第60話 謀議
※ピピ=バルリエ視点のお話です。
バカンスもそろそろ終わりという頃のある日。
部屋にアシャール侯爵夫人――キャロル様を招いてヴァイオリンの練習をしていると、誰かが屋敷のベルを鳴らした。
「誰かしら」
「あら、きっとクリストフだわ。パトリス様に何かお話があると言っていたもの」
「お父様に、ですか?」
ベルの音で中断させられたので、少し休憩にしましょうとキャロル様が言った。
私は汗を拭いて香水を身に纏ってから部屋を出て階段を降りた。
「……正解」
キャロル様が言うとおり、そこにいたのはクリストフ様だった。
アシャール侯爵家のご嫡男で、ロレッタの婚約者でもある。
私にとっては恋敵に当たるわけだが、それ以外に接点はない。
バルリエ家が所属するフランソワ家の派閥とアシャール家の派閥は仲が悪い。
キャロル様だって昔のよしみがなければ、こうして教えを請うことは出来なかったはずだ。
そんなクリストフ様がどうしてこのバルリエ家に?
「お父様……いくら相手が格上の貴族だからって、あんなにペコペコしなくてもいいのに」
クリストフ様を迎えるお父様はひたすら平身低頭していて、見ていてあまり気分の良いものではない。
もちろん、お父様だって好きでそうしている訳ではなく、この厳しい貴族社会で生き抜いていくための処世術だということは私にも分かっている。
分かっていても、嫌なものは嫌なのだ。
「……部屋に戻ろう」
ヴァイオリンに集中していれば、こんな嫌な気持ちはすぐに晴れると思い、私は踵を返そうとした。
しかし――。
「この件は、ドル様にはくれぐれも内密にお願いします」
お父様のその一言は、私の興味を引くのに十分なものだった。
既に述べた通り、我がバルリエ家はクレア様のご実家であるフランソワ家の派閥に属している。
派閥である以上その中に上下関係が生じるのは仕方のないことだが、バルリエ家がフランソワ家から受けている恩はそれを補ってあまりある。
そんなフランソワ家の頭領であるドル様に、お父様が隠し事を……?
お父様はクリストフ様を連れて奥の応接室へと入っていった。
応接室は貴族同士の密談に使われるため、聞き耳を立てることも出来ない。
――そう、普通であれば、だ。
「お父様、ごめんなさい。でも私、心配なの」
私は応接室の隣にある書庫に入ると鍵を閉め、応接室のある方の壁に向かって手を突いた。
神経を集中し、魔力を壁に走らせる。
「聞かせて(テルミー)」
壁を満たした魔力はそのまま向こう側へと浸蝕し、応接室の空気をも満たす。
しばらくすると、私の耳に話し声が聞こえてきた。
『これ以上は無理です。ドル様に気付かれます』
まず聞こえてきたのはお父様の声だった。
私が今使ったのはミシャとの特訓で使えるようになった風属性魔法だ。
空気の伝播を利用して、広範囲の音を拾うことが出来る。
魔法的な防御がなされている場合は無理だが、今回のように部屋自体が物理的に遮音されているような場合には効果的な魔法だった。
聞こえて来る切羽詰まったような震え混じりの声色は、普段の朗らかなお父様からは考えられなかった。
『ふむ……では、どうします? 今さら降りられるとでも?』
対するクリストフ様の声は落ち着き払ったものだった。
落ち着きすぎていて、冷たく聞こえるほど。
二人は一体何の話をしているのだろう。
『私だって救えるものは救いたい! でも、人身売買が行われているのは私の領地です! このままではバルリエ家は破滅です!』
私は耳を疑った。
人身売買ですって!?
しかもバルリエ家の領地内で!?
『パトリス様、落ち着いて下さい。まだ事は明らかになっていない。もう暫くは大丈夫です』
『大丈夫なものですか! クリストフ様だってご存知でしょう? 近々、ロセイユ陛下自ら、貴族たちに監査を入れるとのもっぱらの噂です!』
『噂は噂ですよ』
『でも、それがもし事実だったらどうします!? バルリエ家はもちろん、アシャール家だってただじゃすみませんよ!?』
会話を盗み聞きしながら、私は壁に当てた手が震えるのを感じた。
私は一体、何を聞いているのだろう。
ひょっとしたら、知らないうちにバルリエ家は大変なことになっているのではないだろうか。
『監査が入っても、私たちの元にたどり着くのはずっと先でしょう。実際に事を行っているのは精霊教会なのですから』
精霊教会までが……!?
私は親の世代ほど精霊教会に対して敬愛の念がなく信仰心もそれほどない方だが、それでも教会が何かの悪事に荷担しているというのは衝撃的だった。
もしかして、私はとんでもない悪事の一旦をのぞき見てしまったのではないだろうか。
『クレマン様は何と仰っているのですか?』
『何も。父はいつもそうです。何も言わず、ただそこにいるだけ。父の顔色を窺って忖度した者たちが動き、いざとなれば切り捨てられる』
『……私もそうだということですか』
『私もね』
どうしよう。
どうしよう。
これは私一人にどうにか出来そうな問題じゃない。
誰かに相談しなきゃ。
でも、誰に?
真っ先に思い浮かぶのはクレア様だ。
クレア様なら信頼出来る。
派閥の道義的にも、クレア様に相談するのは道理に適っている。
でも、クレア様に相談すれば、ドル様に知られるのも時間の問題だろう。
そうなったとき、果たしてドル様は我が家を――お父様を守ってくれるだろうか。
何しろ、先に裏切ったのは恐らくお父様の方だ。
ドル様は寛大な方だが、自らの敵には容赦がない。
そして、ドル様を敵に回して生き残った貴族はこれまでにほとんど存在しないのだ。
『他に……相談出来る人は……』
脳裏にロレッタの顔が浮かんだ。
ロレッタは親友だ。
彼女ならきっと私の相談を無下にはしないだろう。
本来であれば。
でも、ロレッタはクリストフ様の婚約者だということを忘れてはいけない。
彼女の思い人はクリストフ様でないことは明らかだが、この際個人の思いはあまり関係がない。
婚約は家と家との約束事だ。
いくらロレッタが私の力になってくれようとしても、クグレット家がそれを許すかどうかは別問題だ。
最悪、今は何も知らないロレッタを巻き込むだけ、なんていう可能性すらある。
『いいですか、パトリス様。我々に出来ることは時期を待つことです。それは今ではありませんが、私の見立ててではそう遠くないはずです』
『……その言葉、信じていいのでしょうか』
『信じて頂くしかありません。私にとっても、これは命がけの仕事です』
クリストフ様の声は先ほどから八分の一音ほども揺らぎがない。
いつも穏やかに微笑んでいたあの顔が、今は恐ろしくて仕方がなかった。
隣の部屋の扉が開く音が聞こえた。
どうやら話は終わりのようだった。
私は息を殺して二人が書庫の前を通り過ぎるのを待った。
手はまだ震えが止まらない。
「どうしよう……どうしよう……」
思考がまとまらず、呼吸が乱れる。
とてもレッスンどころではない。
私はお父様たちに気付かれないようにそっと部屋に戻ると、キャロル様はヴァイオリンの手入れをしていた。
「そろそろ再開しましょうか……どうしたの? お顔が真っ青よ?」
「キャロル様、申し訳ないのですが、レッスンを中断して頂けないでしょうか」
「体調が悪そうね。もちろんよ。すぐに人を呼ぶわね」
「申し訳ございません」
キャロル様の目にも私の顔色が悪いことは明らかだったようで、快く中断を受け入れてくれたばかりか、私のことを大層心配してくれた。
その表情に嘘はないように思えた。
いや、思いたいだけかもしれない。
キャロル様もアシャール家の一族だ。
もしもアシャール家がバルリエ家と一緒に何か後ろ暗いことをしているならば、アシャール夫人であるキャロル様だって何か知っているのかも知れない。
唐突に知ることになった謀議のせいで、私はほとんど疑心暗鬼になっていた。
(誰か……誰か助けて……!)
誰にも届かないその声は、ただ私の胸の内で虚しくこだまするだけだった。
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