Cut.14 〝吸血鬼たちの夜〈Ⅲ〉〟
ある男の話をしよう。
男は幼くして神童と呼ばれ、中学に上がる頃には天才と呼ばれていた。
だが高校を経て大学に入る頃には「頭がいい人」止まりになっていた。
世界は広く、才能に重ねて努力を積み上げる本物には勝てなかったのである。
増長していた、といえばそうなのだろう。
だがそれでも彼は非凡ではあった。
大学を卒業した彼はクラウドファンディングで資金を集め、飛行船による遊覧飛行という事業をはじめた。
一般的な基準からすれば十分に成功した、と言ってもいいだろう。
だが哀しいかな、彼はその育ちゆえに増長し慢心していた。
その程度の成功では満足できなかったのだ。
ある意味で不幸だったと言える。
平均以上の富と才があってなお、そこで満足できなかったのだ。
自分はもっと大きなことができる特別な人間なのだ、と。
彼は25歳になってもまだその
そして彼は、ある意味で普通という
幸運だったのか不幸だったのか。
彼は出会ってしまったのだ、その女に。
それなりの
そうして酒精を無聊として彼は満たされぬ夜を過ごしていた。
女は異邦の人種に見え。
だがその実、人間ではなかった。
人間を止めていた。
そこに在ったのは恋慕でも愛情でもなく。
ただ利害の一致に過ぎなかったのだが。
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約束が守られると心から信じていたわけではない。
だがもはやそれしか彼が特別になる道は残されていなかった。
――約束が果たされる事はいずれにせよなかった。
黒鉄の
彼は間違いなく非凡だった。
狼狽しながらも彼は自らの傷を確認し、致命傷ではないと判断するや袖口を引き裂いてすぐに止血を試みながら、同時に状況を把握しようと努めていた。
目の前には血と泥と灰に塗れた
上背は決して高くはなく、160cmにも届かないように見えた。
擦り切れた汚布からわずかに覗く手は細く、血色は悪く青白い。
2mと離れていないそいつは飛び掛かれば押し倒し容易に無力化できそうに見えた。
だが、男はそれが不可能だと判断できる程度には非凡だった。
闇の中で闇が蠢いている。
肩口に刺さっていた鏃はそのままに、繋がっていた鎖は何かに切り落とされていた。
闇が蠢いている。
金属の軋むような低い音が耳に届いている。
――これは触れてはいけないものだ。
直感的にそれを理解して彼は声すら上げずに蹲っている。
10数mほどの距離を開けて向かい合っている女は、笑いながら日本刀を抜き放った。
永夜を生きるもの。
怪物。
人でなきもの。
月光に照らされ蒼く輝く白刃。
『——そノ所業、許スに能わズ。
名ヲ述べるがイい、幼子ヨ』
蠢く闇が呼ばう。
軋む鉄のような声をあげる。
女に問う。
――汝は何者か?
「あらあら怖い、思わず息を忘れてしまうほどです」
女は白刃を無造作に自らの左肘内に突き立て、気安い動作で引き下ろした。
腕が裂け、筋が切れ、骨が覗く。
血に濡れた白刃を女が振るう、届くような距離ではない。
自らの腕を引き裂く意味も分からない。
その刃が振り切られた直後までは。
振り抜かれた刃から血雫が飛ぶ。
空中でそれは青白い閃光を発して発火、闇を引き裂く炎線となって殺到した。
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通常の人類が肉体に内包できない総量を蓄積する異形の蔵。
それは吸血鬼の無尽の再生能力の正体であり背景。
では、その
その
――〝
血に混じって大気中に飛散したそれは液膜の安定を失うと同時にある種の化学反応を起こし内包する熱量を一気に開放する。
炎線が月下を
男はその光景を呆然と観察していた。
それしかできなかった。
蠢く闇の反応は迅速。
炎線を阻むように立ち上がったそれは輝きを飲み込むように食らいついた。
接触、直後に爆発。
衝撃が風を生み空をかき乱す。
蠢く闇は止まらない、津波のように押し寄せ女を飲み込もうと迫る。
黒鉄の鏃が放たれ鎖の尾を引いて宙を裂く。
女が地面を蹴る、一息に数mを跳ね、着地と同時に疾走。
再び白刃が闇を切り裂き炎線が奔る。
蠢く闇は獰猛な獣の群れのように地を滑る。
女は円を描くように疾駆、黒衣の狩猟者の側面から背面へ。
断続的に放たれる炎線。
その全ては蠢く闇に飲まれる、だが。
――やはり女は嗤っていた。
調停者。
昼と夜の境界の守護者。
最強にして最悪の怪物。
だが、ゆえに。
付け入る隙がそこにある。
蠢く闇は地に伏せ体を丸めて震える哀れな
そうだろう。
そうであろうとも。
そうでなくてはならぬ。
女は嗤う。
それは狩られるものにあれどそにあらず。
己が定めた法に従い
愚かなりや怪物、人界の守護者。
断罪者、己が頑迷なる法によりて焼かれ落ちよ。
女は円を描いて疾走する。
その片手から血を流し続けながら。
そして獣が狩猟者のために用意した檻は完成する。
半径10数m、歪な直径20数mの獄。
――大地が爆発的に炎上する。
それはイスラム教における最後の審判、その後に訪れる七層の地獄の
万物一切を飲み込み、飛行船を噛み砕き。
船に積まれた燃料に引火しその炎はより一層燃え盛る。
女は嗤いながら血を撒き炎よ燃え盛れと踊り狂う。
山の斜面はもはや生物の生存可能な環境ではない。
あらゆるものが発火点を超えて
吹き込む谷間風は炎の生む上昇気流と一体となって渦を巻く。
文字通りの火炎地獄。
もはや止められない、
地獄を生んだ
無限の再生なにするものぞ。
不死の体躯も地獄の炎に焼かれて落ちよ。
〝
灰となれ。
灰は灰に、塵は塵に。
屍たる吸血鬼よ屍に還れ。
女は膝を突き、白刃を杖にどうにか倒れる事なくそこにある。
さすがに血を流し過ぎた。
体内に散在する
だが、勝った。
〝
確信する。
万全であったなら勝機はなかったやも知れぬ。
だが足手まといを庇いながらあの獄よりの脱出を躊躇した一瞬こそが。
勝敗の分かれ目だったのだ。
――耳鳴りがする、立ち眩みがする。
その瞬間までは。
ぼ、と炎獄の内に影が立ち上がる。
それは
蓮の花の蕾を思わせるそれが、ばさりと。
花弁が開く、炎の内に。
炎を割り裂きゆらりと揺れる無数の花弁。
それは大輪の蓮の花。
正しくそれがどういうものなのか理解していない。
自分よりたかが数段上の再生能力、熱量容量を持つ怪物。
――その程度であれば、そう。
その程度の怪物であれば殺せていたであろうが。
花弁が旋回する。
炎の渦を巻き取り、割り裂きながら揺れるそれは。
次の瞬間には渦となって全てを飲み込む牙を剥いた。
その
――〝
その意味するところは〝罪科〟
その名の冠されるところは何者も、いかなるものも。
罪の裁きよりは逃れられぬと言う
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平衡感覚の喪失、吐き気、動悸に眩暈。
そして響くのは悲鳴にも似た軋む轟音。
男がそれらの異常から解放されて理性を取り戻したとき全ては終わっていた。
おそるおそる、顔を上げ上体を起こす。
――世界は一変していた。
彼が蹲っていた場所、黒衣の怪物が立っていた中心以外。
そこにはもう何もなかった。
飛行船も、木々も、燃え盛る地獄も、
直径にして50mほどの範囲がえぐり取られるように消えていた。
すり鉢状にえぐれた大地、その上にあったであろうなにもかもが、ない。
腰が抜けていた。
尻を冷たい地面に投げ出して男はへたり込む。
その夜、男は本物の怪物を目撃し。
特別ではない自分にはじめて安堵したのだった。
**************************************
シャツを脱いでナイフで裂き、即席の包帯にしてケヴィンの手当てをする。
どうせ
上が色気のないスポーツブラだけになってしまうがこれも問題はない。
恥じらいがないわけではないが元が元だけに感覚としては薄いし、なによりそれどころではない。
とりあえず止血を最優先、次いで関節の動きを補うように巻き付ける。
どうあれ動けるようになってもらわねば困るし、失血で意識でも失われると手に負えない。
「——ありがとう、妙に手慣れてるね」
ケヴィンが手足を動かしながら調子を確かめ、顔を上げてそう言った。
「まだ人間時代の感覚が残っているので。
何かと生傷が絶えない生活、だったのでしょうね。
改めて指摘されるまで自覚はなかったですけど」
苦笑しながらシメオンは答える。
ケヴィンは小さく首を傾げながら、そうなのかい?とだけ反応した。
まだ座り込んで動かない彼を見やりシメオンは思案する。
シャッターが閉じたことで差し迫った危険はなさそうだ。
あの餓鬼たちの腕力は大したことがなく、シャッターを打ち破ろうという熱心さもないのが幸いだった。
おそらく他の獲物を求めて散会したのだろう、そんな気がしている。
とはいえいつまでもここに留まっていて良いものかどうか。
待っているだけで解決する状況にも思えず、トゥーラの身も心配ではあった。
あの黒服たちが襲われたりすれば状況は悪化するだろうし……。
「もう少し待ってくれ、再生もそうだが少し周囲を探ってみる」
「この際だから聞きますけど、ケヴィンの血祷ってなんなんです?」
答えてくれると思って訪ねたわけでもなかったが。
状況が状況なので聞けるなら聞いておきたい、自分たちの手札が把握できないのは死活問題であり、彼とは今や一蓮托生の状態だ。
見捨てる、という選択肢も浮かばないではなかったが。
別段彼に特別の恨みがあるわけでなし。
意外なことに、ケヴィンからの回答はあった。
「そうだな。
きみがいなければ俺は死んでいただろう。
借りはあっても貸しはない。
生き残るためにも情報を共有しておこう」
ケヴィンの
そう聞いてもわかるようでわからない。
電気の流れを認識できる能力、と言われれば理解はできるが。
「……ごめん、具体的に何ができるのそれ?」
「そうだな……。
生き物は常に神経に電気を通して筋肉を動かしている」
「相手の動きが読めるってこと?」
と、言ってからこれは違いそうだとシメオンは思う。
戦闘の最中に自分の動きが先読みされていた気配なかった。
「理屈の上ではできる。
ただ読み取った情報から相手の動きを予測することになるから……。
結局見てから対応するのとあんまり変わらないんだ」
それはいよいよ役に立ちそうに思えない、と言葉に出しかけて飲み込む。
「相手が背中に隠した手で何かを抜こうとしてるとか、
背後で何をしているか、とかが読めるのが利点だね」
おお、と感心しかけて疑問が浮かぶ。
それなら餓鬼の奇襲を受けたのはなんだったのだろう?
今度は口にして訪ねてみるとケヴィンは恥ずかしそうに苦笑。
「まあ、視覚や聴覚にどうしても頼りがちなんだよ。
脳の処理能力が上がるわけではないしね、敵が多いと見落としも出る」
なるほど。
「それから、こういう時は使い勝手がいい」
そういってケヴィンは話しながら何かをメモしていた手帳を見せてくる。
視線を走らせて一瞬理解に苦しんだが、このドームの地図だとややあってわかった。
赤いバツ印が無数につけられている。
「これが連中のおおまかな位置。
どうも北側、管制室の方に大半向かっているようだ」
シャッターが閉まったことと併せて〝
「なるほどね。
レーダー的な使い方ができるわけか」
「そういうこと、結構射程が長いんだよこれ」
まとめると視覚や聴覚に頼らず相手の動きを視たり、物陰の相手を把握できる能力。
というところだろうか。
便利そうではあるが、1対1の戦いではさほど利用価値が高いようには思えない。
そう内心でシメオンが結論付けようとしたとき、視線をさまよわせていたケヴィンが意を決したようにシメオンに視線を転じた。
「——脳の思考も電気の流れだ。
脳の構造、というより使い方にはは個々人で差があるから簡単ではないんだが。
僕は他人の思考が読める」
ケヴィンのその言葉に一瞬理解が追い付かない。
ややあって、その意味を理解して息を飲んだ。
「ちょ、」
「断っておくけど今、俺はきみの思考を読もうとしていない。
そもそも言うほど簡単ではないしね、その瞬間に強く想起した事だけだ。
——きみのプライベートは読めてない」
ふぅ、と息を吐いてケヴィンは説明する。
彼の脳内には能力を補助するための機械が埋め込まれている、と。
他人の思考を理解できるように翻訳するのには骨が折れるらしい。
そこでその機械を経由して外部のコンピューターに読み取った情報を送り、翻訳してから折り返し彼の脳に帰すのだという。
吸血鬼の肉体の持つ再生能力をわざわざ阻害しているのはその機械への拒否反応を抑えるため、肉体改造は再生を抑えているからついでにやっていることだと。
骨格と体液を人工物に置換し、彼の体重は40kgを切っているのだという。
通りで、とシメオンは納得する。
あの異常な速力はそのせいか。
「……この秘密を開示したのには理由がある。
きみには命を救われた。
だからこれが君への返礼、受け取ってくれ」
手帳のページを破ってケヴィンが渡してくる。
視線を落とすとそこには黒髪?の女性の似顔絵があった。
「これは?」
「襲撃者がコンテナから出てくる直前に読んだ。
あいつの食事の世話をしていた女だ、おそらく黒幕か、」
「その近くにいるやつ、だね?」
シメオンの確認にケヴィンが頷く。
「おそらく狙いはきみだろう。
〝聖骸王〟狙いならきみには関係ないし。
きみはきみが狙われていると考えて備えておいた方がいい
名はミル、というらしい、おそらくだが」
「ミル……」
無論、その名にシメオンは覚えがない。
そもそも敵を作るほど長く吸血鬼としての背景がないのだから当然だ。
「よし、行こう」
ふらつきながらケヴィンが立ち上がる、一瞬の躊躇はあったが肩を貸した。
「そんな状態で大丈夫?」
「ああ、どうせこのまま座っていても俺の再生はおぼつかない。
それに、安心できる要素を見つけた」
「?」
「一度会った相手なら大体識別できるんだよ、俺の血祷。
——援軍の到着だ」
言いながらケヴィンはシャッターの方へ歩みを進める。
肩を貸すシメオンも必然進むことになる、止める間もなくケヴィンが剣を一閃。
切り落とされたシャッターの向こうからよどんだ風が吹き込んでくる。
視界が開ける、北側の通路付近に餓鬼の群れが見えた。
数匹が反応し、彼らのいる西側の通路の方へと駆け出す、数はまだ多くないが。
ケヴィンをかばいながら戦える自信はない。
「ケヴィン……?!」
「そら来るぞ、南だシオン!
見ろよ騎兵隊の登場だ!!」
ケヴィンが笑いながら言うとほぼ同時。
南西側の壁が溶解した。
ドロドロに液状化した壁をぶち抜きながらその女はドームへと姿を現す。
背の高い、金髪の女。
シメオンにも見覚えのある相手だった。
女は地を蹴り北側の餓鬼の群れへと突っ込んでいく。
呆然と見つめるシメオンと瞬間、視線が絡み合う。
女はシメオンにばっちりとウィンクを1つ。
「——ジョルジュ?!」
叫ぶ。
それは間違いなく、図書館で出会い公園で絵本を読み聞かせた相手だった。
真横でケヴィンが、もうなんの心配もないとばかりに笑っている。
状況はまるで理解できない、理解が追い付かない。
見る間に女は、ジョルジュと名乗ったあの女性が餓鬼の群れに肉薄する。
無数の餓えた牙が女に襲い掛かる、その瞬間。
全てが凍結した。
氷漬けになった餓鬼の群れが地面に転がる。
続けて迫る餓鬼の第二波。
だが女には、女の背中には緊張の気配すらなく。
何もない虚空に衝突した餓鬼の群れが停止する。
間断なく女が腕を振るう、巻き起こった業火が餓鬼の群れを灰にした。
「——な、なにそれ」
あまりの出来事にシメオンは絶句する。
何が起こっているのかまるで理解が追い付かない。
**************************************
その
――その銘は〝
女は笑う、笑いながら餓鬼の群れを枯れ木を圧し折る気安さで屠っていく。
「我が
いや、我が
さあ! 我が
威風堂々、女は笑う。
その歩みを止めるに有象無象の吸血鬼ではまるで足りない。
竜殺しの聖人の名を持つその女。
〝
――〝
それがその女の冠する
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