一幕二節目 決心、過去への呟き。


一幕二節目 決心、過去への呟き。



暮无side



鳥のさえずりに、寝覚め直後のだるくて重い頭を押えながら寝台から上半身を起こす。昨日、客を一人も取れなかった。気分が優れず、気持ちも整ってなきゃ『ベニ』だとしてもヘマしちまう。それじゃあ、せっかく金を積んでくれている奴らに申し訳なかった。

理由としては、歳に似合わずみじめったらしく泣きすがった時間が長かったから。大旦那の奥方から『ほら、アオを身請けしたいって』と聞いて、俊足で駆け、勢い任せに別宅の玄関をぶっ壊した。叱られて、頬を打たれたものの大旦那が呆れのあとに頭を撫でてくれたし、騒ぎを聞いて後からやってきた奥方も膝を貸してくれた。元 売れっ子の膝を涙やらよだれやらで濡れ汚す。高くつくぞ、大旦那が茶化しつつも移った部屋で夫婦そろって慰めてくれた。本当にいい人達だ。こんな人達のもとを離れるだなんて気がしれない。

気がしれないけど。


弟──蒼威あおいにとったら良い機会なのだろう。不安定な発情期ヒートを『つがい』を通じて安定させる。そして、永遠に続く関係が結べる。この街から出て行けない女郎や陰間が聞いたらむせび泣くだろう。何せ、異界の西洋妖怪族モンスターの上位種、家柄も完璧なアルファが相手なのだから。『引き抜く、つがいに欲しい』と打診されてニ年目だ。相手が街を訪ねてくる度にナメクジに塩をかけるがごとくに追っ払ってきた。会わすものかと、連れていかせるものかと。しかし、蒼威の表情が曇っていくのが理解できたし、傷つけてしまっている。

あの子は、カラダが弱い分。倒れたくない一心で気丈に振る舞うから周囲に気づかれにくい。

オレは、わかる。傷つけている本人だし、何せ、同じ母親の腹から生まれた片割れなのだから。


つがい』を打診してきている相手には、言い訳に言い訳を重ねて否定しきた。反対してきた。けれど、だいぶネタ切れだ。潮時と言ってもいい。溜め息が漏れる。重い、重い溜め息が。爽やかな秋晴れの朝に不釣り合いすぎるくらいの。


部屋に備えつけの洗面台で顔を洗い、鏡を見て寝癖を直す。顔を洗っている間に濡れてしまった寝間着の浴衣を壁掛けに吊るす。

溜め息で重くなった空気を、窓を開いて換気する。これで、少しマシになるだろう。さて、そろそろ朝飯でも──そう、朝の日課を順に済ませていれば出入口の扉から視線を感じた。パッ…と見やれば、少し開けた隙間から『蒼い瞳』が覗いている。見慣れた色、弟の蒼威だ。


「……何してんだ、オメェ」

「えっと、その」

「なんか用だろ。部屋、入りな」

「うん」


いそいそと部屋に入ってきて、扉をそっと閉める弟。こういう些細なところで性格の差が出る。オレだったら、音を立てずに閉めるなんてこと客の前やあきないの一動作のうちじゃないとやらない。部屋に沈黙が漂う。

弟は、顔を俯かせた。やはり、何か話があるもののきり出せずにモジモジ…と足の親指どうしを踏み合う。


オレは、掛け布団を隅に寄せて腰かける。そして、隣のスペースをてのひらでポンポンとする。座ればいい、そう言葉にせず誘う。意味を理解して、そろり、そろり…歩み寄って座ってくる。悲鳴をあげるボロい寝台に二人で腰かけた。


いつ切り出そうかと、悩んでいるのだろう。あー…、うー…心のモヤが声に漏れてしまっている。

オレは、弟の髪をいじってやる。気を紛らわせてやりたかった。


「ちょ、ちょっと兄さんっ…」

「なんだよ」

「なんだよ、じゃないよ。そんなに引っ張ったら抜けちゃうだろっ」

「ふっ…、いまの声真似うまいなー。やっぱ片割れは違うわ」

「そういうことじゃないって!」


ふくれっ面になる弟がおかしくって、朝からダハハ、と笑う。何だかオレも相当 参ってたんだなー。と実感させられる。寝台に寝転んで、背を丸めて、笑いのドツボにはまってヒィヒィと引き笑いになってしまう。弟の呆れた もぅ! が聞こえ、今ならオレから切り出してやるか。そういう気になった。弟に背を向けるように寝返りを打った。顔を少しでも見られたくないから。


「蒼威、オレを置いていっていいからな。オメェが選ばれたんだ」


喉の鳴る音が聞こえた。ヒュッ…と呼吸が微かにとまるときの。

驚いている。声にならない驚きってやつだ。ざまぁ…

今まで散々、反対してきた奴からの許可だぞ。嬉しいだろ、蒼威。


服が引っ張られた。


なんだよ、文句でもあるのか。

そう、言い返してやろうと顔を振り向かせれば泣いていた。ボロボロと大粒の涙を零して、下唇を噛んでいる。オレのほうが驚く。慌てて服のそでで涙を拭いてやる。


「オメェ、なんで泣くんだ。嬉し涙にしては激しいだろうよ」

「だって、だって……」


かぶりを振って、しゃっくりをあげながら言い返そうとしてくる。あーもう、そう投げやりな態度をしつつも弟を胸へ誘って、後頭部を撫でやる。何だか、昨日のオレが大旦那と奥様に慰めてもらったことを返しているみたいだ。せっかく着替えたばかりの服が濡らされる。まあ、いいか。いくらでも服くらいある。貢がれるだけ、貢がれて気に入ったものだけ手元に残し、サイズ違いや好みじゃないものを見世の新造しんぞ禿かむろに与えてやった。自費で購入したものなんて一枚もない。


「蒼威、落ち着いたか」

「……ごめん、とりみだして…」

「いいさ、別に」

「兄さん」

「なんだよ」

「兄さんは来てくれないの?」

「あー?嫌だよ。勘弁してくれや。アイツ、クッソ性格悪いからな。羽振りのいい客だったから相手しただけで──」

「嘘ばっかし。おれが『運命』だって判明しなきゃ、兄さんが身請けされてたはずじゃん」

「知ってんのかよ」

「おれが、何年間。見世の経理や雑務してきたと思ってんさ」


あーもう、ご最もすぎて言い返す言葉がねーや。

苦笑が漏れてしまう。

さすがは、片割れだよな…と妙に感心して、胸の内が浮くような感覚になって恥ずかしさを誤魔化すため、ヤケクソで弟の髪をもみくちゃに撫でて乱してやる。


「ちょっと、兄さんー!」

「ははは!鳥の巣みたいじゃん!いい気味だな〜」

「サイアク!嫌なやつ!」

「ふん、知ってるくせに」

「言ってみただけだよ」

「そうかい。……蒼威、幸せにな」

「うん、ありがとう暮无」


オレは、頭の後ろで手を組む。温かい陽射しに、眠気がやってくるし誘われるまま寝台に寝転び、目をつぶって、過去の記憶にうつつを抜かしてみることにした。



────────

─────



弟の為だと隠し通してきた。つもりだった。

バレたら、ダメだと。

どんな関係より絶対的な結びつき『つがい』、その上位の、都市伝説的な関係性『運命の番』。

周囲を巻き込む場合もあれば、ひっそりと絡み合うこともある。そんな遺伝子的に一番、濃い結びつき。


オレが、十五歳で水揚げされて『ベニ』として初見世となったとき。ゴーシェナイトの旦那が真っ先に名を挙げ、大金を積んでまで手解きをしてくれた。『シュイロ』として出会ってから、とても待ちわびていたし、幸せだった。今後、他所の手垢まみれになるとわかっていても。その一夜を思い出すだけで、心が救われた。そして、オレがオメガとして覚醒し、発情期ヒートになって見世に出られないと知れば、見舞いの品だと手に余るほどの品物を贈ってくれた。中には、ゴーシェナイトの旦那が愛用している香水、衣服の何かが混じっていた。最初こそ意味が理解できなかったが、徐々に、旦那の匂いがないと気が狂いそうになった。ああ、これがオメガの性なのかと濡れるばかりの臀部でんぶの奥を玩具であやす。


それから、初見世を華々しく飾った『ベニ』の指名度が高くなるのは必然だった。それでも、ゴーシェナイトの旦那は他所の客に負けず大枚はたいて一夜を共にしてくれた。それで、勘違いした。


この人が、オレの『運命の番』だと。発情期のオレを見せてやりたい、受け入れてくれるだろうと思うくらいには沼に落ちていた。ゴーシェナイトの旦那さえも そうだろう と無意識下で感じていたくらいには濃く、近しい関係だった。

当時は、大旦那──まだ若旦那だった頃の──が『孕まされやしないか』と危惧するくらいには濃い絡み。まだ、初見世を飾ってから一年だから身請けされるわけにはいかなかったのだろう。わざわざ、『ベニ』から遠ざけるようにお通ししなかった時期もあったくらいだ。


なのに、すべて勘違いだった。


まがい物の、関係だと気付かされた。理由なんて至極簡単。

オレが『ベニ』として、水揚げされて二年後の十七歳。


弟──蒼威が、オメガとして覚醒した。重くてまとまりつくような甘ったるいオメガの誘引フェロモン、不定期に発情し、苦しむ姿に同情してはオメガの先輩として『慰め方』を教えてやった。

当初は、慣れないオメガとしての性に安定しないだけかと思われたが、そうじゃなかった。弟が、強制的に発情することが度々あった。それが不定期の原因で、水揚げの適齢になっても初見世を飾れなかった理由の一つだった。オレの片割れだから顔も整っているし、性格も穏やかだ。見習いである新造の時分から秘かに人気があった。でも『安定せぇへんのは店子としても困るんよ。このままじゃ、ソライロを置いとくわけには…』なんて若旦那からボヤキがあって、焦った。


弟が追い出される…!?オレが独りになる!それは嫌だ!


そうして、若旦那に約束事をもちかけた 代わりになる。いくらでも客を回してくれていい。と言い張ってやった。決断を渋る姐サマ──実は、その後の奥様である──と、いつまで続くか、見ものだと興味津々な若旦那。結論、オレの申し出が許され、蒼威が水揚げされることなく雑用係になった。


──話を戻そう。

弟が、不定期の発情期に陥るには条件があった。オレが傍にいると起こる。そして、ただ傍にいるのではなくて昨夜の相手にゴーシェナイトの旦那が含まれていると発情する。


オレは、賭けにでた。

発情で苦しむ弟の汗をオレのウナジにつけてみる計画という賭け。


もし、この予想があっているならゴーシェナイトの旦那は……


「おや、ベニ。今夜は華の香炉を焚いてきたのかい」


出会ってから何年も経てば、上級貴族としての生き方や立ち振る舞いを学んだゴーシェナイトの旦那の態度は、紳士そのものだ。くんくん…とウナジの近くを嗅がれる。──オメガが発情期ヒートになっている状態で、ウナジに噛みつかれると噛んだアルファとは『番 』になるっての二次性が蔓延はびこっている世では幼子でも有している知識だ。───客の中にはアルファの興奮状態ラットになって力任せに襲ってくる奴もいた。そういった奴らから身を守る方法として防護用の首輪をしている。


それでも、総毛立ってしまう。興奮だろうか、いや、この場合は悪寒おかんだった。


「は、華の匂いってどんな感じの… ?」

「ん、どうした。クイズとは珍しい。うーん、そうだなぁ」


脱がされかけた肩の着物をたくしあげて訊ねる。まだダメ、答えるまでお預けだと焦らすように。


「うん、この香りはユリだ。当たりだろう」

「……そう、ユリね。そっか」


泣きそうになったのを覚えている。

目頭が熱くなって、鼻の奥がツーン…として、耐えられそうにないくらい痛かった。そのあとに伝染していく。鼻、喉、胸、お腹。もう、痛みが全身をぐるぐると回る。獣じみた唸りが声になって漏れた。


「んん?ベニ、調子が悪いのか。なら今夜はよそう、な?わたしなら、今後も」

「嘘つくなし。来なくなるよ、リデアは」

「ベニ?どうしたんだ?」


ゴーシェナイトの旦那を押し倒す。畳の上にご丁寧に用意されたフカフカな布団に。

下唇を噛んで、息を漏らす、深く呼吸して言葉をまくし立てる。


「あのね。オレ、華の香炉なんて焚いてない。ユリの匂いなんてまとってない。何を感じたの?ねえ、旦那は何を感じとったの?


……誰の匂いと勘違いしてんだよ!!」


「べ、ベニ!そんなもの、隠していたのか!?」


隠し持っていた護身用の小刀を着物の懐から取り出し、ギラリと輝く刀身。着物の合わせと逆側に隠してあったから気づかれなかったのだ。

オレは、踏み込む。心中してやる。オレと番になってくれないなら!と声にならない心の悲鳴を原動力に刃先を振り下ろす。


疾風が走った。


ゴトッ…と鈍い音。状況の理解が出来なくて、目を瞬いてしまう。視線を迷わせ、畳の床を見やる。何もない。正面を見やる。息を荒らげ、それでも何かを後悔したような感情イロを孕んだ瞳がこちらを見てきている。左手を見やる。グーパーグーパーして感覚を理解する。右手を見やる。何もない。そう、何もなかった。なぜか、畳の床が見える。そして、旦那の太もも辺りに小刀を握ったままの状態で右手首が転がっていた。


「あっ、ひっ……うあぁぁぁぁぁぁ……!!」

「ベニっ…!すまない、わたしはなんてことを!」


自覚した途端に、痛みが襲ってきた。涙が滲んで、こぼれる。心臓が激しく脈打って苦しくて、辛くて。なんで、こんな目に遭わなきゃならない。オレただ、一緒になりたかっただけなのに。


鉄の臭いが充満する。

布団が赤黒く染まっていく。


何もなくなった右手で、涙を拭おうなんて無理だ。なら左手でと目の辺りを擦ってみるが、止まらない。


「誰か!誰か、いないのか!!」


ゴーシェナイトの旦那が、閉め切っていた襖を乱暴に開け、声を張った。すぐに駆けてくる音がして、駆けつけた男衆の一人が旦那の感情の発露に驚くも、室内を覗いたことで怯えに変わった。



───その後、若旦那とゴーシェナイトの旦那で話し合いになった。怪我を治すことを最優先とされたオレが参加することなく、ついにはある意味の"キズモノ"にしてしまった責任とし、身請けする話まで持ち上がった。


オレはその場に乗り込んだ。


そんときに、初めて玄関の施錠されていた格子戸をぶっ壊した。自覚する。自分にとんでもない馬鹿力が存在している事、特異な点はそれだけじゃない事を披露してやることにする。


勢いでゴーシェナイトの旦那がいる客間に踏み込む。玄関扉を壊されたことに驚きつつも、叱る準備のできていた若旦那の一声が飛ぶ前に着物の袖から右腕をにゅっ…と出す。痛々しく血の付着した包帯が巻かれいる腕に、ゴーシェナイトの旦那の視線が逸らされた。そして、勝手に話の続きをしようとしたから目を逸らすなと圧をかけて、視線を向けさせる。


怯えた感情イロの孕んだ瞳、呆れた瞳がオレに注目したことを確認し、そして、シュルリ…と包帯の結び目を解いた。


ひとまき、ふたまき…


「なんで、どういうことだ」


そこには、なくなったはずの右手があった。ゴーシェナイトの旦那が、声をうわずらせてソファーの背もたれにぶつかる。


「それは、義手だろ…?この街の細工技術は凄いからなっ…」

「義手があたたかい?なにそれ」

「ッ…だって!わたしは、たしかに切り落としたんだ!ベニの手首ごと!」


「驚かれるのも無理あらへんわ。わたしも、反応に困りましたさかい」


変わらず呆れた表情で、湯のみから茶を飲む若旦那。ゴーシェナイトの旦那の視線が鋭く射抜くものになる。説明を願う、そういうような強い視線だ。若旦那が話してもいいのか?と問う流し目をしてくる。いいよ、応えるように無言で若旦那の隣へ座った。


「では、ご説明させてもらいます。

結論から話させてもらいますけど、この子の体内に流れている『血』が関係してます。

この店子であるベニが右手首の欠損する重傷をおったのは公主様もご存知かと。……ですが。その怪我から数刻後、傷口が塞がり、肉が繋がる音と骨が伸びる音が響くなか、ベニの手首が再生しました」


淡々と事実だけを告げる若旦那。

正直、再生した本人にも関わらずオレの心は凪いでいた。妙な確信があった。幼い頃から怪我の治りが早いとは思っていたからだ。膝を擦りむいて、三日も経てば無傷の姿。まだ幼いから、若いからと手当をしてくれる雑用の人たちが言ってたぶん、そういうものかと信じていた。


でも、さすがに切り落とされた手首ごと再生するのは目に余った。呪いじゃん、こんなの。そう、思ったときには握ることも摘むことも完璧にこなせる利き手が戻ってきた。


「つまり、ベニ。キミのカラダには…」

「旦那と一緒っていうのも変かな。オレには、異界の血が流れてる。しかも、特級のマジナイが絡んだ深淵の血がね」


開き直って、右手をぷらぷらさせてみせる。ゴーシェナイトの旦那が唸る。理解できない、そう言わんばかりに。


「つーことで、旦那。いままで通ってくれてありがとう。今日でおしまいにしましょうや」

「ま、待ってくれ。だとしても、わたしはキミを」

「責任を感じなくていいって言ってんの。オレは、知ってのとおりオメガだ。他所の手垢つきの」

「ベニ、やめてくれ。そんな風に」


「事実だろ?ぶっちゃけさ、オレがもし、もしね。旦那の『運命』だったんならつがいになりたかったよ。けど、あきらかに身分違いじゃん。オレ、貴族の世界とか知らない。なんか、危なそうじゃん。周りの人から敵視されて、負の感情に当てられると耐えられる気がしない。いい子ちゃんして、旦那の傍で過ごせるとは思えない」


「……ベニ、やめてくれ……そんな風に言わないでくれ……」

「やめない。身請けするってのがどういう事なのか、わかってほしい。オレ、籠の鳥で居続けるなら店子としての鳥がいいから」


「ベニ、そのへんにしとき」


ゴーシェナイトの旦那の変化に気づいて、若旦那が制止する。オレも言いたいことを少なからず言えたから黙ることにした。


「ご理解頂けましたやろ。公主様、ベニの気持ちを組んでやってくださいな」


深い溜め息が、聞こえる。

ゴーシェナイトの旦那が吐き出した溜め息のあと、顔をあげてオレの目を見て告げた。出会った頃は、声を出せないくらい怯んでいたのに。何度もしとねを共にしたら慣れてしまったようだ。


「ベニ」

「なんだよ」

「悪かった。でも、この事にわたしは神に感謝しよう。きみの美しい手指が戻ったことに」


異宗教だし、オレ、無宗教ですけども。そう思ったけど、必死な様子でオレの右の手指に触れてくるゴーシェナイトの旦那。なんだが、割り切ったつもりだったのに手を取って連れ出して欲しくなっちまった。やっぱり、惚れてたんだ。

オレは、この人に堕ちていたんだ。どうして、報われないのか。こんなにも胸が苦しくなるのに匂い如きで、惚れた腫れたを言えなくなる。

ユリの、華の匂い、とても引っかかる真実だった。けど、打ち明けるつもりなんてない。オレから片割れの、弟の蒼威を奪っていくなんて許せない。だから、教えてあげない。


これで、お終い。


強く握り返して、ゴツゴツと冷たいのに優しく触れてくれた指に口付ける。そして、オレから離す。


お終い、さようならだよ。


「リデア、楽しい時間をありがと。また、この街に来るときはオレのことなんて忘れて楽しんで」


ゴーシェナイトの旦那は、とても、今にも泣き出しそうな顔だった。

そのあと、たんまり用意してきた身請け金の半分だけ置いて帰って行った。お見舞いの金、謝礼金にしては大金がすぎるだろうよ…ぶんどりやがったな…と恨み節で隣を見やる。ほくほく顔の若旦那を、そして、何となく訊ねる。


「若旦那、訊いてもいい?」

「ん、どないしたん。改まって」

「アルファが、オメガの匂いを嗅いでさ。華の匂いがするって言うことがある…って本で読んだんだけど」

「活字嫌いの自分が読んだんか?」

「ソライロが、読んでて!横から見てて!」

「ふーん、まぁええわ。でも、そうやなぁ」


ひい、ふぅ、みぃ…


脚の短い横長テーブルの上に置かれている大金の入った箱から札束を取り出して、数えつつ考える若旦那。

本当に、この人は金の亡者だ。


「私が知るかぎり、国や地域での文化によってはオメガが発情することを『開花』と表現する…ちゅーのは聞いたことあるな」

「やっぱ、文化の違いか…」

「なんや、ベニ。公主様に言われたんか?でも、自分で言うとったよな『運命』なんかじゃあらへんって」

「うん、そう。だから、カッとなって流血沙汰を起こしたんだけど…」


若旦那は、何かを言いたそうにするが黙った。顔色を伺うように相手のほうを見やるが、ぐしゃぐしゃと撫でられて向けなかった。いったい、若旦那が何を思ったのか理解できなかった。


───────

────


寝台の上を転がった。目を覚まし、笑いが込み上げちまう。


「なーんで、夢にみんのがさ。水揚げされたときの記憶なんだよ 」


本当に、信じ込んでいた。

オレに『運命の番』がいるのだと、今となっちゃ必死だった。青臭くて笑っちまうくらいに。


少し夢に現を抜かすか。そう目を閉じて、次に目を開けりゃ太陽が空に高く昇っていた。


階下から ベニ!ええかげん、起きてきいや!! と炊事係の婆さんの怒鳴り声が聞こえてきてる。乗り込んでこようとしているのか、上階と通じている階段をかけ登ってくる音も聞こえる。やっぱ、『花街』の騒がしさが似合いだな。


「わーったよ!いま、降りっから!」


伸びをして、着替えを済まし、部屋から出て廊下を駆けた。今日も、『花街』の支度時間が始まる。






一幕二節目 決心、過去への呟き。


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