第91話 未来
「あたしたちは何もこいつに踊らされたっていうだけで、革命なんて大それた事を起こしたわけじゃない。切実な理由があってのことだ」
アーラの声は決して美しいものではありませんでしたが、不思議と人を惹きつけるものがありました。
それはお父様が持つのと同じもの――すなわち、生まれ持ってのカリスマでした。
「貴族たちはあたしらを顧みなかった。実際に、餓死者が出るところだったんだ。どんな事情があるにせよ、そこにいる二人は貴族の代表者だろう? 責任ってものがあるんじゃないのかい?」
サーラスとは違い、アーラには後ろめたいところがありません。
彼女の言葉に反論することは難しいように思えました。
しかも――。
「旧勢力は引っ込んでろー!」
「貴族を殺せー!」
「革命万歳!」
アーラの言葉に呼応した群衆は、すっかり勢いづいています。
レイが盛んに声を張り上げていますが、今の彼らにレイの言葉を聞くつもりはなさそうでした。
そこに、
ポロン……。
喧噪の中に、静かに響く音がありました。
その音は最初、群衆の怒号にかき消されそうなかすかな音でしたが、波が引くように、染み渡るように、群衆の罵声をゆっくりと塗り替えて行きました。
セイン様の竪琴です。
「民よ。一度でいい。彼女の話を聞いてくれないか?」
深いバリトンは、すでに王の風格を備えていました。
群衆――そしてアーラまでもが、押し黙って聞く体勢になります。
「レイ=テイラー、申してみよ」
「はい。ご配慮に感謝致します、セイン陛下」
セイン陛下に礼をしたあと、レイは再び群衆に呼びかけました。
「親愛なる民の皆さん。あなた方の願いは、なんですか?」
ゆっくりと。
言葉を慎重に選び、声色や表情にさえ細心の注意を払っているのが分かります。
「あなた方は貴族を殺したかったのですか? 違うでしょう? 切望したのは自らの生活の平穏……違いますか?」
わたくしには、群衆が戸惑っているように見えました。
まだまだ、反感の色の方が強いのは確かです。
ですが少しずつ、レイの言葉に耳を傾ける人が増えていきます。
「私たち民の平穏のため、これまで誰よりも尽くしてきたドル様やクレア様を、あなた方は殺そうというんですか?」
「我々民衆は――!」
「民衆なんて言葉で片づけないで下さい! ……あなた、お名前は?」
レイに名を問われて、叫びかけた男性が言葉に詰まりました。
「今石を投げたそちらのあなたは? その横のあなたは?」
「う……」
「私はあなた方自身の考えを聞きたいんです。一人一人名前を持ち、生きているあなた。あなたはドル様やクレア様を、ここで殺してしまいたいって本当に思うんですか?」
今度は、反論の声はありませんでした。
巧みな心理誘導です。
一人一人に名前を問うことで、レイは群集心理からの脱却を狙っているのでした。
「確かに、貴族の中には平民を顧みなかった者たちがいたでしょう。でも、このお二人は断じて違います」
平民たちが聞く体勢になっていることが、ありありと分かりました。
なぜなら――。
「ここでお二人を処刑したとして、あなた方は自分たちの子どもにそれを誇れますか? 私たちの革命は正しいものだったと、胸を張って語れますか?」
その話術を教えたのは、他ならぬわたくしだからです。
「クレア様もクレア様です」
「……え?」
急に話を振られて、わたくしは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたと思います。
「この先平和を取り戻して、皆が笑顔で暮らせるようになった時、クレア様まで死んでしまっていたら、自分を犠牲にしてきたドル様の誇りを誰が取り戻すんですか?」
「そ、それは……」
痛いところを突かれたこと、レイがわたくしを問い詰めるなんて想像もしていなかったこともあって、わたくしは言葉に詰まってしまいました。
「無実の罪を被って死ぬことが貴族ですか! 犬死にすることが誇りですか!?」
「待って、レイ。わたくしの話を――」
「そんな一時の誇りのために死ぬよりも、一時でもいいから私の為に生きて下さい!!」
「……でも、わたくしは」
貴族であるなら、ここで民たちのために幕を引くのが定めと思ったのです。
でも――。
「一度くらい、私のワガママ聞いて下さいよ、ばかぁぁぁー!!!」
初めて聞くレイの絶叫に、わたくしの心は打ち震えました。
「ば、バカって……、あなた……」
「ばかぁぁぁ! クレア様のばかぁぁぁ! うわぁぁぁぁん!!!」
「れ、レイ……」
レイが……泣いています。
あのレイがです。
いつも小憎らしいくらい余裕綽々で、わたくしのことを翻弄し続けたあのレイが、顔をくしゃくしゃにして泣いています。
そのともすればみっともないだけの泣き顔に、わたくしはいても立ってもいられなくなるのでした。
こんな所で何をしているんですの、クレア=フランソワ。
あなたの愛する人が泣いているのですよ?
何をぐずぐずしているの。
あなたの腕は棒きれですか。
わたくしが今すべきことはなに?
――駆け寄って最愛の人の涙を拭って上げることでしょう!!!
「お前らさあ……痴話げんかならよそでやってくれ、よそで」
アーラの声にはっと我に返りました。
見れば、アーラが苦虫を噛み潰したような複雑な顔をしています。
「おい、誰かこいつを連れて行け」
「イヤです! 私はクレア様からもう一生離れません! クレア様が死ぬって言うなら、私も死にます!」
「ちょ、ちょっと、レイ――!」
「あー、あー! わーった。わーったから喚くな、泣くな。どうせ処刑はなしだろうよ」
「……え?」
「見てみろ」
戸惑ったように言ったわたくしに、アーラが群衆の方を指しました。
「確かに……もう、貴族に悩まされることはないんだよな」
「私、クレア様に助けて頂いたわ」
「オレも。仕えていた貴族が悪い奴でさ。食いっぱぐれそうになったところを、クレア様が再就職先を斡旋してくれて――」
流れが、変わっていました。
アーラはわたくしを縛っていた縄を切ると、遠い目をしながら続けました。
「民が自分の頭で考え始めた。これからはあたし一人が引っ張っていく時代でもないんだろうね」
「アーラ……」
「あたしは目的を達した。貴族なんていうド腐れ制度がなくなるなら、後はどうだっていいのさ。命までは取らないよ。貴族なんて、どうせほっといたってくたばる奴らが大半だろうからね」
平民に頭を下げて金を借りる元貴族なんてもんも見られるかもね、とアーラは豪快に笑いました。
「ほら、行きな。新時代の幕開けに、しけた面は似合わないんだよ」
「……ありがとうございますわ」
そう言うと、わたくしはまだぐずっているレイを連れて、裁判を後にしました。
◆◇◆◇◆
「……まったくもう、あなたっていう人は……」
わたくしは議事堂近くにある公園の芝生で、レイを正座させていました。
レイは釈然としない顔をしていますが、知ったことではありません。
「たくさんの人に迷惑を掛けて……反省してますの?」
「あ、あのぅ……クレア様? 普通はこの流れですと、クレア様が殊勝な面持ちで私にお礼とか謝罪を述べる場面じゃないかと思うんですが……」
「何を世迷い言を言ってますの!」
「はい、何でもありませんでした!」
「大体、レイはいつもいつも命知らずで――」
わたくしはレイにお説教を始めました。
もちろん、ただの照れ隠しです。
本当は、今すぐ抱きしめて上げたいと思っていました。
レイに対する感情だけではありません。
皆がこうしてわたくしのために集まってくれたことが、震えるほど嬉しく思えました。
貴族としてのプライド、レイの前での強がりがなければ、きっと蹲って泣いてしまっていたと思います。
「……まあ、そう責めてやるな、クレア」
「セイン様! ……いえ、セイン陛下」
照れ隠しと強がりでまくし立てていたわたくしを止めてくれたのは、セイン陛下でした。
「裁判はもうよろしいんですの?」
「……あんなことがあったからな。中止になった。元々あの裁判は、お前たちを見せしめにするためだけにサーラスが言い出したことだ」
革命政府的には既に終わった案件だ、とセイン陛下は言います。
すると、レイが何かを思い出したかのように言いました。
「そう言えばセイン陛下。陛下にお礼を申し上げるのを忘れてました」
「……何のことだ?」
「竪琴です。凄かったですね」
「本当ですわ。みな、聴き入ってしまいましたもの」
「……あんなものは、何でもない。ただの手慰みだ」
素晴らしい腕前でいらっしゃるのに、相変わらず陛下にとって竪琴は評価に値すべきことではないようです。
「あの竪琴はどなたから教わったんですか?」
「……母だ。まだ存命の頃、病床で」
「そうだったんですね。ああ――」
レイはぽん、と手を打ってこう言いました。
「セイン陛下は今もなお、お母様に愛されていらっしゃるんですね」
セイン様が驚いたように目を見張りました。
どうしたのだろう、とわたくしが思っていると、ふいにセイン様の瞳から涙がひとしずく流れ落ちた。
「へ、陛下!?」
「セ、セイン陛下、どうなさったんですの!?」
「……なんでもない。なんでもないが――」
――母はずっと側にいてくれたのだな。
セイン陛下は独り言のように、しかし、噛みしめるようにそう言いました。
かつては憧れだった人。
レイに恋している今となっては、あれが憧れの域を出ない思いだったことは分かります。
でも、大切に思う気持ちは変わりません。
そんな相手が、長年か変えてきた傷の一つに包帯を巻くことが出来たの見て、わたくしはほっとする思いでした。
「……」
少し離れたところから、お父様がこちらを見ていました。
心残りのような、それでいてホッとしたような顔をして、遠くからわたくしたちを見守ってくれています。
生き残ってしまったな――そんな言葉が聞こえてきそうです。
そうですわね。
でもきっと、これにも何か意味があるのだと思いますわ。
「レイ、クレア、よく頑張ったね。さすがボクが見込んだ二人だ」
「クレア様、お久しぶりです!」
「お姉様! それにレーネまで!」
二度と会うことはないと思っていた相手との再会に、わたくしは心の底から嬉しさがこみ上げました。
それはレーネも同じなのか、抱きすくめてくるその目には光るものが滲んでいます。
釣られて、わたくしもほろっと来てしまいました。
「妬けるか、レイ? なんならいつでもオレの元に嫁に――」
「行きません」
「だよなー」
そう言ってカラカラと笑うのはロッド様でした。
朗らかで前向きなその性格に変わらはありません。
彼はこれからも折れず曲がらず、自分の道を歩いて行くのでしょう。
「レイさん……クレア様……」
「リリィ様」
リリィ元枢機卿は両脇を兵士に固められてやって来ました。
「一言、お詫びを言いたくて」
「そんな。リリィ様は悪くありませんよ」
「そうですわ。全てはサーラスの差し金じゃありませんの」
あのオルタという側面はサーラスによって生み出されたもの。
リリィ枢機卿だって、言わば被害者の一人に違いありません。
「それでも、リリィがしたことは許されることではありません。リリィは民たちの裁きを待ちます」
彼女の決意は固いと見えました。
ならば、わたくしたちがすべきことは、半端な慰めなどではないでしょう。
「そうですわね。なら、罪をきちんと償うことですわ」
「クレア様、そんな言い方――」
「そして、償ったら、必ず戻っていらっしゃい。わたくしたちは、いつまでもあなたを待っていますから」
「――!」
そう言うと、リリィ枢機卿の目から涙がこぼれ落ちました。
「ありがとうございます、クレア様。いつかまた、レイさんを挟んでケンカさせて下さいね」
そう言い残して、リリィ枢機卿は連行されて行きました。
司法の判断がどうなるかはまだ分かりませんが、彼女にも幸いがあるといいとわたくしは思いました。
「それにしても、凄いメンツが集まったもんだな」
ロッド様が集まった面々を見て口笛を吹きます。
言われてみると、確かにそうそうたる面々です。
王子様方三人にお姉様、レーネにランバート様、ミシャまで駆けつけてくれていました。
「本当にそうですね。クレア様もレイも、人の縁に恵まれています」
「それは違うよ、ミシャ」
感慨深げに言ったミシャを優しく諭したのはユー様でした。
「ここに集まった者たちはみな、レイとクレアに救われたものばかりだ。クレアとレイのこれまでが、こうして今、ここに形となって現れているんだよ」
ユー様の言葉はわたくしの胸のとても深いところに届きました。
お母様、見ていらして?
レイと一緒になって色々なことをして来ました。
夢中になってがむしゃらに進んできましたが、わがままなだけだったわたくしにも、こんなに沢山の友人が出来ましてよ。
「ほらほら、レイ。クレアと再会したら言いたいことがあったんじゃなかったっけ?」
ふと、お姉様がからかうようにレイにそう言うと、ぽん、とわたくしの背中を押しました。
突然のことに、わたくしは数歩たたらを踏みます。
気がつけば、目の前には殊勝な顔をしているレイが。
「あー、えーと……、クレア様?」
「な、なんですの」
「いえ……。やっぱり、なんでもないです……」
「煮え切りませんわね……。言いたいことがあったらハッキリおっしゃいな」
言わないで後悔する日がまた来ないとも限りませんのよ、というわたくしの言葉は、そっくりそのまま自分に向けた言葉でした。
すんでの所で拾った命です。
わたくしにも言うべき言葉があるはずなのでした。
「クレア様!」
「だから、なんですの」
照れ隠しにつっけんどんな口調で問うと、レイは両手でわたくしの肩を抱きました。
「私と結婚してください!」
レイの言葉の意味が脳に浸透するのに、それはそれは時間が必要でした。
そして、それを理解した途端、わたくしは顔が真っ赤になるのを抑えられませんでした。
ひゅーひゅー、と周りが囃し立てます。
「こ、こここ、公衆の面前で何を言っていますの! そういうのは二人っきりの時に厳かにですわね……!?」
まさかプロポーズされるとは思ってもみず、わたくしはどう反応したらいいのか困ってしまいました。
本当は単純なことなのです。
ただはいと頷けばいいだけでした。
でも、わたくしはこの時になってもまだ、素直になりきれずにいたのです。
「そうですか? それじゃあ、やり直しさせて下さい」
「い、いいですわよ? 特別に許して差し上げますわ」
「いえ、そちらではなく」
「え?」
当惑するわたくしを引き寄せると、レイは優しくわたくしの唇を奪いました。
再び脳が停止するわたくし。
そして静まりかえる周りの人たち。
「ファーストキスがあんな味気ないんじゃ嫌ですし」
レイはしてやったり、とでも言いたそうな顔で笑いました。
「も……ももも、もう! 貴女は本当に本当に本当に! 本当にレイなんですから、本当にレイは頭がレイなんですから!」
「私の名前がなんか変な形容詞にされてる!?」
我に返ったわたくしはレイをぽかぽか叩いきました。
レイは何やら悟ったような顔でされるがままになっています。
この……レイのくせに!
「……幸せにしないと許しませんわよ?」
「「「……え?」」」
レイと周りの人たちが重なりました。
「で、ですから、幸せにしないと許しませんわよ!?」
「……」
「な、なんですの。なにか言いなさ……」
一呼吸置いて、周りから湧き上がる祝福の歓声。
皆の顔を見ることも出来ずにいると、レイはわたくしの手を取って駆けだしました。
「どこへ行くんですの!?」
「どこへでも! もうどこへでも行けますから……二人なら!」
未来。
それはとっくに諦めていた何かでした。
言わば、まだ何も書き込まれていないキャンバスのようなもの。
わたくしはこれから、そこにどんな絵を描いてくのでしょう。
でも、確信していることが一つだけあります。
そのキャンバスに描かれるわたくしの隣には、必ずレイがいるに違いありません。
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