第35話 Recall

 茜のフードを鋭い爪で引っ掛けていたのは、邪悪な笑みを浮かべた獄卒の1鬼だった。

「なんだ、ひ弱じゃの。これ如きで悲鳴を上げて倒れるとは」

「阿鼻にはもっと甚振りがいのある人間が多いが、ここはつまらん」

「しかし良い女だぞ。まだピチピチしておる。うまそうじゃな」

「おお、確かに鮮血な匂いがする、すすってみたいの」

「脳みそは、わしのものじゃぞ」

 腰を抜かし立ち上がれないでいる茜の頭上で、容赦のない恐ろしい獄卒の言葉が飛び交った。

 長く鋭い爪でフードを引っ掛けていた獄卒が、茜を上に引き上げる。恐怖で声を失った茜は、ただなされるがままに起立した。すると、突然誰かが茜の背後に入り込んだ。

「止めてください」

「また、うぬか。小童が我腕に触れるな」

 そう怒鳴りつけると掴まれている腕を大きく振り、茜の助けに入った玄を、隣席の客に向けて撥ね退けた。

「ガーン」

 玄は椅子の背もたれにぶつかり、カフェに不似合いの鈍い音が起きた。

 我に返った茜は

「玄君」

 と玄を気遣った。

 玄は立ち上がると再び獄卒に向って走り出した。

「まだ楯突くか」

「こいつ、この女に惚れておるのではないか?」

「面白い、目の前で喰われる姿を見せてやろうか」

 怒りで我を忘れそうになった玄の肩を大きな手が制止した。

「そこまでにしておけ、獄卒ども」

「ちっ、飼い犬めが」

「こやつか、人間の足を舐めて喜んでおる鬼は。きぃききき」

 獄卒達は奇妙な笑いを放つと、そのうちの1鬼が監一を前に、怯む事なく立ち上がった。

「餌を喰って飼い馴らされた哀れな鬼共よ。忘れるな、人間が我等の世界を支配しておることを。人界を必ず取り戻してみせようぞ」

「おおおおおお」

 他の獄卒3鬼が興奮気味に称えた後、カフェから消え去った。

 掴まれていたフードが解放された茜はよろめき、その場で倒れ込みそうになったのを、駆け寄った玄に支えられた。

「ごめんね、玄君。私が余計な事をしたから。監一さんを待っていろと言われたのに」

 未だ恐怖に身体の震えが止まらずにいた茜が言葉を振り絞り詫びた。

「ごめん、俺がちゃんと説明しなかったから、怖い目に合わせてしまって。あれだけで済んで良かった」

 急に安堵感に包まれた玄は、身体の筋肉が一挙に解れ、茜を抱えたまま座りこんだ。

 獄卒が残した言葉が、客席に座る鬼達の

スコーンを口に運ぼうとする手を止めていた。獄卒が去った後の静けさが、忘却の記憶を回想させる後押しとなっていた。

 カフェに漂う重苦しい空気が晴れないまま閉店を迎えようとしている。

「茜先輩、お客さんがまだ居るから、頑張ろう」

 大きく深呼吸をすると茜を支えながら玄は立ち上がった。

「皆さん、お食事中にお見苦しいところをお見せして申し訳ありません。どうぞ冷めないうちに食べてください。それから急がないと、戻る時間になってしまいますよ」

 玄は元気よく声を掛けると、一礼してから何事もなかったように笑ってみせた。

 止っていた空気が、玄の言葉によって再び動き出し、鬼達の会話が再開した。

「はぁ~ 良かった。玄イキなり獄卒さんの腕掴むから、まじで今度はアカン思たわ」

 義晴は無言で茜と玄を眺めていた理子に話掛けた。しかし理子からの返答はなかった。

「理子ちゃん、監一さんも戻って来たし、もう大丈夫やで」

 義晴の言葉は、未だ理子の耳には届かなった。


 監一に言葉を掛けて貰いながら、玄と茜が勇達の元に戻って来た。

「マジで、今回は、マジで、玄喰われると思ったな。心底焦ったって。でも無事でよかったぁ」

「ほんまや、絶対アカン思たで」

  勇が半べそで、玄と茜を両腕で包み込むと、彼等に義晴も被さった。

「はは、勇、義晴、ごめんごめん。スコーン取って窯から戻って来たら、茜先輩が獄卒に喰われそうだったから、咄嗟に我を忘れてしまった。監一さんも約束破ってごめんなさい」

「とにかく皆無事でよかった。しかしあの様子じゃまた来るだろう。ただ大王が帰って来るまで誰にも発布は変えれん。獄卒はそれが却下されん限りここに来れるのだ」

「そうなんだ」

「また来るのか」

「怖いわね」

「玄、必ず携帯を持っておれ、何かあったら誰でもいい電話しろ。分かったな。皆に伝えておく」

 監一はそれでも、まだ獄卒相手に不安が残るようだったが、閉店と共に一旦カフェを後にした。


 獄卒の残した言葉により、鬼達がカフェへ足を運ぶのに影響を及ぼすかと懸念されたが、オープンして以来、毎日作った物は完売となり大盛況であった。

「俺達の絶品な飯が、あんな一言で負けねえよ」

 勇は豪語していたが、本当にそうであって欲しいと願うばかりだ。


「デーツスコーン1とピザ2 お願いします」

 茜はあの日以来、猶予地獄以外の鬼に対して、警戒心が取れないようだったが、それも毎日の忙しさから徐々に薄れて来ていた。

「今日は特に忙しいわね。繁盛し過ぎよ、玄君のカフェ」

「あははは、現世でこれだけ儲かれば、もうテレビに出てそう」

「だな~ 有名人にも会えてるかもな」

「え? あそこに座ってるのって人?」

 俺の目に、眩いほどの光を放つ、地獄のカフェには全く似つかわしくない美しい女性の4人組が座っていた。

「どこから見ても人間だよな」

「そうなのよ。さっき来られたんだけど、話方もまるっきり人間だわ」

「人間界から来たのだ」

「え? 監一さん、ってことは人間? いや違う耕三さんが人間界に居る人間は食べないって」

「あれ等は妖だ」

「妖って妖怪のこと? 鬼さんとは違うのね」

「まぁそうだな」

「でも人間界にも飯があるだろう。わざわざ地獄に来なくても、あっちの方が旨そうだぜ」

「今は盆時だ。妖も耕作鬼も人界に戻るモノと、休みを取るモノが多いのだ。食べる物に有り付けなかったのか、ここの話を聞いて遊びに来たか。そんな所でないか?」

「お盆休み~! そんなのがあるんだ」

「地獄にはないぞ」

「監一さん、僕等のせいで休みなく働かされてるもんな~」

「本当だ」

「気の毒に」

 勇達が次々に監一に労いの言葉を送った。

「あ、そうや話ししに来たんちゃうねん。もうスコーンあんまりないで~」

「え? マジで、チーズ? デーツ? どっちも?」

「うん、どっちもや」

「まだ閉店まで5時間もあるし、外で待ちも出てる。俺今から仕込んでくるよ」

「私も手伝います。久し振りに厨房でもいいですか?」

「いいわよ。もう全員注文取ってあるし、料理を運ぶだけだから」

 理子の願いを聞いていた茜が俺より先に応えていた。

「じゃあ、理子ちゃん急ごう」

「はい」

 作業場に行くと先ずスコーンの生地を作る作業に取り掛かった。

「あんなに作ったのに、今日は今までで1番忙しいのかもしれませんね。あははは」

 俺に話掛けていた理子が、これまでに聞いた事のない、はしゃいだ笑い声を立てた。気が焦っていた俺は、慌てて小麦粉をボールに入れたので、俺の顔が小麦粉だらけになっていたからだ。こんな事で笑うんだ。ふと俺はそう思った。

「理子ちゃんって現世では何をしてたの? 俺と同じ大学生だったとか?」

 俺はあまり深い意味を持たず自然に話掛けた。そう言えば理子がここに来て以来、俺達はカフェのオープンが中心の毎日で、こうやって理子の事を知る機会が無かったのだ。

「私まだ高校生です」

「そんなに若くに死んじゃったんだ」

「事故で」

「俺と同じだ」

 理子はふと浮かない顔をした。そして彼女の中で急速な記憶の巻き戻しが起こっていた。


「あの~ ここのクラスに早乙女理子ちゃんって居ますか?」

「え? あ、あの窓側で本読んでる子です」

 理子は、千里北第一中学校の1年3組、窓側後ろから2番目の席で、本に向っていた。彼女以外は昼休みの残りの時間を、幾つかのグループに分かれ話に花を咲かせていた。しかし理子には話掛ける友達も、話し掛けて来る友達も居らず、存在すら時々忘れられるほど影が薄い中学生だった。

「君が早乙女理子ちゃん?」

 理子はどこかで自分の名前を呼んだ気がしたが、きっとまた悪口を叩かれているだけだと思っていた。

「もしもし、そんなに集中して本が読めるって、理子ちゃんは凄いね」

「あははは、玄もこのくらい集中力が身に付いたら、フリースローもっと上手くなるんじゃないか」

「うるさいよ。まだこの間の試合の事、根に持ってるのかよ」

 直ぐ傍で話声が聞こえる。それも私の頭上。誰? 理子は不思議に思い、中学に来て以来、初めて休み時間中に教室で本から目を離した。

「理子ちゃん? 俺3年の武田。これ落としてたよ」

 自分の前に笑顔の爽やかな2つ上の先輩が、私の宝物である祖母からプレゼントされた栞を手にしていた。

「栞に名前書いてるなんて、よっぽど本が好きなんだね。はい」

 前に立つ先輩は、大きな右手を差し出すと綺麗な長い指で栞を渡してくれた。

「じゃ、またね」

 短く別れを告げると、クラスの皆の熱い視線を受けながら教室を出て行った。

 暫く武田と名乗った人が通った扉を見ていると、パタパタと数人の足音がこちらに向かって来るのが聞こえた。

「ねぇねぇ、今の誰? 早乙女さん知ってるの?」

「超かっこいい」

「3年って言ってなかった?」

 今まで1度も話し掛けられた事の無かった理子が、初めてクラス中の視線を浴びた。

「私は、、、、」

 と答えようと口を開いた時には、もう女子の意識は他の男子生徒にあった。

「あの人、確かバスケ部だったと思うぜ」

「え? ここのバスケって結構強いんじゃなかった?」

「今度練習見に行ってみようかな」

「私も! もう1回会いたい」


『3年武田、バスケ部』

 この言葉が理子の胸に宿った瞬間だった。



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