第52話 彼女が水着に着替えたら
「じゃあ、クレア様。まずは水面に顔をつけてみましょう」
「絶対に手を離すんじゃありませんわよ!? 絶対ですわよ!?」
肩まで水に浸かりながら、わたくしは悲愴な顔でレイに念を押しました。
レイははいはいとぞんざいに頷きながら、わたくしにさっさと顔をつけるように促します。
レイとわたくしは、レイの自宅からすぐの場所にある海岸に来ていました。
真っ白な砂浜とエメラルドグリーンの海が綺麗ですが、今のわたくしにはその美しさを愛でる余裕はありません。
わたくしたちが何をしているかと言えば、金槌のわたくしが泳げるように水泳のレッスンです。
自慢ではありませんが、わたくしは水に顔もつけられません。
水に怯えるわたくしに生暖かい視線を向けつつ、レイはまずわたくしに水に顔をつけるように言いました。
わたくしは二、三回深呼吸をした後、思い切って顔を水につけました。
もちろん、目をつぶって。
うぅぅぅ……塩辛いし肌がべとつきます。
湖の方がよっぽどましですわ!
「ぷはっ!」
呼吸が出来ないということほど不安なものはありません。
わたくしはすぐに顔を上げましたが、言われた通り顔をつけることは出来ました。
「どうですの!? 今、ちゃんとつけられましたわよ!」
「そうですね。十秒くらいはつけましょうか」
「なっ!? そんな高度なことを初めから要求しますの!?」
「いえ、全然高度じゃないです」
苦笑するレイは何やら失礼なことを考えていそうでした。
ぐぬぬぬ。
ところで、浅瀬とはいえ海に入っている以上、レイもわたくしも水着を着ています。
わたくしは真っ赤なビキニタイプの上下に、パレオという白い布状の水着を身につけています。
貴族の間でこの夏最新の装いと聞いたので、早速手に入れたものでした。
レイの方はといえば、サイドに二本白いラインの入った黒のワンピースタイプの水着です。
平民のものらしいシンプルな水着ですが、彼女が着るととても愛らしいから不思議です。
まとめた髪から覗くうなじや、真っ白な太ももが眩しく、わたくしは胸が拍を打つのを感じました。
そんなわたくしの内心などつゆ知らず、レイはさっさと次に移ります。
「次は十秒を目標にしてみましょう」
「くっ……。いいですわ。ミスパーフェクトたるこのわたくしに、不可能などありませんわ」
わたくしはそう宣言すると、水に顔をつけました。
息が続きませんし、真っ暗なのは怖いです。
それでもわたくしはできる限り長く顔をつけ続けました。
「ぷはっ! 何秒でした!?」
「五秒ですね」
「くっ……。何という難易度……。一体、この世界で何人のものがそんな芸当を出来るというのかしら……」
「いや、ほとんどの人は出来ますからね!?」
なんてこと。
他の人間たちは魚が祖先だとでもいうんですの?
「ちょっと休憩したいですわ」
「なんのですか!? まだ二回顔を水につけただけですよね!?」
「十分じゃないですの。五秒も顔をつけられれば、そのうち泳げるようになりますわ」
「なりませんよ!?」
レイは抗議してきましたが、水泳の練習は休憩にして貰いました。
ふと思い出してレレアを探すと、彼女は少し沖の方にいました。
「レレア、なんだか少し大きくなってませんこと?」
「ウォータースライムですし、海水を取り込んでるみたいですね」
そういうものなのかしら、と思っていると、レレアは口から水を吐き出しました。
「レ、レレアが海面を高速で移動してますわ!?」
「ウォータージェットみたい」
「なんですのそれは?」
「あー、いえ、なんでもないです。それよりクレア様、レレアに負けてていいんですか?」
「良くはありませんけれど、あれは無理ですわよ!」
などと言っていると、
「レイちゃーん、クレア様ー。お弁当をお持ちしましたー」
声が掛けられた方を見ると、メルさんがバスケットを片手にこちらに手を振っていました。
彼女もまた水着を着ています。
別におかしな所は何もないはずですが、レイが何故か遠い目になっていました。
「ちょうどいいタイミングでしたわ。今、一休みしようと思っていた所でしたの」
わたくしはメルさんから渡されたタオルで身体を拭きながらそう言いました。
海水と戯れていたレレアも、浜辺に上がってぶるぶると水を切っています。
「そうでしたか。何メートルくらい泳げるようになりましたか? クレア様のことですから、もう百メートルくらいは楽勝ですか?」
メルさんは嫌みで言っているのではないことは分かります。
その笑顔に邪気は一切無いからです。
「そ、そうですわね……。それくらいですわ」
とっさにそう誤魔化すと、レイが白い目で見てきました。
ちょっと、ばらしたら承知しませんわよ!?
「ふふ、流石ですね。あ、これお弁当です。サンドイッチにしてみました」
メルさんがバスケットに掛けられた布を取り去ると、そこには水筒とサンドイッチが並んでいました。
えーと……。
「……ありがとうございますわ」
お礼は言ったものの、わたくしの表情は少し固かったかもしれません。
折角作って下さっても、口に合わずにあまり食べられないかも知れないと思ったからです。
嫌なのではなく、申し訳ないのでした。
「大丈夫です、クレア様」
「?」
レイがわたくしに小声で耳打ちして来ました。
「今日のサンドイッチはマヨネーズや辛子など、私が入れ知恵していますから」
「! でかしましたわ!」
平民の家でマヨネーズが食べられるなんて。
わたくしのレイは本当に気が利きます。
「どうぞ、一口」
そう言ってメルさんはサンドイッチを一つわたくしに差し出して来ました。
わたくしは少し警戒しつつ一くち口に運びました。
「! 美味しいですわ!」
「まあまあまあまあ。よかったです」
マヨネーズの芳醇な味わいに、ピリリと聞いた辛子のアクセント。
これならば十分にわたくしでも食べられます。
「このまよねぇずっていう調味料、本当に美味しいですね。レイちゃん、これは都で流行っているの?」
「うん。ブルーメっていうお店が始めた調味料。貴族様の間でも好んで食べられてるみたいだよ」
「そうなの。そんな高級料理に使われている調味料を知ってるなんて、レイちゃんもクレア様にいいところに連れて行って貰っているのね」
「うん」
「……? そうでしたかしら?」
わたくしがどうこうする前から、レイはマヨネーズのことを知っていた気がしますわ。
不思議に思いながら、わたくしはレレアにもサンドイッチを分けて上げます。
この子も口が肥えているのではないかしら。
「それにしても、クレア様はとっても可愛らしいですね。その水着も都の流行かしら」
「オーダーメイドで作らせましたの。この腰に巻く布はパレオと言うのですけれど、これが今年の流行ですわね」
「はぁ……。素敵」
「お母さん、落ち着いて。今、悪癖が発動したら、クレア様が大変なことになるから」
「!」
わたくしは慌てて自分を抱きしめるようにしながら後ずさりました。
メルさんには相手の着ているものを無意識のうちに脱がすという悪癖があるのです。
今のわたくしは水着だけ。
これを脱がされたらとんでもないことになります。
「分かってるわよぉ……。意地悪ね、レイちゃんは。それにしても、レイちゃんの水着は……はぁ……」
「ちょっと、ため息付かないでくれる?」
メルさんの溜め息に、レイが抗議の声を上げました。
「水着もそうですけれど、お母様はあんなにお胸が豊かですのに、レイは……」
「言わないで下さい。後生ですから」
などと言いつつ、わたくしはレイの水着姿をまともに見られないくらいドキドキしているのでした。
憎まれ口は照れ隠しです。
「私は成長期なので、これから大きくなるんですよ」
「まあ、頑張りなさいな」
「憐れみの目を向けるのやめてくれません!?」
などとじゃれていたその時――。
「おや?」
急に太陽が雲に隠れ、冷気のようなものが漂ってきました。
気づけば、辺りは霧に覆われています。
どうもこの霧、魔力を帯びているようです。
レレアも何かに怯えるようにぶるぶる震えています。
「!? レイ、見なさい!」
わたくしはレイに警戒を促しました。
霧の向こう、沖合からボロボロの帆船がこちらにやってくるのが見えました。
「あれは……幽霊……船……?」
メルさんの呆然とした声が、そのままわたくしたちの認識そのものでした。
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