第4話 三王子
「ごきげんよう、クレア様!」
講義室で今日の講義の予習をしていると、あの平民がなれなれしく声を掛けてきました。
わたくしがうんざりした顔をしたのを見て取ったのか、ロレッタが平民の行く手を阻みました。
「気安く話しかけないでくれる? 私たちはあなたとは住む世界が違うの。ねえクレア様?」
ロレッタは意地の悪い声でそう言いました。
彼女は別にいじめっ子というわけではないのですが、わたくしと同じく身分や秩序には潔癖なところのある子です。
「あー。あなたたちみたいな取り巻きに用はないんだ。私はクレア様に言ってるの。はい、クレア様、ごきげんよう?」
「なっ!? 無礼な! 私を誰だと思ってるの。フランソワ家に代々仕えるクグレット家の――」
「だから取り巻きでしょう?」
「ク、クレア様ぁ……」
ロレッタが泣きべそをかいて戻ってきます。
彼女のような純粋な貴族には、この平民のように無礼な相手は難しいかも知れません。
「この平民……。調子に乗らないで下さる? あなたなんかにかける言葉などなくってよ。だいたい、ごきげんようはお別れの挨拶として使うもので――」
最近、王国では貴族の間でも言葉の乱れが目立ちます。
平民が使うような下賤な言い回しをする者が増え、わたくしはそれを憂慮しているのでした。
本来、このような基礎的な教養を平民に説くのはわたくしの仕事ではないのですが、このまま放置していては学院の風紀に関わります。
わたくしは仕方なく、平民に正しいバウアー語を教えました。
「そして結局、声をかけちゃうし、用法まで丁寧に教えてくれちゃうクレア様なのでした。好きです」
ま、また好きとか世迷い言を!
「う、うるさいですわね! あなた、わたくしをおちょくっていますの!?」
「はい!」
「全力で肯定!?」
やっぱりからかっているだけじゃないですのよ!
「暴走するんじゃないわよ、レイ。おはようございます、クレア様」
親猫が子猫に口でするように、平民の襟首を掴んだのはミシャでした。
わたくしは少し安堵します。
常識人の彼女なら、この平民の手綱を上手いこと握ってくれるでしょう。
「離してよ、ミシャ。今、クレア様で遊んでる所なんだから」
「せめて『と』になりませんの!?」
わたくしで遊ぶって何ですのよ!
いえ、別にこんな相手と遊びたくなんてないですけれど。
「だからそれくらいにしときなさいって」
ミシャが平民の頭を叩いた。
もっとおやりなさい、ミシャ。
「ミシャ……あなた、飼い猫の躾くらいきちんとなさいな」
「クレア様、レイは別に私のペットじゃないんですが」
「むしろ、クレア様に飼われたいです」
「あなたはちょっと黙ってて下さる!?」
この者がいると話が全く進みませんわ!?
どうしてこんなにふざけ倒すことが出来るんですのよ。
しかも、高位貴族たるこのわたくしの前で。
「クレア様、朝から元気ないですよ? 元気だして行きましょう」
「誰のせいだと思ってますの!? いいからあっちへ行って!」
「えー」
しっしと追い払う仕草をしても、平民はどこ吹く風。
ええい、鬱陶しい。
「朝から面白いことしてるね」
柔らかいテノールが響いたのはそんな時でした。
「ユー様……」
「おはよう、クレア。キミが取り乱すところなんて久しぶりに見たよ」
くすくすとおかしげに笑うのは、この国の第三王子であるユー=バウアー様でした。
柔らかいくせっ毛の金髪と朗らで優しげな笑顔は、まさに王家に相応しい品格を兼ね備えています。
それでいて気取ったところがなく気さくな方でもあり、女性からの人気が非常に高い方です。
そんなユー様に醜態を見られたことで、わたくしは少し焦りました。
これは弁解が必要ですわ。
「ユー様、これは違うんですのよ! この平み……レイさんが礼を失した行動をするので、注意していた所ですの」
「そうなのかい?」
ユー様は平民に水を向けました。
「いいえ。礼を失するどころか、愛を込めていました」
「あなた何を言ってますの!?」
「あはは」
平民はわたくしに対してだけでなく、あろうことかユー様の前でまで妄言を吐きました。
王族の前で、平民がですわよ!?
流石のユー様も気分を害するかと思いきや、彼はむしろより一層平民に興味を示して、
「レイ=テイラーだっけ。確か今年度の首席入学者だね。勉強ばかりの子かと思ったら、なかなか面白い子だ」
と、優しく笑いかけるのでした。
ああ、笑顔の無駄遣いですわ。
「それはどうも」
貴族の女性たちを虜にするユー様の笑顔なのに、平民は嬉しそうにもしません。
それどころか、その態度はどこか素っ気なくすら思えます。
「レイ、失礼よ。おはようございます、ユー様」
ミシャはレイを軽く窘めると、ユー様に挨拶をしました。
「ミシャか。おはよう」
ミシャに気づくと、ユー様は親しげに挨拶を返しました。
ユー様は誰にでも分け隔てなく優しい方ですが、その中でもミシャは特別なのです。
ユー様とミシャは幼なじみだからです。
彼女の家が没落する前はかなり親しい仲で、幼い頃にミシャはユー様に想いを寄せているように見えました。
もちろん、今となっては叶わぬ夢ですが。
「レイが失礼しました。後でよく言っておきます」
「構わないさ。むしろミシャももっと砕けた感じで接してくれていいんだよ? 学院ではみな平等なんだから」
「……考えておきます」
などという思わせぶりな会話が展開されているのですが、
「クレア様、あれどう思います? 焼けぼっくいに火が付いたと思いますか?」
「あなたはどうしてそう、いちいち発想が低俗ですの……」
仮にもミシャはあなたの友だちでしょう。
叶わぬ恋に胸を焦がす親友を案ずる気持ちはないのかしら。
「よぉ、ユーにクレア。お前らもおはよう」
そんなわたくしたちに明るい声をかけてきたのは、短い黒髪の美男子でした。
「おはようございますわ、ロッド様」
「おはよう、兄さん」
男性の名はロッド=バウアー様。
この国の第一王子で、ユー様のお兄様ですわ。
皇位継承順位第一位。
事実上の次の国王である方です。
「なんだなんだ。面白いことか? オレも混ぜろよ」
カラカラと笑うロッド様は軽い調子で会話の輪に加わってきました。
「面白いことなんて何もありませんわ。若干一名、学院の風紀を乱しそうな輩がいるだけで」
「それはあれですか? 私と一緒に風紀を乱したいと? 乱しますか? 乱れちゃいますか?」
「乱れませんわよ!?」
次期国王の前で何たる発言!
わたくしは巻き込まれるのを恐れて必死で否定しました。
「……なんだこいつ」
ロッド様は少しきょとんとした後、平民を何か珍しい動物を見るかのような目で見ました。
「奨学生で今年の首席のレイ=テイラーだよ。なかなか面白い子だよね?」
くすくす笑いながら、ユー様が平民を紹介しました。
本来であれば、平民が自ら名乗るのが作法です。
これだから躾のなっていない平民は……。
「確かに貴族連中にはいないタイプだな。親父の政策もなかなか笑える結果になってるじゃねーか」
「はあ……」
ロッド様が興味を示されたのに、やはり平民は気乗りしない反応です。
これが普通の人間なら、声を掛けられただけで栄誉と思うはずですのに。
「その反応、新鮮だな。レイか……覚えといてやる」
「どうも」
「だから不敬よ、レイ」
「どれだけの人が、ロッド様に覚えて頂きたがってると思いますの……」
王族の覚えがめでたければ、社交界ではその事実だけで武器となる。
平民には、そんなことも分からないようです。
「セイン、お前も来いよ」
「……俺はいい」
ロッド様の声に答える不機嫌そうな声に、わたくしは少し胸の高鳴りを覚えました。
講義室の後ろの方に座る銀髪の青年。
わたくしが、密かに想いを寄せている相手がそこにいました。
「セイン兄さんはこういう雰囲気好きじゃないと思う」
「むしろあいつが好きな雰囲気ってどんなだよ」
困ったように笑うユー様と、苦い顔をするロッド様をよそに、わたくしはちらちらと後ろに視線を送ってしまいます。
セイン様はこの国の第二王子です。
冷たい美貌と陰のある雰囲気。
気難しい性格でいらっしゃるけれど、そこがまたわたくしの乙女心をくすぐります。
何でも下品なほどあけすけな平民とは、まさに何もかもが対極のような方です。
「セイン様……」
お名前を口に乗せるだけで、心がときめきます。
まだわたくしが一方的に想いを寄せているだけで、セイン様の方はわたくしを沢山いる貴族たちの一人としか認識していらっしゃらないでしょう。
それでもいいのです。
学院で生活を共にする以上、いつかえにしが結ばれることもあるはずですから。
「声を掛けに行ったらどうですか? クレア様」
などと思っていると、平民がそんなことを言ってきました。
わたくしは驚きのあまり心臓が口からでそうになりました。
ま、まさかこの平民、今ので気付いたとでもいうんですの!?
「ど、どうしてわたくしが」
「だって、好きなんでしょう?」
公衆の面前で思いを直接的な言葉にされたことに、わたくしはひどく動揺しました。
こんなムードもかけらもない形で思いを知られるなんて、わたくしのシナリオにはありませんでした。
どうせならもっと雰囲気のある夜の砂浜などで二人きり、見つめ合って――などと夢想していたわたくしにとって、こんな形は不本意極まりません。
だから、わたくしはつい、言ってしまったのです。
「ち、違いますわ! セイン様のことなんてなんとも思っていませんわ!」
その言葉は、講義室中に響き渡りました。
しまった、と思ったときには全てがもう遅かったのです。
「……」
セイン様は身体を起こして立ち上がると、冷たい表情のまま、講義室を出て行かれました。
「あ……。どうしましょう……わたくし、そんなつもりじゃ……」
どうしましょう、どうしましょう。
今のでセイン様に嫌われてしまったかも知れない。
違いますの、セイン様。
わたくし、本当はあなたのことが――!
「後で謝りましょう、クレア様」
「……! 平民風情が何を知ったような口を!」
元はといえば、この平民のせいで!
「クレア様」
わたくしが恨み言をまくしたてようとすると、平民は普段とは違う真面目な表情で、強い視線を寄越してきました。
ひたと見つめられて、思わずたじろぎます。
「な、なんですの……」
「セイン様は繊細な方です」
「そんなこと、知っていますわ」
セイン様はとても細やかな心の持ち主。
だから、わたくしが支えて差し上げなくてはいけないのです。
「だから、謝りましょう」
「……う、うるさいですわね!」
わたくしは音を立てて椅子から立ち上がりました。
ある覚悟を決めて。
「気分が悪いですわ! わたくし、今日は帰らせて頂きます!」
「あっ、クレア様!」
「一人にして下さいまし!」
ピピとロレッタが着いてくるのも許さず、わたくしは講義室を後にしました。
目的はただ一つ。
セイン様の誤解を解くため。
「セイン様! お待ちくださいまし!」
お行儀悪く廊下を駆けていくと、学院の出口でセイン様に追いつくことが出来ました。
振り向いたセイン様は、いつもの神経質そうな表情でわたくしを見ました。
決して機嫌がいいとは言えないその顔に、わたくしは思わず言葉につまりました。
「……なんだ?」
「えっと……その……」
「……用がないなら、俺は帰る」
セイン様は踵を返すとそのまま行ってしまおうとしました。
今、誤解を解かなければ、もう一生振り向いて貰えないかも知れない。
そう思うのに、わたくしは上手い言葉の一つも思い浮かばないのでした。
ああ、せめてあの平民くらい素直に自分の気持ちを口に出すことが出来ていたら!
『クレア様、好きです』
わたくしの脳裏に、あの者のだらしない顔が浮かびました。
「セイン様、好きです!」
「……?」
思わず口から飛び出した言葉に驚いたのか、セイン様が思わず、といった様子で振り向いて足を止めました。
その顔には怪訝な表情が浮かんでいます。
あわわわ、わたくしってば何てことを!
「あ、その……だから……さっきのは誤解、そう誤解なのですわ!」
「……」
こうなってしまっては仕方ありません。
わたくしは考えるよりも先に口を開きました。
ああ、これではまるで、あの平民みたいじゃないですのよ!
「なんとも思っていない、と言ったのは、別にセイン様のことを嫌っているとかそういうことでは決してなく……」
「……」
「その……むしろわたくしは、セイン様のことを……」
「……」
「……後生ですわ。これ以上はまだ申し上げられません。お許しくださいませ」
まくしたてながら、わたくしは目尻に涙が浮かんでくるのを感じました。
このクレア=フランソワともあろうものが、なんてみっともない。
理想の貴族を演じ続けて来たこのわたくしが、こんな醜態を晒さなければならなくなるんて。
それもこれもあの平民が――!
「……そうか。分かった」
「へ?」
「……俺も少し誤解していたようだ。許せ」
そう言って、セイン様は確かに薄く笑ったのです。
「は……はい!」
「……お前は……」
「クレアです! クレア=フランソワですわ!」
「……そうか。ドルの娘か」
「は、はい!」
「……お前は、勇気があるな」
「え?」
勇気?
「……淑女であるお前にとって、このような弁解は恥ずかしかっただろう。だがお前は、それでも俺に声を掛けに来てくれた」
「それは……だって、セイン様に誤解されたままでは、わたくし……」
「……ああ。俺のような相手に、思いやりを向けてくれたのだろう。ありがとう」
「そんな! もったいないお言葉ですわ!」
わたくしが臣下の礼を取ると、セイン様はまたふっと笑って、
「……クレア、お前はいい女だ。俺などにはもったいないくらいにな」
そう言うと、セイン様はこちらに近づいて来ました。
えっ、えっ!?
「……」
セイン様はわたくしの目の前まで来ると、じっと顔をみつめられました。
わたくしは思わずぽうっと見とれてしまいました。
「……ぞ」
「はい?」
「……戻るぞ」
そう言ってわたくしの肩をぽんっと叩くと、セイン様は校舎に入っていきました。
「はい!」
わたくしは胸が一杯になりながら、セイン様の後を追いかけました。
一時はどうなることかと思いましたが、何だかいい雰囲気じゃないですの。
焦ったあまりの考えなしの行動でしたが、結果良ければ全てよし、ですわ。
ふん。
少しは感謝して上げてもよくてよ、平民!
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