宝物のような曲である。


__今では、タブーのようなものになってしまったけれど。



「……私に考えがあるんです

今の悠さんに、私の歌声で贈りたいんです。

この曲を無かったことにしたくない。


すごくいい曲だから…」



碧の吸い込まれるような、それでいてチワワのように懇願する瞳を見ていたら、Noと言えるはずも無く。



「わかった……やろう。」


「ほんとですか!?ありがとうございます!」



飛び上がる碧の後ろには、いつもの表情でニヤつく神楽がいた。


隼人は僕と目を合わせようとしないものの、安堵と取れるため息をついていた。


よかった。いつもの僕らだ。


碧はひとしきり喜んだ後、僕の手を連れてスタジオの真ん中にあるパイプ椅子に座るように言った。



「すみません悠さん。あともうひとつお願いがあります」


「何かな?」



「音無さんと、ステージで歌わせて欲しいです。

原曲の音程少しずらせますか?」



思いもよらなかった言葉に、どこから出たんだと突っ込まれそうな歪な声が出た。


「っえ!?」

「はあ!?」


僕の声と、隼人の叫び声とも取れる驚いた声は、全く一緒だった。

隼人には何も伝えていなかったらしい。


「音無さん、すごく綺麗な声してますよね

一度でいいんです。一緒に歌ってみませんか?」


「いやいやいや、そんなの今まで1度たりともやった事ないんだけど。ていうか無理に決まってんだろ」


いつも冷静に、時には感情的にツッコミを入れる隼人だが、こんなに焦った様子を見るのは珍しい。


「……失礼なのはわかってます。

でも、いつも歌いたそうにしてるじゃないですか」


「何でそんな事」


碧は隼人が言い終わる前に、畳み掛けるようにセリフを被せる。


「練習中もライブ中も全曲口パクしてますよね。

わたしのピアノソロの時だって、舞台袖で小さな声で歌ってる。」


その言葉は、口を噤むのには十分すぎた。



「わたしは……わたしは、叶多さんの願いを叶えたいんです。それだけです

今度のライブっきりでいいんです。



___きっと、いい事が起こります」



隼人は碧の真剣な眼差しに、折れたようだった。


「わかった。1度きりって言葉が多いなあんたらは。

…ただ上手くもないから、色々教えてくれよ。


碧センセ」


そう言って隼人はドラムの後ろからマイクを片手に、碧の隣に立った。


「待って、ドラムは誰やんの?この曲ドラム必須よ?」

「神楽さんドラム出来ますよね?」

「やっぱそうなる感じ!?」


神楽はまあいっか〜と呆れ気味にドラムの奥の椅子に座った。

話がトントン拍子に進む中、自分だけが取り残されている。


「待った。僕もうこの曲を何年もやってないんだ、今更出来るかどうかなんて」

「やってから言ってくださいよ」


あんなに嫌がっていた隼人が僕に軽口を叩いている。

切り替えの速さに開いた口が塞がらなかった。


碧はいつの間にか手に持っていた楽譜を僕らに配り、音程の調整に入ってしまった。

何もかもについていけてない僕を尻目に、3人は練習を始める。


これまた、厄介な事になりそうだ。

そしてまた、少し胸が高鳴っている自分がいる事を、皆には隠しながら楽譜を捲った。

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