一幕七節目 門出と、歓声。

一幕七節目 門出と、歓声。



天の声side



異種族たちが暮らす現世と常世の狭間に存在する亜空間のひとつ『花街』。


夜には生き延びるための身売りが行われる艶やかで騒がしく、そして淫らな場所かと思いきや、昼にはそのナリをすっかり潜めるのだから不思議なものである。


さて、今日。


そんな『花街』を身請けでもないのに堂々と出て行くものがいた。高級店『桜廉おうれん』の売れっ子 陰間であった『ベニ』こと暮无くれないだ。彼の体内には、深淵という特大の呪いがついた『魔神の血 』が流れている為、種族も『半魔人』で二次性はオメガである。生みの母親の顔は忘れてしまったが『人間』だったそうだ。


彼は、物心がついた頃から『花街』で片割れの弟と一緒に生きて来た。しかし、そんな弟もオメガとして『運命の番』の下に嫁ぎ、暮无くれないも二年ぶりの本格的な発情期ヒートが起こり、妙な夢を見たことを境に雇い主の夫婦の勧めもあって『ベニ』を引退することになった。

新しい就職先も紹介されているし、住処や食い扶持には困らんだろう。彼の楽観的な思考から二つ返事で受け入れたのだった。



(今迄の内容を振り返り、お終い)



✳ ✳ ✳



「あー、重てぇな。どんだけ詰めたんだよ……」


まだ『花街』を出入りできる大門もくぐれていないのに、暮无は疲労困憊です。と、言わんばかりの顔をしている。これから、山を二つ越えた先の新天地へ向かうのに大丈夫だろうか。見るからに重量のあるサクラ柄の風呂敷を背負い、左手にも別の風呂敷を握っているのだが、全て別れを惜しんだ店子や雑用係の子、世話になった『花街』の医者が寄越したものだ。暮无が店子だった時分に身につけていた飾りやら着物は大半が金銭に変えられ、欲しいと言われたものは譲る。彼としては、手元の金と身一つあれば問題ないと踏んでいた。計画どおりに静かに『花街』をあとにしようとしたものの『桜廉』を出た時点で周囲を固められ、捕まり、やんややんやと騒がれ、気づいたら手荷物が多くなってしまった。


現状に溜め息をついた。


「鳥人のやつ、なんか知らねぇけどスゲェ力が感じるものくれたな」


チャラリ…、着慣れない洋服のデニムパンツの後ろポケットから取り出す。黒のチェーンに──暮无の知っている範疇ではお目にかからないレベルに──大きい鳥の羽根がくくられている。しかも、太陽の日差しで七色に輝く。

情緒のない暮无は鳩の羽か?なんて思ったが、渡された途端に感じた得体の知れぬ重さ、まとわりつく『チカラ』に身震いした。驚きと嫌悪で突っ返そうとしたものの、口元に指を当てて悪友ともと呼べるくらいに古くから馴染みだった鳥人は、笑う。


──おまえさんを守ってくれる。要らなくなったら捨てずに、守りたい相手に譲ってな。


ボロボロな見た目で、売っても金にならなそうだし。他人に譲っても迷惑だろうよ、と渋々、ポケットにしまう暮无。

実際、この代物はとんでもない稀少な呪術具である。


──不死鳥フェニックスの羽毛。


効果としては、敵意のあるチカラ、よこしまなチカラを一定で跳ね返してくれる。また、呪術具 本体の消失と引き換えに『瀕死の対象者を完全治癒する』もしくは『死者の蘇生』という隠された効果つきだ。だから、『半魔人』の暮无にとったら『魔』の部分に反応するせいで嫌悪を感じる代物なのだ。でも、受け取ってしまったので『人』の部分へと持続的に羽根の効果が付与されている。


「まあまあ、楽しかったわな」


彼は、見上げる。

何度も、悪ふざけでよじ登った大門を。

いろんな記憶が思い出という波となって押し寄せる。シュイロから始まり、ベニとなって呼び名を変えクレナイとなる。二十年という長いようで短い人生だった、と暮无は胸中で笑う。飾りが着けられるように長くしていた髪もバッサリと短く切り揃えられ、中性的で整った顔立ちがよく栄える。ふっ、と笑う。そして、重い荷物を再び持ち上げて門を抜けようとしたが、門番が通行を止めて木の棒──警杖けいじょうという樫の木で作られた硬くて殴られた痛い──で門の前を塞がれる。短気な暮无。門番に突っかかって歯を見せるが、一人として表情を変えない。

なんなんだよ、と眉間に皺を寄せれば──


「桜廉のベニ、いや、商人あきんどの暮无殿」

「ん?お、おお…」

「おぬしの、新たな人生を祝いたもう」


暮无が声に振り返れば、多くの見世や建物から店子と住人たちが顔を見せていた。屋根の上に座ったり、立つものまで居る。壮観だ。昼間こそ静かな街という印象がある分、反応に困る暮无。

『花街』の管理者である爺さま──暮无が彼と初めて出会った頃は、壮年の男だった──が先頭に出て来て、暮无の手を握る。


「達者でな」

「おう、爺さんも」

「おいは、これからじゃい」

「役目が済んだら、また帰ってくるよ」

「そん頃には引退しとるかもなぁ」

「よく言うぜ。大旦那と同じで金にはがめつい癖に」

「……暮无、新しい地でも食と住には気をつけるんじゃぞ」

「おう、ありがと」


強く握られ、歳の割には力が残ってるもんだな、と思うものの。この街には世話になり過ぎた、オレの人生だった。と、気持ちを整える。爺さまの手を握り返して、お互いに頷き合えば解いた。解かれた利き手を高く挙げる。


「ありがとう!!世話になった!!」


暮无の言葉に、外に出ている住人たちが歓声をあげる。口笛、指笛、太鼓の音、拍手の音。騒がしさが強風となって吹きつける。


──元気でな!!

──べにー!幸せにねー!

──カラダに気をつけろよい!!


愛想笑いなんかじゃない。心からの笑顔を浮かべ、深々とお辞儀をする。今までの感謝の気持ちとした。

再び門へ向き直す。スッ…、と警杖が視界からずらされ門番たちに会釈される。


「ありがとう」


門番たちに聞こえるか、聞こえないかくらいの声量で告げ、歩き出す。

まだ、拍手と歓声はやまない。

ギィィィ…、と門が閉じていく。本来なら固く閉ざされている門が昼に開いていたのだ。身請けされたものの為ではなく、陰間を引退したものの為に。奇跡とも呼べる瞬間だ。


『花街』に送られたものは、『花街』で枯れていく。そう決まっていたことを覆した。

『半魔人』のオメガが。


《本当に、いい見世と雇い主だった。》


暮无が、桜簾とは別の他所の見世だったら、こんな日は迎えられなかったことだろう。ゆっくり軋みつつも閉じていく門扉が、バタァァン…、と合わさる。途端に誰かの、よっしゃー!今後も頑張っていこうや!!という勇ましい声が聞こえた。


夜には『一夜の戯れ』『ヒトユメ』を売る『花街』。

昼は、人情溢れる人々が生きている街なのだ。


暮无は、もう振り返らない。


歩く、歩く。踏みしめ、進んで行く。──ありがとう、さようなら、元気で。


『ベニ』は終わった。

これからは『暮无』の物語だ。






一幕七節目 門出と、歓声。




──────────

───────




閑話休題【情と、苛烈さと、後日談。】



鳥人side


営業時間外だと静かな街なのに、今は、盛り上がりを見せている。


何せ、ウチの古馴染みの元 売れっ子 陰間が『花街』を立ち去ったからだ。身請けなんかじゃないのに街の外へ出る。そのキセキのような出来事に、盛り上がっている住人たちを遠目から見守りつつ、ウチの隣には、つがいとなった登希助ときすけがいる。


「ケイさんの、ご友人に幸よ巡れ」


心臓の位置に、手を当てて顔を俯かせている。出て行った古馴染みを思って祈りを捧げているようだ。あまり、認知度の高くない宗派のようで、ウチからしたら意味があるのか分からない祈り方だ。


ウチは、手を引っ張る。登希助がこちらを見た。余所見をするな、慣れないモヤモヤとした感情を言葉にはせず、噛みつくように相手の唇を奪う。人前だからって、気にしない。むしろ、こんなのは『花街』では当たり前、日常だ。呼吸が乱れても、舌を入れて互いの口の中を舐め合う。ちょっと、息苦しくなったところで唇を離して相手の顔を見る。舌で濡れた上唇を舐めれば、一呼吸した後に、不思議そうに首を傾げてきた。


「……突然、どうされた?」

「別に、したくなったからしただけさ。嫌だったかい?」

「いいや、大歓迎だが。人前だから嫌がるかと」

「おまえさん、ウチを誰だと?」

「そりゃあ、名の知れた売れっ子さんだろ。……まあ、これからは俺だけの、さ」


優しい笑みを浮かべて、うなじを撫でてきた。ゾワワッ、と総毛立って逃げるように手を払い除け、睨めつける。


「うーん、そう、睨まんでもいいだろ?」

「さすがに!ここを撫でるのは、ダメ!」

「くちづけはいいのに?」

「慣れと、慣れないとでは別物さ!」

「はははっ、確かに」


地団駄を踏むウチに、イタズラが成功したコドモのように意地悪っぽく笑って手を差し出してきた。これは、慣れている。手を繋げば、相手が喜んでくれることも。

機嫌は治っていない。

そう、拗ねたように渋々と差し出された手に、手を重ねる。やさしいのに、力強く握られて離さないと言われているようで妙に浮き足立つ。


ウチらは、これから向かうところがあるのだ。


「やう、ケイラン。今日も美人だねえ?」

「ありがとう、おっちゃん」

「あんらまあ、ケイちゃん。今日は、一段とキレイよっ!また寄っててネ〜」

「うん、またね。おばちゃん」


歩けば、露店や商店の人らに声をかけられるウチに、笑い掛ける登希助。


「あなたは、この通りでは人気者だな」

「生まれた頃から、この通り……いや『花街』で暮らしてるからねぇ」

「……あなたが、気に入ってくれるといいのだがな」

「ん?おまえさんの、暮らしてる通りのことかい。おんなし『花街』なのになんも知らないねぇ」

「そうか。こっから大橋を渡って二本先の通りだ。商人と職人ばっかり暮らしている通りで、夜より昼のほうが活気はあるな」

「そうかい。お互いに違いあっていいじゃないか」

「だと、良いのだが」


そんなふうに、軽口を交えながら──やって来たのは、大きく横に広い平屋。

表玄関には、紫色の暖簾のれんに『呉服屋 南爽』という白抜きの店名が。そう、ここは登希助の職場であり奉公先だ。


「ちょいと、親父さんがいるか聞いてくる」


頷く。簡単に手が離れちまって、少しだけ残念だが。見知らぬやつが、我が物顔で店内に居ては奇妙だろう。しかも、ド派手な髪色のした異種族だし。


申し訳程度に、平屋の表玄関から右の隅っこ。そこの外壁に背を預けて、登希助が戻ってくるのを待つ。



──ベニのやつ、ちゃんと無事に辿り着けばいいけど。



──ああ、空が綺麗だ。

あのとき、命を投げ出さなくて良かった。生存の喜びに感謝するね。



──そういやぁ、互いの事を深く知らずに つがいになっちまった。ウチは比較的、長生きする異種族だけど……

登希助は、どうなんだろうね。ただの『人間』なら長くて残り五十年余りくらい……まあ、短命だとしても手を握って看取ってやるくらいの甲斐性はあるつもり、だ。けど、共に居た存在が居なくなる感覚は何度も味わいたくないもんさ。



──今日のお昼ご飯は何しようか…

魚屋から買い付けて、刺身も良い。いや、団子屋のお雑煮で腹を満たすのもありかもなぁ……



思考があちこちする。

目をつぶって、待機に専念。何やら、色めきだった声がチラホラと聞こえるが。ウチに言っているとは思えないので、反応も返さない。

──一際、うるさい。いや、騒がしさが耳をつく。いぶかしんで、目を開ければ表玄関で初老の男性を引き止めている登希助の姿が見えた。


何やってんだい、あそこは。


少しだけ居住まいを正してから、騒がしい二人に歩み寄る。


「おまえさん、何やってるんだい」


カランコッ、草履の底が音をたてる。登希助が、困ったような表情で引き止める為の手に力を込めた。


「あ、いやぁ、これはっっっ」


初老の男性がグリンッ…、顔ごと視線を向けてきた。商売人にありがちな熱意のこもった目だ。


「あなたさんが、此奴こやつのお相手さんで!?此奴は、私が山を散策している時に行き倒れているのを見つけたやつでしてね!実の息子のように育てて参りました!ちなに、日本妖怪族の、百目鬼どうめきだったかな?まあ、そんな血をほんのちょっぴりついではいますが、特異な能力に目覚めた気配はないのでご安心を!ああ、商売の為に鋭くした観察眼はありますが!」



──へー、日本妖怪族の血が混じってるのかい。初知りだ。

そんなら、寿命とかも長いかもね。



胸のうちが温かくなった。一抹の不安が、新しい風に乗って飛んで行った気がする。



「親父さん、それは俺から話そうと思ってたことなの──」

「いやぁ、実に、マブシイくらいにお美しいですなぁ!!して、こちらの模様入りの反物たんものなんて似合うんじゃ──」

「だぁぁぁ!親父さんっ!やめてけろ!!おらぁ、挨拶ばしに来ただけじゃっ!!」

「黙ってろ!こんなに、お美しい人が、輿入こしいれなんて偉いこっちゃろ!着飾らんでどうする!」



苦笑いしか出ない。

登希助なんて、慌てすぎてお国の言葉だろうか。かなり、キツイなまりが全開だ。

にしても、さすがは呉服屋の店主だ。燃える商売魂。しかし、今日こそ挨拶をしなければ。つがいになってから何度も訪問したけれど、会えずじまいだったのだし、目の前にいる今が好機だ。


ウチは、背筋を伸ばす。

真っ直ぐと、店主と登希助を相手に告げる。



「お初にお目にかかります、店主様。ウチは、ケイランといいなんす。元は『鵜天ウテン』の店子をしておりんした。……本日は、そちらの登希助 様との結婚をお許しを頂きたく参りんした」



どうだろうか。

上手く挨拶できただろうか。

緊張して、廓言葉がでてしまったけれど可笑しくないか?


チラリ、相手を見る。


二人ともあんぐり、口を開いたまま固まってしまっている。あーっと、これは間違ってしまったかもしれない。謝るなら今だろう。


「あの、えっと、今のは──」


「よ、よ、嫁が来たぞーーー!!どえらい美人な嫁さんじゃーーー!!」


「うわっ、親父さんっ!どこ行くんじゃって!!」


ウチをそっちのけで、走り出した店主と追いかける登希助。

興奮のあまり、ここ一帯の通りに店を構えている住人たちへと嫁入りを告げる為に走り出してしまった。……結婚を許してもらえるか、心配していたものの。あの反応からして、許可 確定だろう。こりゃあ、飽きない日々が過ごせそうだ。



──その後、少しだけ落ち着いた店主が颯爽と戻ってきて早々にウチの手を握れば『よろしく頼みますね!ヨメムコ殿!結納式はいつ行います!?もちろん、我が店で衣装を作られますよな!!』と喜色円満であった。登希助は、酷く疲れた様子だったが。




──────────




『よかったんですか?生きてるのに、こんな扱いされて』


そんなことを何度も、確認するように言われた。けれど、すでにつがいの関係が出来ちまっているから抗いようのない事実だ。

オメガというのは、うなじを噛んできたアルファ──つがいとは絶対的な繋がりとなる。そのせいで、番 以外に股を開こうもんなら拒絶反応と副症状で苦しむんだ。だったら、潔く引退するさ。


店子や見世のマワシたちに挨拶をして、表玄関でつがいと一緒に頭を下げる。



「お世話になりんした」



門出にしては、静かなもんだ。


その後、陰間茶屋『鵜天ウテン』から ひっそりと『恵爛』の名が消される。尾びれ背びれがついて独り歩きした噂によって、見世に通っていた客たちの間では死んだことなったそうだ。実際、陰間を引退するのだから『恵爛』は死んだ。だから、名が消えてもおかしな話じゃない。


それと、ウチを襲った輩はサシ──事情があって避けていたお客の仕業だったようで。(あの一瞬で見た顔は、他人の空似なんかじゃなかったのだ。)『花街』を騒がしていた一連の事件を真似た模倣犯だった。散々、ウチを好き勝手したのに首切って自死したとか。川に隣接した雑木林の中から首のない遺体が見つかって、騒然となったが『花街』のハーメルン女医によって検死され、犯人と特定。

そりゃあ、ウチつがいが躍起になって捜し回っても見つからないし、犯人が捕まるわけがない。


じゃあ、どうしてつがいの──登希助ときすけウチうなじを噛んだのか。すべて、犯人の不始末が起こした事故だった。

昂った熱が発散し切ってない状態で放置されていたウチ、表通りでの騒ぎを聞き、必死に探し回って匂いを辿れば苦しむ『運命の番』を見つけ出す。

朧気おぼろげだけどもウチから誘ったし、逃げられないように捕まえちまったらアルファは興奮状態ラットになるし、オメガなら ますます発情するに決まっている。そこからは、言わずものがなのぐちゃぐちゃに交じり合う濡れごとだ。


不思議なことに『花街』から大店『桜廉おうれん』の元売れっ子──暮无くれないが立ち去ってから、街を騒がせに騒がせた本元の『藤の』事件は、起こっていない。

何が、起因だったのか。誰が犯人だったのかなんてのは、謎のまんま。街の触れちゃいけないヤミとして葬られたのだ。


『鵜天』の女将は、拗ねたように告げてきた。


『まったく、余計なことをしてくれたよ!まだ、アンタには稼いでもらわなきゃならなかったのに!』


実に、金目に素直で結構だ。

けれど、店子などが居る人前ではそう言葉にしつつも登希助と改めて身請けというかたちで見世を退しりぞく許可を貰いに行った日。


『……ケイ、よく生きててくれたね。おぶられて戻ってきた時は、死んじまったんじゃないかと冷や冷やしたよ。……幸せにお成りよ。あんたのアネキやイモウトの分もね』


固く手を握りあって、抱擁ほうようを交わした。しかし、登希助が汗水たらして稼いだ金ってのは仮にも通い客がついていた『恵爛』を身請けするにはちと足りなかった。女将が、その事に大笑いして一括払いで決めたかった登希助のプライドをごりごりと削ったのだ。あいにくと、『恵爛』の着物や髪飾りをすべて売っぱらっても完済とはならなかった。どれだけ、高価な代物を身につけていたのか考えただけで頭を抱えちまう。見世に出れないならば、後継 育成の手伝いしつつ雑用にも手を貸せば借金を減らしてくれるそうだ。しかも、完済後には給金を支払うと約束した。ウチが口約束でことを終えようとしたら、商いのイロハを学んだ登希助が『いいや!書面でまとめた内容を頂きたい!』と食い下がって、尚更、女将を楽しませた。本当に、清々しいほどの商売魂に声を上げて笑っちまった。何年経っても、飽きそうにない人だよ。安心して、見送ってな おかあさん。


登希助には、なかなか熱い男で感心と飽きなささがあって心が躍る。



───それから、いろいろあった。

いろいろあった分、遅くなったけれど見世を退いて半年後。

見世が立ち並ぶ表通りから大橋を渡って二本先の──登希助が育った商業通りの居住区でこじんまりとしているが貸家を借り、お互いの新居として移り住む。


生活に慣れてきた夕暮れどき、ふと思い至って訪ねてみた。



「そういやあ、おまえさんはウチのどこに惚れたんだい」

「言ったろ。一目見て惚れたって。それと、あなたから言ったんだ」

「何をだい?」

「いい花の香をお使いですね。ツツジかな?咲き盛りですものね」

「……はてさて、そんなこと言ったかーい?」

「言った!よく覚えている!俺にすっごくキレイな笑顔を向けてくれた!けれど、修行の身だった俺が、香をたしむような暇はなかったのに!そう言われて、とても驚いたんだっ」

「悪いねぇ。覚えてないよ」

「そうか……。残念だが、仕方ない。あなたは、人に甘い言葉を売るのが仕事だったのだからな」



ウチは笑って、はぐらかした。夕飯支度をしなきゃね〜…と言いつつ、居間から立ち去る。そさくさと土間の隅っこで膝を抱えて、熱くなった頬を手で覆う。



──覚えている。いや、思い出しちまった。そうだ、あの呉服屋で初見世を飾る為の反物たんものを選びに行った日のことだ。店番をしてた登希助ときすけ──あの時分は、もっと若かったし別の名前だった──に言った。ああ、なんってこったい。


ウチは、そんな頃から『運命』と出逢っていたなんて。恥ずかしさで、頭から煙が出そうだ。

その日の煮物は、ちょいと砂糖を入れすぎて甘く煮すぎちまった。なのに、登希助が『これはこれでアリだな』なんて無邪気に笑うから、ひいた熱がぶり返したのだった。



それから、二年後。

呉服屋の南爽ミナミサワから独立して経営を始めた登希助。


貸衣裳店『恵登エト』という店が、開業となる。

業績が伸び悩むこともあったが、美人すぎる奥方と、その周りをウロチョロする一人と一羽の双子の童子わらし。そんな家族経営で切り盛りしていれば、徐々に業績を伸ばして街で欠かせぬ衣裳店にまで発展するのは、また別の話である。



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