第86話 分かたれた道

「レイ……?」


 姿を見たわけでもなく、ただその名前を耳にしただけで、わたくしの心はざわつきました。

 諦めたはず。

 もう決めたはずです。

 彼女が生きる新しい未来のために、わたくしは散るのだと。

 わたくしが進む残り僅かな日々と、彼女に開かれた大きな未来とは、もう重なることはないのだと。


 それなのに――!


(レイが……レイが来てくれた!)


 連日、食事もあまり喉を通らず、睡眠もあまり取れていなかったこともあるでしょう。

 毎夜、レイと過ごした幸せな日々の夢を見ていたこともあるでしょう。

 心身共に限界だったわたくしは、思わず抑え付けていた本音が漏れ出てしまいました。


 わたくしはドアを打ち壊して部屋を出て行こうとしました。

 ――でも、その寸前。

 わたくしを見て優しく、しかし寂しそうに微笑むお父様の顔を見て、湧き立つ気持ちは一気に冷えてしまいました。


(わたくしが行ってしまったら、お父様は一人になってしまいますわ)


 もちろんそれは、お父様が望んでいることではあるでしょう。

 ですが、わたくしにはお父様を一人で死なせることはどうしても出来ませんでした。


「お父様も、一緒に――」

「それは出来ない」


 わたくしの言葉をお父様は予期していたように遮りました。


「なぜですの!?」

「時代が変わったことを、民は実感せねばならん。その為には象徴が必要だ。旧時代が終わったと明確に分かる象徴が」


 それが自分だ、とお父様は言うのです。


「愛されているな、クレア」


 窓際に立つお父様が、外を見ながらそう言いました。

 その口調は何とも形容しがたいもので、呆れているような、それでいて羨望するような複雑なものでした。

 わたくしも窓に近づくと、そこから見えた光景はわたくしの想像通りのものでした。


「レイ……」


 レイはたった一人。

 供も連れずにただ一人だけで、全身を魔道具の鎧で固めたサーラスの私兵を何人も相手にしていました。

 その顔には鬼気迫るものがあり、操る魔法の威力も普段よりタガが外れているように見えました。


「クレア、今からでも遅くはないのだよ?」

「……」


 窓の外から視線を動かさず、お父様は声だけで問うて来てました。

 質問の意図は分かっていましたが、わたくしはまともに答えることが出来ませんでした。

 お父様は一つ嘆息すると、こう続けました。


「私には出来なかったが、恋に生きる人生があってもいいはずだ。旧時代を背負って消えるのは、私一人でも十分だ」


 視線を感じてそちらを見ると、お父様が見たこともないような表情をしていました。


「お父様……?」

「思い返してみれば、私はお前に父親らしいことをほとんどしてやれなんだな」

「そんなこと……!」

「いや、そうだとも。ミリアを失ってから、私にとって貴族政治の終焉は何にも勝る目的だった」


 そう語るお父様の真意が、わたくしには計りかねました。

 お父様は今さら一体、何を言っているのでしょう。

 今さら遅いと言いたいのではありません。

 わたくしはお父様を恨んだことなど一度もないのです。


「私はそのために色々なものを犠牲にしてきた。主義、理想、金、プライド――その中にはたった一人の愛娘であるお前も含まれている」

「やめて下さいまし、お父様。わたくしは理解しております。お父様からの愛を疑ったことなどただ一度もありません。」


 わたくしはそれほどに甘やかされて育ちました。

 自分がワガママな貴族令嬢であることは自覚しています。

 それが許されてしまうほどに、お父様はわたくしを溺愛して下さいました。


「私はね、クレア。お前を貴族の娘としては扱ってきたが、果たして自分の娘として愛してこられたか、自信がないのだよ」

「そんな……!」

「血を分けた娘を自らの計画のために、平気で犠牲にしようとしている。赤の他人であるレイですら、それを咎めたというのに」


 それは初めて耳にする、お父様の弱音だった。

 わたくしを充分に愛したのだろうか、みずからの計画の大義はそれほどのものだっただろうか。

 恐らくそれは今日、ここに至るまで、ずっと誰にも言えなかったであろう、お父様が一人抱え混み続けてきた苦悩そのものに違いありませんでした。


「……お父様。少し窓から下がっていて下さいまし」

「……クレア?」

「お早く」

「あ、ああ……」


 お父様は戸惑うような様子を見せましたが、すぐにわたくしの言う通りにしてくれました。


「……」


 ――レイ、来てくれてありがとう。

 ――死ぬ前にもう一度、あなたの顔を見られて良かった。


 魔法杖すら取り上げられなかったのは、こうなることすらサーラスの計算だったからなのでしょうか。

 などと思いながら、わたくしは魔法杖を高く掲げました。


「クレア、何を!?」

「光よ……マジックレイ!」


 フランソワ家の紋章から迸った四条の光は窓ガラスを突き破り、眼下の庭の地面に焼け焦げた後を残しました。

 その向こうで、レイが呆然としています。

 視線がこちらを向きました。

 気がついたのでしょう。

 わたくしの存在に。


 そして、わたくしの意志に。


「クレア……」

「これがわたくしの選択ですわ、お父様」


 膝から崩れ落ちたレイの側に、マナリアお姉様が表れました。

 お姉様がレイを抱えて逃げていくのを見送りながら、わたくしはお父様に言いました。


「偉大なるバウアー財務大臣、ドル=バウアーの愛を一身に受けた娘、クレア=フランソワは、王国歴二〇一五年十一月にその命を終える――それでいいのです」


 お姉様たちの姿が完全に見えなくなってから、わたくしはお父様の方へ振り向きました。


「お父様は貴族としても政治家としてもバウアー史上最高の方です」

「クレア……」

「そして、ドル=フランソワは父親としてもこの上なく愛情深い、わたくしにとって最高のお父様ですわ」

「……クレア」


 お父様はわたくしのことをきつく抱きしめました。


「貴族として死ぬことを、わたくしは誇りに思います。そしてその誇りはお父様と、今は亡きお母様からわたくしが受け継いだ、掛け替えのない宝です」

「分かった……もういい。よく分かった」


 わたくしの言いたかったことは、全て伝わりきったと思います。

 お父様への愛、貴族としての覚悟、その他の全てを込めて、わたくしはお父様を抱きしめ返しました。


「お前は本当にミリアの子だよ」

「もちろんですわ。全てが終わったら、一緒にお母様にお詫びをしに行きましょう」


 わたくしがそう口にした瞬間、本当に一瞬のことでしたが、お父様は苦しそうに顔を歪めたような気がしました。

 おや、とわたくしが訝しく思った次の瞬間には、お父様はいつもの威厳溢れる顔に戻っていました。

 何かの見間違えだったでしょうか。


「そうだな……ミリアに詫びねばな」

「はい。でも、お優しいお母様のことですもの、きっと許して下さいますわ」

「……ああ、きっとそうだとも」


 階下では騒ぎが大きくなっていました。

 レイの襲撃はあわや成功する寸前で、サーラスの私兵はおろかオルタさえもが倒されていたからだ、とわたくしは後になって知ります。

 サーラスは慌てたようで、お父様とわたくしの処刑日を早める、とわざわざ宣言しに来るほどでした。


 もう、憂いはありません。


 あれだけのことをすれば、流石のレイも諦めるでしょう。

 わたくしの覚悟は伝わったはず。

 お姉様が来てくれたことも分かりました。

 お姉様ならばわたくしを失ったレイを、きっと立ち直らせてくれるに違いありません。


 これで心置きなく幕を引けます。


 これが大きな勘違いであることを、わたくしは後に思い知らされます。

 ですが、この時のわたくしにはそんなことは知るよしもないのでした。

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