一幕一節目 天の声、語る。

一幕一節目 天の声、語る。




──空を駆け、雲を割く。

──守るべきものの為、御国の為と操舵そうだをきる。


海に浮かぶ、大きな鉄の城を視界に捕らえれば、突っ切る。

全てを壊せ壊せ、と脳が鳴く。心の臓が激しく跳ねる。

目標は鉄の城の破壊のみ。


「これで!!しまいだぁぁぁぁ!!」


雲を、空を、風をまとって──

バツン……、騒々しさから抜け出し、意識さえも暗闇へ




─────────

───────




晴れ晴れとした青い空の下。

鳥がさえずる声が木々の間から聞こえている。ドドド…ドドド…落ち続ける上流の滝から水が忙しなく流れ、それも下流部まで行けば、穏やかな流れに変わる。


浅瀬で誰かが膝まで水に浸かっていた。布と布を重ね合わせただけのものを足首からまくりあげ、つるん…とした柔肌を露出する。ちゃぷんっ、水の中へ腰を下ろし、溜め息ひとつ、鏡みたいに反射する澄んだ水面へ落とす。


「にぃさん、暮无くれないにぃさん」


声をかけられ、気怠げに名を呼ばれた人が振り向いた。燃えるような夕暮れを想起させる『紅い瞳』がジッ……と見返してきた。


「ゆっくりしてると、時間がないよ」


相手を咎める声の主は、相手と対比する暗い深海を想起させられる『蒼い瞳』をしていた。また、溜め息をついて、濡れた手でガシガシと後頭部を掻く。小言なんて、結構だ。さっさと戻れ。そう、言いたいのかシッシッ…手が振られる。

『蒼い瞳』の人は、はいはいと音にして砂利の上を踏みしめて離れていった。

『紅い瞳』の人は、その音が遠くなるのを耳にしながら、溜め息をついた。そして、ザバッ…腰まで水に浸かる。濡れた手を臀部でんぶへ伸ばし、ふたつの山の間へ忍ばせた。水の中へ白濁した液がフヨフヨ…フヨフヨ…流れていく。それを見て、また溜め息をついた。指を二本たばねて軽く内部へ突き立てて、水の冷たさが内部へ浸水してきて、不快感が募る。だが、内部に指を入れた程度ではなんも感じない。こんなのは、ただの作業である。『ミソギ』なんて呼ばれてはいるが。


「……あー、だるっ…。ほんとうに、毎回毎回。懲りずに出しやがって…最悪…」


グチグチ、ブツブツ

口から漏れるのは、心に溜まったよどだった。


「よう、またロクでもないヤツにあったのかい?」


ザバザバ…水を掻きながら、近づいてきたのは人型ではあるものの少々、異なった容姿をしたものだった。振り向いて『紅い瞳』が面倒だと言わんばかりの視線を返した。

異なった容姿──『紅い瞳』の人と比べるならば腕のある部分に羽根が幾重にも生えているのだ。

一応、指は五本あるようだが。目の縁どりも、メイクでもしているのかと思うくらいに朱色のアイラインが入っている。


「はっ、鳥人のオメェも似たような扱いされてるくせに」

「嫌だねぇ、心配してやってるってのに。減らず口だよ」

「どこが、心配だよ。ニヤニヤしやがって。昨晩がマシな相手だっただけにマウントとってくんなや」


鳥人ちょうじん

前述のとおり、全体的の容姿こそ『人』であるものの、腕や足に羽根がはえているもののことである。中には、空を飛ぶこともできるらしいが。この鳥人は、飛べない。

──この世には異種族と呼ばれるものがいる。つまり、『人間』と異なった容姿をしたものが混在した世界なのだ。しかも、それら異種族と『人間』が交わって子孫が残せるようにオメガバースという二次性を弄った遺伝子的な仕組みも存在している。


一次性が、見た目で判断できる『♂』『♀』のことである。

二次性が、アルファ=優勢種ゆうせいしゅ.ベータ=汎用種はんようしゅ.オメガ=劣勢種れっせいしゅの三種に分かれており、それらが上手い具合にバランスを取り合っている。


比率としては、汎用種のベータが世界の七割を占めている。そのあとに優勢種とされているアルファが二割弱、劣勢種のオメガが一割強といった割合だ。しかも、それら二次性が判明するのは一般的な思春期とされている十一歳~十六歳の五年間で健康診断と同じやり方で血液。もしくは唾液を用いて検査することで、判明。

もちろん、優勢種とされるアルファだと判れば、華々しい世界へ進めるし、劣勢種とされているオメガだと判れば人生なんてのは丼返しの如く地の底に落とされる。子どもがオメガだと判れば、だいたいの家庭が手放す。手放して、『花街』へ売られ、娼年や娼婦として死ぬまで他人に股を開く生活を強いられる。


この二次性の話。

なんとも面白いことで、ふわふわと可愛らしい『♀』であっても二次性がアルファであれば、ラットというムラムラの興奮状態になると排尿などをする穴のより上ににょっき…とご立派な棒が生えてしまう。そんな棒から子孫を残すための白い液が出る。そして、それの逆も然り。ムキムキのゴリマッチョな『♂』でも二次性がオメガであれば、結腸の奥に"妊娠する為の器官(子宮)"が出来てしまうのだとか。

ただ、男性体オメガの妊娠率と女性体オメガの妊娠率は、あきらかに女性体オメガのほうが高いという結果が出ている。男性体オメガは、元より妊娠する為の器官が伴っていなかった分、不妊率も高く。不育症の問題なども女性体オメガより顕著だ。学者たちも血なまこになって研究し、問題解明に人生を費やす者もいるとか。


何はともあれ。

────誰もが、汎用種のベータであることを願う。そんな世界だ。


さて、お互いに塩を塗りあっている二人だが例に漏れずオメガだ。

特に『紅い瞳』の人は、記憶もおぼろげな年齢の頃に、親から手放され、この川から少し進んだ先にある『花街』の住人として生きてきた。

もし、思春期の頃に判明する検査でベータだったならば『花街』から出て、もう少しマシな生活ができたかもしれない。だが、そんな夢も十五歳の頃にオメガ特有の発情期ヒートにカラダをむしばまれたことによってはかなく散った。店子としての生活が確定し、かれこれ五年も発情期ヒート経験済みのオメガとして客の相手をさせられている。

何せ、『紅い瞳』の人は顔が整っているのだ。多少、性格と口が悪いものの。それらもスパイスとして客を悦ばせている。


「それでぇ?あんた、昨晩は何人 相手したんだい」

「はっ、数えちゃいないさ。蒼威の分も肩代わりしたから尚更な」

「相変わらずだね。そんなんじゃ、いつになんてもマトモな発情期ヒートが来やしないよ」

「いいんだよ。それが大旦那との契約だしな。オレが肩代わりしてりゃあ、蒼威が娼年としての人生なんて歩まなくて済む」

「おーおー、お兄ちゃんカックゥイ〜」


殴るぞ。茶化すような言葉を返してきた鳥人を睨んで、拳を振り上げる『紅い瞳』の人──暮无くれないうなった。

話に挙がった蒼威あおいというのは、一足先に追い返された『蒼い瞳』の人のことであり、暮无の実弟である。しかも、オメガだ。しかし、どういうわけか通常、三ヶ月に一週間の周期で発情期ヒートがくるとされているオメガ性だが。

暮无の弟は、その基準から外れた特異体質だ。言ってしまうなら周期が安定していないし、フェロモンの量が一般的な基準より多い。そして、そんな発情期ヒートに耐えられる体力がないという虚弱体質のオマケ付きである。その代わり、勉学に対する知識力が秀でているので見世の経理係として働いている。


暮无が籍を置いている見世『桜廉オウレン』は『花街』の中でも高級店として名高い。その為、見世の主人である"大旦那"による店子の管理は徹底されている。最新の『避妊薬』『発情抑制剤』『緊急耐性薬』など店子の稼ぎに合わせた薬を支給し、見世に縛り続けるガメツサがある。万が一にでも店子が妊娠なんてしたもんならば、原因であろう客に賠償金を迫るし、もしくは身請けするように強く出る人情と守銭奴っぷり。実に、清々しい程に金の亡者である。だが、大旦那は"ベータ"だ。本妻として傍においている人こそ"オメガ"だが。若かりし頃に、他所の高級店から引き抜いて、紆余曲折を経て、『つがい』となったとか。どうして、アルファとオメガの間にしか結ばれない『番』がベータとオメガでなし得たのか。……長くなるので、それは、また別の話。


そんな事もあって、『花街』にいるオメガたちはこぞって夢を見る。

いつかは、アルファに身請けしてもらう。そして、いっそのこと『アルファと番の関係』になるのだと。



閑話休題。



────────

─────




鳥人からニヤニヤと反省していないのがまる分かりな視線。

暮无くれないは、溜め息をついて、構うのをやめれば『ミソギ』の手を進めた。


構ってこないと分かったのか、欲しかった反応が得られるず残念がって鳥人もカラダの垢を落とす。暮无がそろそろ戻るか…と考えた頃合いで隣から鼻歌が漏れてきた。こうなると、鼻から声に変わり、熱唱まで行くのでさっさと場を離れるのに限る。

暮无は、勢いつけて水から腰をあげる。捲りあげていた布を下げて、砂利の上で水気を絞る。そして、鳥人に一瞥いちべつだけして挨拶の代わりとする。鳥人も相手の態度になれているのか、手をひらりと振ったのだった。



───────

────



常世と現世の狭間に存在する亜空間のひとつ『花街』は、夜こそ喧騒と色香で満ちた場所であるが、日が高く昇ってから空が橙色に染るまでの数時間。場所の出入りを禁じるが如し、冷やかしが来る方角の門(いろんな空間と繋がっている)が堅く閉ざされる。


つまりの、休憩時間だ。


暮无は、爪先に引っかけただけの草履でまっすぐ奥へ続いている石畳を蹴りつつ、灯りの落としてある張見世の前を素通りする。


何軒かは、大旦那とのゆかりのある見世だ。さっき、からかってきた鳥人もそんな見世のもの。

あの鳥人は、暮无より年増だが異種族の身体的な特徴とでも言うのか知り合ってから十数年も経っているが一向に変わらない──素顔をばかり見ているので分かる──シワやらシミが増えた様子もない。おとろえによって、客の足が遠のいてしまうのを恐れている『人間』からしたら、羨ましい特徴だ。だが、当人たちからしたら『見た目が若い』ってだけで無理強いされても文句が言えないので困った話だったりする。


暮无は、大きく欠伸あくびした。

営業時間だったら、少しくらい人目を気にする。だが、休憩だから気負わない。そういったサッパリとした性格である。自身が在籍する見世の外観が見えてきた辺りで、人影に気がついた。人影が、暮无の存在に気がついてシクシク…歩み寄ってくる。洗練された動き。この街に染まりきっているものの動きだ。


「ようやっと、戻って来なんしたなぁ」

「……なんか、お待たせしたみたいで」

「いいんよ。あたいが、勝手に待ってただけやし」


寄ってきた相手は、なんと大旦那の奥方だった。

暮无は、いくつになっても美貌びぼうが薄れない奥方を直視できない。視線を逸らして会話するのも癖になった。優しい人なのだけれど、相手が相手だ。鳥人の時みたいな荒々しい言葉遣いがなりを潜める。


「それで、何かご用でしょうか」

「あー、それなんやけど『また』なんよ」

「あ?」

「ほら、アオのこと身請みうけしたいって……」


暮无は、走り出した。奥方に申し訳ないとは思いつつも、謝罪なんてしてる瞬間も勿体ない。向かう場所なんて一つだった。見世の裏側にある事務所を兼ねた大旦那たちの住居こと別宅。走りにくいので草履をどこかへ投げ捨てる(太客の一人にみつがれた高価な草履。華美な装飾が、暮无の色の白い肌に合うとか褒めていた代物)。事が済んだら拾おう。裸足のまま、駆ける。


別宅──二階建ての家屋。

広くて、本当に二人暮しには勿体ないと思うくらいだ。だが、実際のところ。事務員の出入り、発情期ヒートになったオメガ性の店子を軟禁しておく部屋などもあるので、部屋数が多いことに越したことはない、という守銭奴の癖にどこかユルい思考な大旦那の持ち家。築年数に対して、玄関のすりガラスの格子戸だけ真新しいのは──


「アオイーーー!!」


暮无によって、破壊されるからである。錠がかけてあろうと、力任せにぶち開ける。どこから、そんな馬鹿力が?と思うだろうが、暮无や弟の葵威には『魔族の血』──しかも、死者の魂を管理している西洋の深淵を統治する魔神三柱のうち一柱の血──が流れている。その血が、暮无を人間離れした怪力を発揮させる。

ついでにお教えするなら、傷の治癒速度も速い。どれくらい速いのかは、指を切り落とされても半日経てば元通りになっているのだ。つまり、流れている『魔神の血』が切り落とされた骨や皮膚までも再生させる。一種の呪いだろ、と暮无本人は思っているくらいに不気味な治癒速度である。ぶっちゃけ、オメガでなければ『半魔人』として異界へ引き取られるはずだったし、こんな身売りな人生ではなかったはずなのだ。


「っでぇっ……!!」


バシンッ!!と叩きつける音が玄関先に響いた。暮无が、三和土たたきに腰を打ち付けて、頬が腫れている。恨みがましく上げられる視線の先に、長身で細身な美形が冷ややかな眼差しを降らせていた。


「自分、ホンマに学習せんなぁ?」

「……だって、奥方様が……」

「うちのがなんやってぇ?」

「いいえ……、なんでもないです……」


美形は、肺の酸素を出し切らんばかりの溜め息が漏らされた。言ってしまうなら、この美形が奥方の『つがい』であって高級店『桜廉おうれん』の経営者である大旦那なのだ。

気落ちしました、反省します。言葉にしないが、態度で示してみせる暮无。三和土たたきに正座して、顔を俯かせた。大旦那を怒らせてはいけない。説教というか、小言が長くなるのもはもちろんのこと。他所の見世みたいにあからさまな折檻せっかんとか仕置き(暴力で痛みをうえつけ、恐怖させる)とかはないが精神的に追い詰められるのだ。目に見えない分、お客に同情も買えないので怒らせてはいけない。


「なあ、ベニ。もう、ええんとちゃうんか?」


ベニ。それは、見世での源氏名である。弟である葵威あおいがアオなので、暮无からくれないを連想し、その別の読み方で ベニイロ、ベニなのだ。


「……いいえ。オレは、まだ許しちゃいません」

「言うてもなぁ、もう、ベニの出る幕ちゃうと思うで」

「でも!あんな甘い言葉だけで近づいてほしくない!アオが、傷つけられるのは見たくない!」

「アオは、気づいとるよ。あの旦那が『運命』やって」

「そんな、おとぎ話みたいな不確かな……嫌です。連れて行ってほしくない……葵威がいなくなったら、オレは独りだ……」


大旦那は、しゃがみこんだ。立ってばかりでは長身ゆえの圧をかけすぎてしまう。暮无の頭をぐりぐり…撫でて、溜め息をついた。

弟の為。──その縛りだけで、経営者である大旦那に直談判しに来たくらい勝気な性格をしつつも、すべての汚れ、色事を一身に引き受けてきた暮无。自身の心の支えである『穢れない』弟がいなくなってしまうと、汚れた自身を殺したくなってしまうのだと言う。




───────

────




八年前、この街にふらり、とやって来た西洋妖怪族モンスターのアルファ。

血のかよっていない青白い肌は、人型なのに生気を感じない。それもそのはず。

このアルファは、西洋妖怪族モンスターの中でも有名なヴァンパイア族なのだ。長く存在し続けるものとして、言葉や知識が巧みなヴァンパイアが生存している境界で過ごしていく為には、さまざまな階級や家系へわかれた。それによって勢力争いなどしながらも、西洋妖怪族モンスターの頂点であり続けるようバランスを取り合っている。


ヴァンパイアといっても、派生や派閥が存在するし、派生の中に始祖しその力というものがある。その力は『人間』を同族にできるのだ。『人間』の中で語り継がれてきた一昔前の噛みついて、血を吸われれば同族に堕ちるとかではなく。始祖から血をたまわり、一定の血液量を体内に受け入れ、度数の高い酒の如く甘美な酩酊感のうちに、同族になるのが正しい作法だとか。


さて、このヴァンパイアも前述の通り『始祖の力』をもった強い存在。

そんな存在が、汚れと色事をごった煮にした街に何故やってきたのか。


理由は至極簡単。

──好奇心、興味だった。


他家のヴァンパイア──顔見知り程度の友人が『花街のオメガは、しつけが行き届いているし、技も巧みだから長寿の我々ならば、一度くらいは経験しておくといい』と顔を合わせる都度に語るので、境界を越えることができるいにしえの鏡から通ってきたのだ。


なぜ、境界を越えてまで二次性が存在するのか。そんなの一重に『神の気まぐれ』としか言えない。

そして、この強いヴァンパイアは

"ルーデリア・ディルビ・ゴーシェナイト"

という名前がある。身内や親族から リデア と呼ばれている。


ヴァンパイアの家名は、宝石の貴重価値をとても大切している文化から影響を受けたものだ。その為、『人間』の住む世界で上級、中級、下級とされる宝石を名乗ることで区別されており、ゴーシェナイトは上級貴族の一派である。

もっとも高貴な一族はダイヤモンドだが、それに関しては割愛。


リデアは、とりあえずオメガなら何でもいいか…くらいの軽い気持ちで『花街』へ入って来た。門番に身元を証明するときに少々手間を取ったものの、持ち合わせの階級証が役に立った。

この『花街』は、異界からやってきた客人をとても歓迎する習慣がある。何せ、よく金を落としてくれるから…というガメツイ理由からだ。


リデアは、門から一番近い張見世を覗く。他の冷やかしの客と同じようにジロジロと中を見ていく。だが、彼の美貌びぼうに籠の鳥──女郎じょろう陰間かげまが一斉に色めき反応した。手を伸ばし、彼にお情けをもらおうと必死に上擦った猫なで声で誘ってくる。リデアの眉間にシワがよる。何が、躾のできただ。こんなのオゾマシイ生き物ではないか。友人の発言から想像した世界との相違や、非現実に今にも憤慨ふんがいとともに張りの中にいる者どもを消し炭にしてやりたくなった。


異界の言語で、火の精霊を呼び出しかけた。その時だ。

──グイッ、と力強く引っ張られてカラダが傾いて風に乗る。覗いていた張見世から遠ざかっていく。


「止まれっ!!誰だ!貴様っ!!」


相手に制止を求めるというより命令で、声を張る。カラダが浮いて、また驚いている瞬間にガシャンッッッ…と瓦屋根の上に落とされる。この時の季節は、秋だった。

ヒュオオオ……ヒュオオオ……

高所を駆け抜ける肌寒い風、リデアより二、三歩離れた位置に腕を引って放り投げた相手が立っている。しかも、子どもだ。まだ背丈なんてリデアの半分しかない。この場合、リデアが長身(215cm)すぎるとも言えるが。

リデアは、普段こそ死んだように脈を打たない自身の心臓が激しく音を立てていることに内心、驚いているし、この子どもが長身のリデアを高所まで投げた事実と信じられない気持ちでごっちゃ混ぜになっていた。


「貴様っ、なんのつもりだ!私が、どんな存在か知っての」


言葉で噛みつこうと声を荒らげるものの、『紅い瞳』が静かにリデアのほうを振り向いた。声が出せなくなった。怒鳴って、相手を萎縮させるのがこの時分のリデアの身分をわからせる方法だった。ハクハク、空気しか吐き出せない。


「おちゃき、ごめんな」


子ども、という認識は間違っていなかったようだ。かけられた声が、幼すぎる。高く、耳に残る声。


「あの見世は、大旦那の知り合いの見世。だから、余計なことはしちゃダメ。おちゃき、はじめて?」


情けないことに声が出ない。

リデアは、初めての経験に心が震える。『紅い瞳』の訊ねに、ただ頷くしかできなかった。


「おちゃき、ふとそう。姐しゃまがよろこびそうだ」


ふとそう、そう言われ。

やはりカラダか?まさかイチモツのことか?なんて、下世話なことを考えてしまうリデア。しかし、この場合の ふとそう というのは所持金の量ことだ。子どもも、この『花街』で使われている特殊な言葉遣い。それに似ているようで、似ていない言葉を話す。この子どもは、使い慣れていないと考えるのが妥当だろう。


「おちゃき、降りれる?心配いらんか、大丈夫だよね。おちゃき、異界の人だもんな 」

「ああ、このくらいの高さなら」

「じゃあ、着いてきて。良い見世を知っているから」


やっと視線が逸らされたことで、声が出せた。


リデアは、戸惑っていた。

──いったい、この子どもは何なのか。『紅い瞳』には催眠術でもかけられているのか。この子どもの瞳に見つめられただけで、声が出なくなった。実は、子どもに見えて 幼子 なんかじゃないのかもしれない。


そこまで考えたところで、子どもが瓦屋根を走り出す。とりあえず、着いていくことした。高所を走っていれば、他所の見世から声をかけられる事もない。いくつもの茶屋の瓦屋根を駆け、一際、大きな建物──揚屋の瓦屋根を踏み込んだときだ。パッ…とリデアの視界から子どもが消えた。驚きで目を見開いたが、すぐに地上に降りたのだと理解してリデアも、降りる。強い風を纏いつつ、静かに着地した先で眉間にシワがよった。着地した場所がそれなりに人通りのある道だったようで、驚きで声を上げるもの、一目で彼の美貌に気づいて歓声やら黄色い声をあげるものがいたからだ。


「失敬」


そう一言だけ発して、案内人をかって出た子どもの姿を探す。すぐに見つけられた。九歩ほど、離れた位置で笑いもせず立っており、ぼんやりとした灯りに照らされている。品定めでもしているつもりか。


リデアは、疑心にならざるを得ない。出会いがしらに引っ張られ、投げられ、声を出せないようにされたら誰だって疑心する。それでも、歩み寄る。リデアの脚のコンパスで九歩なので、距離として十二米メートルほどだろう。ズンズン…歩み寄って、立ち止まる。ニコッ…と愛想笑いのつもりだろうか。頬がひきつっていながら『紅い瞳』がまぶたに隠されたのを見守った。


「ここだよ、おちゃき」

「ん?ここは、営業しているのか」

「うん、してる。ただ限られた人しか入ることを許さないから気をつけてね」

「……連れ回しておきながら、それか」

「うん、でも。あんな門の一番手前の見世を冷やかすより楽しい夜が過ごせる」

「……そうか。この戸から入ればいいのか?」

「ちょっと待ってね」


リデアは、首を傾げる。

手を伸ばせば、つかまえる事ができるのにできない。何か詰まったような感覚に襲われて、できないのだ。待ってね。

そう言われたが、何か話してないと落ち着かない気分だった。何を話そうか、考えて思いついたことを声に出そうとした。その時だ。


ザッバァァァ……


驟雨しゅううだろうか。いや、水の中からでも分かった。

リデアの上にしか降っていないし、『紅い瞳』の周りが一切、濡れていない。雨に、いいや、真上から降ってきた水のせいでびしょ濡れである。せっかく整えてあった髪も崩れてしまったし、この街へ入るには相応の格好にと選んだ服も最悪の状態だ。前髪を撫でつけるリデア。

整いすぎている美貌がありありと周囲に披露される。この状況に対して、冷静さを保っていられるほどリデアも『できていない』のだ。


「てめぇ、なんのつも」

「おめでとう。姐さまのお眼鏡にかなったね」


リデアは、また声を奪われる。『紅い瞳』に見られて、ゾワッと総毛立って言葉が出なくなる。


「説明もなしにごめんなせ。でも、よかったね。これで楽しめる」


『紅い瞳』は、戸を開く。防音が完璧になされていたのか。戸を開いた途端にチントンシャン…、シャンシャン…といった和楽器の音が聞こえてきた。


「おちゃき、お連れしやんした」


『紅い瞳』は、玄関先で静かに発した。廊下を小走りする音が聞こえ、しずしずと『若い男』が膝を折って、頭を下げる。


「いらっしゃいませ。ようこそ、ルーデリア・ディルビ・ゴーシェナイト公主様」


リデアは、驚いて目を見開いた。パッ…と『紅い瞳』の子どもを見やるが、愛想笑いを返されただけ。

眉間にシワを寄せる。この街に入ってからフルネームで名乗った覚えなんてない。なのに、この頭を下げた『若い男』の口から飛び出たのだから。どこで、いつ知った?なんて無粋な詮索だろうか。


「ご苦労でした、シュイロ」

「あい。では、おちゃき。わっちはこれにて」

「ああ」


リデアの横を素通りして、『紅い瞳』の子どもが見世を出ていく。

目をぱちくりさせて、固まってしまうが『若い男』のほがらかな声によって引き戻され、見世で一番の美しいものをあてがってくれると言われ、リデアも話に乗ることにしたのだった。




─────────

───────

────




「ぬしさん、ベニは」

「平気やで。泣き疲れて寝たわ」

「そうざんすか……」


肩を揉みながら長身の美形が、相手の問いに答えた。パタン…と閉じられた扉を背にして、ひそめた声で話す。


「にしても、大きくなったんやな。ちょいと抱えるんも一苦労やったで」

「もう、あんこも成人まもなくざんすね」

「『人間』で言うたら、そうやな。ちゅーことは、二年か」

「まだ二年でありんす。ベニにとったらアオはほんに大切な片割れ」

「訳ありがすぎるけどなぁ」


長身の美形は、肩を竦めて苦笑いをした。相手も寂しげに目を細める。


「……『運命』が繋がらんこともある。むしろ、『運命』より強く絡み合う『つがい関係』はこの街と縁遠いだけで存在しとる」

「では、ぬしさんは反対と?」

「いいんや。アオがええンなら、嫁ぐことが一番の最善なことなんやろ」

「……本人たちに委ねると」

「せやなぁ、まあ、何にせよ。ベニには腹を括ってもらうしかあらへんやろ」


廊下の床板がキシッ…と鳴る。足音と、話し声が遠ざかっていくのをベッドの中で聞いていた暮无。


「……そんなの、オレがいちばん、しってるよ……」



悔し紛れの一言を漏らしたのだ。しばらく、ポソポソ…小声で何かが漏れていたが、四半刻もせずに声が止んで、寝息と変わったのだった。






一幕一節目 天の声、語る。



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