第29話 アシャール侯爵家

 目の前には古くて重厚な扉があります。

 この扉の向こうにあの方――クレマン=アシャール侯爵がいるはずです。


 ここはアシャール侯爵のお屋敷です。

 わたくしはお父様から彼への直談判の権利をもぎ取り、こうしてやって来たのでした。

 門前払いされるかとも思っていたのですが、幸いにしてそうはならず、わたくしはアシャール侯爵であるクレマン様への面会を叶えられました。


 供はレーネのみです。

 平民も来たがっていましたが、アシャール侯爵は礼儀作法に極端にうるさいお方。

 あの者の礼法では、きっと話を聞いて貰うどころではなくなってしまうと思い、留守番を命じました。


 この部屋に至るまでの道のり、壁を飾る数々の調度や掃除の行き届いた屋敷を見てきましたが、どれもこれもが超一流でした。

 流石、家格だけであれば王家にも並ぶ家柄だけのことはあります。


 とは言え、そんなことで気後れをしていれば、これからの交渉など何一つ出来ないに違いありません。

 わたくしは知らず握りしめていた手からいったん力を抜くと、もう一度軽く握り直してからノックをしました。

 重たく分厚い扉が、わたくしのノックを吸い込むように受け止めます。


「入れ」


 重々しく、威厳のあるいらえがありました。

 お父様も時々こういう声を出します。

 声色だけで相手を従わせてしまう、上位貴族特有の声です。


「失礼致します」


 わたくしは膝から抜け落ちそうになるのをぐっとこらえながら、作法に気を付けつつ入室しました。

 目の前に立つのはお父様よりも一回り以上年上の男性でした。

 豊かな髭を蓄え、こちらを見据える瞳はどこまでも深い漆黒です。

 白髪こそ混じっていますが、丁寧に梳かされた髪の毛は後ろに流され、整髪料でなでつけられています。

 まだまだ現役のはずですが、醸し出す雰囲気は戯曲に登場する隠者のようでした。


「……ドルの娘か。確かクレアと言ったな? こんな老いぼれに何の用向きかね?」

「ごきげんよう、クレマン様。老いぼれなどとお人の悪い。まだまだご壮健でいらっしゃいますでしょう」

「くっくっく、上手い世辞だ。この儂を前にしてあからさまにそう言える者はそれほどおらん。さすがはドルの娘といったところか」

「母の血もあるかと存じます。母は大層な社交家であったとうかがっておりますので」

「ミリアか。確かにそうだった。あれはまさに薔薇よな。鋭い棘を持つ大輪の薔薇であったよ」


 挨拶代わりの雑談を交わします。

 何気ない会話の端々に、警戒と探りが入り乱れるのを感じました。


「お前はいくつになった、クレア?」

「十五になりましたわ、クレマン様」

「そうかそうか。早いものだ。ミリア亡くなってからもう十年以上経つのか。であれば、儂も老いさらばえるというものよ」

「ええ、本当に。母は今でもわたくしの目標です。ですが、クレマン様がお年を召したなどとはご冗談を」


 これは軽いジャブ。

 わたくしにとって触れて欲しくない話題を敢えて振ることで、わたくしを試しているのです。

 激昂して礼を失するようならばそれまで。

 話を聞いて貰うためには、これくらいは笑って流さなければならない。


「ふむ……いいだろう。合格点をやる。用件を申してみよ」

「ありがとうございます、クレマン様」


 緒戦は突破しました。

 ここからが本番です。


「ディード=マレーへの処罰について、ご再考頂くことは出来ませんかしら?」


 持って回った言い方はここまで。

 わたくしはずばり本題を切り出しました。

 迂遠なやり取りも出来なくはないですが、それをクレマン様という妖怪じみた相手にするのは愚の骨頂です。

 拙いは拙いなりに、自分の得意分野で勝負しなければ、話にもならないでしょう。


「これはおかしなことを言う。司法権は精霊教会の領分だ。儂にそれを言うのは筋違いというものではないかね?」


 これは想定済みの反応です。

 わたくしは続けて言います。


「そんなおためごかしはおよしになって下さい、クレマン様。今回の裁定にクレマン様の派閥が一枚噛んでいることは周知の事実ですわ」

「ふむ……。まあ、認めよう。それで、お前は儂にどうして欲しい?」

「平民たちが納得出来る裁定に改めるよう、精霊教会に取りなして頂きたく存じます」

「……」


 今度のわたくしの言葉に対して、クレマン様は少し考え込むような様子を見せました。

 わたくしが訝しんでいると、


「クレア、お前は何のためにそんなことを言うのだ?」

「え?」


 わたくしはクレマン様が言うことをすぐには理解出来ませんでした。


「お前とて貴族であろう。平民のためなどと綺麗事を言うのはよせ。本当の狙いはどこにある? 儂の派閥と精霊教会との関係に亀裂を入れることか?」

「ち、違います! わたくしはただ今の状況は平民だけでなく、貴族たちのためにとってもよくないと――」

「なんと……。で、あれば、今のは冗談ではなかったのか。驚いた。驚きすぎて笑ってしまうよ」


 くっくっく、とクレマン様は低く笑いました。


「クレマン様、平民をこれ以上怒らせれば、貴族にとってもよくないことが起きます」

「憐れな……それでも歴史あるフランソワ家の令嬢か。今は亡きミリアも、今のお前を見ればさぞかし悲しむことだろう。平民のことなどに思い煩わされているとは」


 話が通じません。

 クレマン様は本気で、心の底から平民などどうでもいいと思っているようです。


「クレマン様。時代は移ろっているのです。平民とていつまでも支配に甘んじるだけの存在ではありません。貴族も変わらなければ、平民に取って代わられてしまいます!」


 言いながら、わたくしは驚いていました。

 そんなこと、わたくしの方こそ今の今まで考えてもみなかったからです。


 そんなわたくしの内心を見透かしたのか、クレマン様は鋭い視線を投げると言いました。


「クレア、よく覚えておくがいい。どれだけ時代が移ろおうと、貴族が平民を支配する構図は変わらぬ。それは永遠不変の真理なのだ」


 そう言い切ったクレマン様はテーブルからベルを取り上げると、それを鳴らしました。

 すぐに従者が部屋に入ってきます。


「お客様のお帰りだ。馬車を手配しろ」

「かしこまりました」

「お待ちください! まだ話は終わっていませんわ!」


 わたくしは狼狽しました。

 だって、まだわたくしは何も出来ていません。

 要求を通すどころか、相手にきちんと説明することすら拒絶されたままなのです。

 せめて、わたくしの訴えが吟味するに価値あることだと思って貰えなければ、今日ここに来た意味は何もなくなります。


「これ以上話すことなど何もない。とんだ無駄をしたものだ……。無理もないか、あれと友誼を結ぶような物好きではな」

「――!」


 全身の血管が沸騰するのを感じました。

 クレマン様がカトリーヌを揶揄したことが分かったからです。


「訂正して下さい! カトリーヌは立派な淑女です! そもそも娘をあれ呼ばわりするなんて――!」

「娘? 何の冗談かね? 確かにあれには儂の血も流れているが、半分は平民の血を持つ出来損ないだ。娘扱いなど到底出来ぬよ」

「この――!」

「いけません、クレア様!」


 クレマン様に掴みかかろうとした私を、じっと今まで耐えてきたレーネが必死で止めました。

 この時わたくしは、完全に自分を見失っていました。


「ふむ……どうやらドルもミリアも娘に恵まれなかったと見える。ミリアから受け継いだのは棘だけか。嘆かわしい」

「訂正なさい! このわたくしに向かって、よくも――!」

「貴様こそ、誰に向かって口を利いている」

「――!」


 クレマン様は、そこでがらりと雰囲気を変えました。

 これまで無色透明だった部屋の空気が、急に質量を持ち始めたように重く感じました。


 それは、クレマン様が放つ圧でした。


「我こそはアシャール家第二十八代当主、クレマン=アシャール。フランソワ家の家格に免じてここまでは許したが、これ以上は許さん」

「……っ!」


 悔しいですが、わたくしは言葉が出ませんでした。

 クレマン様が放つ圧倒的な迫力に、完全に気圧されてしまっていたのです。

 数々の貴族たちと会い、国外の王侯貴族ともよしみを交わしたわたくしですが、クレマン様の存在感は全く異質でした。


 ――生まれながらの、支配者。


 泣きながら謝るレーネに連れられて、わたくしはアシャール邸を後にすることになりました。


 わたくしは何も……本当に何一つ成果を残すことなく、負けて帰ってきたのです。


「クレアちゃんは悪くないよー。ぜーんぶ、お父様が悪い」


 帰宅したその夜。

 そんなカトリーヌの慰めも、悔し涙に暮れるわたくしの耳には届かないのでした。

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