第77話 リコリスの記憶
目が覚めると、そこは寮のわたくしの部屋でした。
確か……わたくしはクレマンを追い詰めて……。
曖昧な記憶を辿りつつ、辺りを見回します。
何もおかしな所はありません。
下段にしか布団が敷かれていない二段ベッド、一つだけ置かれた机やドレッサー。
わたくしはここに、一人で生活しているのでした。
外は明るくなっていました。
朝というよりはもう昼に近いような温かい日差しが部屋に入り込んでいます。
「クレア様ー!」
返事をする間もなく、扉が開けられます。
入ってきたのはレイでした。
「ちょっと、レイ。いくらあなたでも、ノックくらいしなさいな」
「私、でも!? それはあれですか、私はやっぱり特別、みたいな?」
「くっ……最近、調子に乗りすぎですわよ、あなた」
「てへへ、すみません。ところで、お身体の具合はいかがですか?」
ふざけた調子から一変して、レイは心配げな視線を寄越してきました。
「いかがって、別に普通ですわよ?」
「良かったー。一時はどうなることかと」
「何かありましたの?」
「何かもなにもありませんよ。覚えてないんですか?」
レイは腰に手を当てて、少し怒ったような様子でした。
「記憶が曖昧ですのよ。説明してちょうだい」
「クレア様はコンサートホールの裏道で倒れてたんです。姿が見えないと思ったら、何をしてたんですか、あんなところで」
「何って……何だったかしら」
よく覚えていません。
確か、誰かを追いかけて外へ出たような気はします。
「クレア様みたいに聡明な方でもあるんですね、ど忘れって」
「そりゃあ、ありますわよ。記憶力には自信がある方ですけれど、それだって限界がありますもの」
「ですよねー。ちなみに私は最初にお目にかかった日から全ての日の、クレア様のお召し物と髪型を記憶してます」
「記憶力の無駄遣いが過ぎますわね!?」
そんなことをして一体何が楽しいのでしょう。
「いやあ、忘れたくないことってあるじゃないですか」
「ありますわね」
「私にとって、クレア様情報というのはまさにそれです。少しでも多く、長く、記憶しておきたい情報ですね」
「はいはい、それは結構なことですわね」
わたくしが呆れるように言うと、ふとレイは何かに気がついたような表情をして、
「何だろう」
「どうしましたの?」
「いや、何なのか分からないんですけれど、何か大事なことを忘れているような……」
「奇遇ですわね。わたくしもですわ」
「やっぱりですか! じゃあ、おはようの口づけをば――!」
「永久に記憶から抹消しなさい!」
わたくしは枕をレイに投げつけました。
「冗談ですってば。ファーストキスはやっぱり、クレア様から頂きませんとね」
「そんな機会は永遠にないから安心なさい」
「クレア様つれなーい。そこが好きー!」
「つ、疲れますわ……」
わたくしがげんなりしていると、
「まあでも、お倒れになってたのは事実ですから、今日はどうか安静になさって下さい。明日も特務官の仕事は一日休日にしましょう」
「そんな訳にはいきませんわよ。まだサーラス様とお父様が残っているんですのよ?」
「クレマンを捕まえたのだって大手柄ですよ。陛下も一日くらいは許して下さいますって」
「ですが……」
「いいですか、クレア様?」
レイは真剣な表情をしながら指をピンと立てて、
「いい仕事はいい健康から」
「は、はぁ……」
「不調をおして仕事をしたって、満足するのはいけ好かない上司だけですよ?」
「それはまさか、ロッド様のことを言っていますの?」
だとしたら不敬にも程があります。
「あ、いえ、別件です」
「それにしてはやけに実感がこもっていましたわね?」
「やー、ブラックな労働環境については一家言ありまして」
「そ、そう……」
ブラックな労働環境とやらはよく分かりませんでしたが、何となく語感から察しました。
「とにかく、今日はゆっくりして下さい。今、朝食……や、もう昼食か。とにかくお持ちしますよ」
「ありがとう」
「クレア様、食欲あります?」
「ええ、普通に」
「じゃあ、ちょっと待ってて下さいね」
「ありがとう。お願いね、レイ」
わたくしが見送ると、レイは部屋を出て食事の用意をしに行きました。
「とはいえ、起きたばかりでまた横になるのもね……」
レイに見られたら何か言われそうですが、わたくしは本でも読もうと、立ち上がって机に近づきました。
「? これは……?」
わたくしの机の上に、見慣れないキャンディポットがありました。
レイが買ってきたのかとも思いましたが、蓋を開けると中身は一個しかありません。
「これは……リコリス?」
独特の風味が鼻を擽りました。
決して好きとは言えない香りですが、わたくしはなぜだか自然と、飴を口に運んでいました。
「……え?」
急に、涙がこぼれました。
なぜだか分かりません。
でも、あふれ出した涙は、拭っても拭っても止まることはありませんでした。
根拠はありません。
痕跡もありません。
記憶すらも。
それでも何故か、わたくしの側には大切な人がいたような気がしました。
「どうしたのかしら……わたくし……」
そのままじっとしていると、飴を舐め終わる頃には感情の嵐は過ぎ去っていました。
「お待ちどおさまです、クレア様――って、ダメじゃないですか、寝てなきゃ」
「起きたばかりで寝られませんわよ――って、わっ!?」
レイはわたくしの顔を見るやいなや、食事の載ったトレイを机に置くと、ぐいと体を近づけてきました。
「クレア様、何がありました?」
「な、なにって? ちょっとレイ、近い! 近いですわよ!」
「目が真っ赤です。泣きましたね?」
「寝起きだからですわよ」
「さっきは全然普通でした。言ったでしょう? クレア様情報は忘れないって」
「知りませんわよ!」
だって、自分でも全く分からないのです。
どうしてあんなに涙が溢れたのか。
あんなにも悲しい気持ちになってしまったのか。
「とにかく! わたくしは大丈夫ですから食事にしましょう。今日は何ですの?」
「後できっちり問い詰めますからね? 今日は――」
その後は、いつも通りのレイとわたくしでした。
こうしてわたくしは大切だった人の記憶を失いました。
失ったことにすら、気がつかないままに。
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