第59話 孤独な戦いの終わり
※リリィ=リリウム視点のお話です。
教会の貧困対策や経済体としての特徴を一通り話したところで、レイさんが席を立ちました。
リリィはしばらくクレア様と雑談をしていたのですが、クレア様のお茶が切れてしまったのになかなかお代わりが出てこないので、給仕担当者の様子を見に行こうとリリィも席を立ちました。
「リリィ様、今度は財務大臣のご息女ですって」
「いやね……汚らわしい」
そして給仕担当の修道女たちを見つけたのですが、耳に入ってきた会話の切れ端から内容を察して、とっさに物陰に隠れてしまいました。
「やっぱり、リリィ様が同性愛者というのは本当なんですね」
「ユー様という婚約者がありながら、不潔なことだわ」
やっぱり、と思いました。
こうして陰口を叩かれるのはいつものことです。
リリィの歳で枢機卿などという高い位についているのは異例中の異例ですから、やっかみを込めて色々なことを言われます。
その中でも多いのが、リリィの好きになる相手の性別についてでした。
リリィは何故か同性にばかり惹かれます。
自分でも異常だと分かっているのですが……。
まだ一介の修道女だった時、我慢しきれずに年上の司祭に告白したことがありました。
結果は――思い出したくもありません。
その日以来、リリィは異端として針のむしろのような生活を送っています。
「変態的な性癖を持っていても、宰相様の息女というだけで枢機卿になれるんだから、いいわよね」
「それだけじゃないらしいですよ。なんでも次期教皇を期待する声もあるとか」
「教会の権威が汚れるわ」
彼女たちの言うことは全て正しいとは思いませんが、その何割かは正鵠を射ています。
お父様という存在がなければ、リリィの歳で枢機卿になることは不可能だったでしょう。
リリィの恋愛観が教会の価値観にそぐわないのも確かです。
彼女たちが眉をひそめるのも、仕方ないことなのだと思いました。
――そう、思っていたのに。
「それはあんまりにも一方的過ぎやしませんか」
彼女たちの話を遮ったのは、レイさんでした。
「えっと、あなたは……?」
「クレア様のお側仕えの方ですよね? 何か?」
修道女たちは訝るような表情を浮かべて、レイさんを見ました。
その顔に悪びれる様子はありません。
「同性愛はそんなにいけないことですか?」
「えっと……」
「少なくとも、自然なことではないと思いますけど」
誤魔化すのは無理と悟ったのか、レイの真正面な問いに対して一人は言葉を濁し、もう一人は一般論で応じました。
言葉を濁した一人はもう一人に対して「やめなよ」などと言っていますが、もう一人の方は飽くまで持論を覆すつもりがないようです。
それも仕方のないことかも知れません。
修道女の社会的地位は決して低くないからです。
少なくとも貴族の側仕えをする平民よりはずっと高いと言えます。
修道女の中には、政争に敗れた貴族の息女だったものさえいます。
彼女たちが一介のメイドに遠慮する理由はないのでした。
「自然、とは?」
「だって、同性愛のカップルからは子どもが生まれないじゃありませんか。非生産的ですよ」
リリィはこれを言われると反論を思いつきません。
異性同士であれば子を残し、子孫繁栄や種の拡大に資することが出来ますが、同性愛者はそうは行きません。
お互いのことしか考えていない、身勝手な恋愛の形と言われても仕方がないと思っていました。
ところが――。
「子どもを産むことが正当な愛の条件であるなら、子どもを産めない異性愛のカップルもダメということになりますね?」
「それは……」
「そもそも、自然であることが正しい、ということであるならば、あなたは病気になったとき医学のお世話にならないのですか? 医学だって厳密な意味では自然な状態から外れていますが」
レイさんの発言は、リリィにとって思いもよらないことでした。
愛の条件とは何か、そんな視点で自分の恋愛観を考えたことはなかったからです。
そして、生産性という観点では異性愛のカップルをも否定しかねないというレイさんの指摘は、確かにと納得出来るものでした。
また、自然であるということの定義についても目から鱗が落ちる思いでした。
異論はもちろんあるでしょうけれど、確かに誰もが病にかかる以上、病苦は人間にとって自然なことだと言えます。
それを人為的な行為によって「治す」ことは自然と言えるのか、とレイさんは言うのです。
それは治療院という事業を行っている教会を否定するも同然のことでした。
あんな形で反論されるとは思わなかったのでしょう。
レイさんに反論した修道女は顔を赤くして言葉につまってしまいました。
「詭弁を……!」
「どこが詭弁なのか具体的に仰って下さい。そうでなければ、あなたの主張は感情論に過ぎないと判断します」
「どんなにもっともらしいことを言っても、同性愛は普通ではありませんしごく少数の異端です! 自分たちが普通でないことを弁えるべきです」
これもリリィには反論出来ないことでした。
どれだけ綺麗事を並べても、同性愛者はごく少数の異端です。
そんなリリィたちに、大多数である異性愛者たちに対して何かいう大義名分があるのでしょうか。
「同性愛者が異性愛者に比べて数が少ないことは認めます。ですが、だからなんです? 数が少ないことはいけないことですか?」
「それが普通でない証拠でしょう」
「数が多ければそれは確かに『普通』でしょうが、では数的な意味で『普通』でないことのどこがいけないのかとうかがっているのです」
「それは……だって……」
「ご自分の性的指向がたまたま多数派であったからといって、それがそのまま少数派を攻撃していいことにはなりません。それは単なる数の暴力であって正義ではありません」
「くっ……」
レイさんはこれについても明確に反論して見せました。
数で勝るというだけで、数で劣る者たちを攻撃していい理由はない、と。
リリィはいっそ清々しい気持ちでレイさんの論理展開を聞いていました。
「理屈はどうでもいいわ! 気持ち悪いのよ!」
「結局、そこですよね。生理的な嫌悪感なんです。自分たちには理解出来ない。理解したくない。だから攻撃する」
「それのどこがいけないのよ!?」
「いいですか、それこそを差別というんです。教会の教えは、精霊神の下の平等を謳っているのではなかったのですか? あなたの価値観は、教義に反してはいませんか?」
「!」
今度の反論は、明確にその修道女をたじろがせました。
信仰に篤い修道女ほど、その教義から外れることを恐れます。
精霊神の下の平等は教会の根本理念の一つです。
敬虔な精霊教徒である彼女にとって、そこを否定されることは耐え難いはずでした。
恐らく、レイさんはそのまま彼女を言い負かすことも出来たのでしょう。
ですが、彼女は別の選択肢を採りました。
「私はあなたを論破したり貶めたりしたい訳ではありません。同性愛者に対する偏見から自由になって頂きたいだけです」
「……」
「理解しろとはいいません。でも、せめて尊重して否定しないで頂けませんか?」
「……あなた自身も同性愛者なの……?」
「はい」
レイさんは譲歩する姿勢を見せました。
相手を否定するのではなく、尊重を求めました。
もしもあのまま物別れに終わっていたら、あの修道女の中には不満が残っただけだったでしょう。
レイさんはそうはしなかったのです。
レイさんと議論していた修道女は、やがて攻撃的な色を収めて歩み寄る姿勢を見せました。
彼女は決して悪人ではないのです。
彼女のような考え方はこの世界の多くの人が共有している一般論なのですから。
「すぐには……無理。でも、あなたが言いたいことは一応、理解出来た。考えてみるわ。反論を思いついたら、またぶつけるかもしれないけど」
「ありがとうございます。十分です」
修道女はまるで苦いものを飲み込むような表情でそう言うと、もう一人の修道女を連れて去って行きました。
一連の出来事を、リリィは呆然と眺めていることしか出来ませんでした。
レイさんがこちらに気がついたようで、視線をこちらに向けると、直後にぎょっとしたような表情をしました。
「ど、どうなさいました、リリィ様!?」
リリィは知らない間に泣いていました。
初めて……初めて、リリィの抱えていた苦悩を理解し、肯定してくれる人と出会いました。
リリィは信仰に生きる者です。
リリィにとって信仰は絶対でした。
そしてその絶対的なものから、リリィは毎日否定され続けてきたのです。
その孤独な戦いを肯定してくれる人と、リリィは出会いました。
「……ます」
「はい?」
「ありがとう……ございます……」
気がつくと、リリィはレイさんの胸に飛び込んでいました。
レイさんが慌てて抱き留めてくれます。
リリィより背の高いレイさんの体は、包み込むような安心感がありました。
「……今まで自分の恋愛感情を罪だと思っていました……それをあんな風に……」
途切れ途切れにしか、声になりません。
レイさんが言ってくれた言葉の数々を、リリィがどれだけ渇望していたか。
今のやりとりに、リリィがどれほど救われたか。
それを言いたいのに、涙で震える喉は言葉をなかなか紡げません。
「リ、リリィの気持ちを肯定して下さったのは……レイさんが初めてです。自分の考えを堂々と発言なさるレイさんは、とってもかっこよかったです……」
やっとのことでそれだけ言うと、リリィは涙に濡れる目でレイさんを見上げました。
レイさんは驚いたような顔をしていました。
でも、そんな顔もとても魅力的です。
リリィはこれは運命だと思いました。
「リリィはレイさんに恋をしてしまったかもしれません」
リリィがそれを口にすると同時に、すぐ側で何かが落ちる音がしました。
でも、リリィにはどうでもいいことです。
この人を離してはいけない。
それだけが、リリィの頭の中を占めていました。
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