Cut.09 〝外套と短剣、あるいは毒塗りの〟
万物は毒である。
毒でないものなど存在しない。
その量だけが毒であるか、そうでないかを決める。
――これは15世紀を生きた、一人の男の言葉である。
たとえば水。
人は水がなければ生きていけない。
だが人の臓器である腎臓の利尿能力はおよそ毎分16ml、これを超える速度で水分を摂取し続けると、体内水分過剰で希釈性低ナトリウム血症を引き起こすこととなる。
水中毒、そう呼ばれる症状である。
疲労感、頭痛、嘔吐、精神衰弱あるいは変質。
痙攣、昏睡、最終的には神経系の混乱から呼吸困難に陥り、死に至る。
たとえば酸素。
人は酸素がなければ生きていけない。
だがおよそ2気圧分を超える高濃度の酸素を吸引し続けるとどうなるか。
過剰な酸素の供給により細胞は損傷し、酸化ストレスを形成する。
肺機能を損ね、中枢神経系は混乱をきたし意識の喪失、痙攣、最終的に待つのは死。
酸素中毒。
あるいは特に
――かように、万物万象には適量というものがある。
人類が霊長と呼ばれるに至った理由には知識の継承、道具の使用のほかに、圧倒的な毒物への耐性、——許容量の上下限の幅広さもまた一因であると言えるだろう。
体内環境、生体調整の許容できる範囲を逸脱した変化。
すなわち、副作用である。
シメオン・フェテレイネンは浮足立っていた。
嬉しい、楽しい。
躁鬱でいうところの躁。
喜怒哀楽でいうところの喜、あるいは楽。
それは人の身の至れる武の極北を目撃した喜び、興奮の故であろうか。
なるほど確かにそれもありはするだろう。
本人もまた自らの
だが実際にはそうではなかった。
それだけが理由ではなかった。
世界が光に溢ればら色に輝いて見える理由。
それは4錠目の
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そういえば外出制限は不思議とかけられなかったな、とシオンは思う。
あんなことがあったのだから出回るなとでも言われるかとも少し思ったのだが。
7:00になった。
駅前でいつぞやのドネルケバブ屋を見つけ、苦笑されつつ朝食を摂る。
なんやかんやで歓迎してくれるのは外見の良さゆえか、かわいいは正義である。
ゆったりとおかわりを繰り返し、軽く雑談など交えつつ。
8:00になって再び散策に戻る。
いつもは9:00を過ぎから出て回るせいか、瞳に映る風景は随分違った。
学校や会社に向かう、
かって見たことのある風景だったはずの、それがひどく新鮮に目に映る。
年頃の学生に指さされ、小学生くらいの幼子に金髪が珍しいのか目を丸くされる。
小さく笑顔をサービスし、手を振ってやると反応が楽しかった。
通勤通学、生きるための義務を果たす人の波を冷かしながら練り歩く。
9:00になった。
人の波は引いて街は穏やかな静けさを取り戻す。
さざ波のように人が寄せては返す、八時台に比べれば少ないが人の姿はあった。
かっての、吸血鬼になる前の彼の時代にもあまり見る事のなかった風景。
髪を撫でる初夏の風を目を細めながら受け流し、世界を眺める。
歩き出す、最近の日課の通りに、図書館へ行こうと思い立った。
いつものように、同じ席に腰を下ろす。
窓から机一つ離れたその席がシメオンの指定席だった。
適当に本棚から引き抜いて来た書物を机の上に置く。
さてどれから読もうか、そんな風に思い、だが集中力は長く続かない。
囁くような小さな声たちすら気になって。
静かなはずの朝方の図書館内がなぜか落ち着かない。
3カ月ほども通い続けて既に第2の我が家のような心持でいるのに。
15分ほど頑張ってみた、がどうにも集中できない。
頬肘をついてため息をつく、どうしたものか。
さすがに今から帰るのも業腹であるし、ほかに時間をつぶせる場所の宛もない。
何となく周囲を眺めてみる。
何となく見たことのある顔ぶれ、利用者の層などそうそう変わるものでもない。
そうやって利用者の顔を眺め続け、時計に視線を向ける。
やっと9時半、まるで時間の経過が遅い。
どうしたものかな、と声に出さずに呟いて。
もう1度周囲を見渡して、気づいた。
周囲の視線はちらちらと特定の方向に向いている。
シメオンの方、ではなかった。
時折顔をみかけるあのモデルめいた西洋人の女性がいた。
年のころはよくわからない、30歳前後だろうか。
身長は180cmを超えるか超えないか、なかなかの長身。
モデル体型とでもいうのか、足が長くメリハリのある体つき。
だが、魅惑的かと言えばそうでもなく。
どちらかと言えば野性味というか、生命力にあふれている印象だった。
なんとはなしに、昔DVDで見た映画を思い出す。
あまりはっきりとは思い出せない、ずいぶん昔の事だ。
カリブのを舞台にした冒険活劇、不死身の呪いにとらわれた海賊と、ヒロインを助けるために奮闘する鍛冶屋の物語。
あのヒロインにどこか似ている、そんな風に思う。
頬肘をついたまま彼女は彼女をなんとはなしに眺め続けた。
彼女は大判の絵本を手に着席し、ゆっくりとした手つきをページをめくる。
……その一枚の絵画のような姿を眺めていたシメオンはややって気づいた。
彼女の手つきはひどく緩慢で、字数も大したことのないであろう絵本のページはなかなか先に進まない。
挿絵をゆっくりと確認しているのかとも思ったがそうとも思えない。
彼女は困ったように眉をしかめて同じところにずっと視線を巡らせている。
常の
だが、今日のシメオンは席から立ち上がり、その女性の傍らへと歩み寄った。
「——えっと、何か困ってます?
あ、日本語で大丈夫かな、ぼく日本語しか喋れないんですけど……」
そうシメオンが声をかけると、女は顔を上げて視線を向けてきた。
「……きみは?
ああ、いや。
ありがとう、日本語はわかるよ。
ただ、ちょっと字を読むのが苦手でね」
ゆるく肩をすくめて女は絵本の挿絵をそっと指先で撫でる。
なるほど、とシメオンは納得した。
会話に使う事はあっても読み書きは苦手、ということだろう。
シメオンは納得し、少し考えてから口を開く。
「でしたら、朗読しましょうか、朗読ってわかるのかな。
声に出して読みましょうか、ぼく?」
「それは。
助かる、のだが。
……ここで声を出すのは良くないのではないか?」
「あ、そうか。
ちょっと見せてください」
絵本を裏返して裏表紙に貼られた
持ち出し禁止の本ではなかった。
「うん、これなら借りて持ち出せるので。
あなたさえよかったら、どこか場所を変えて」
女は一瞬目を細め、そして笑った。
立ち上がりシメオンの頭をそっと撫でる。
「きみはいい子だな。
迷惑でなければお願いしても?」
「はい、よろこんで」
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貸し出し手続きを済ませて図書館を出る。
場所をどこにするかで悩んだが、結局は朝方訪れた公園に行くことにした。
あの少女の顔をもう1度見れたらそれはそれでうれしい、という下心。
もっともまるで期待してはいなかったのだが。
反射して読みにくいのと、紫外線が印刷に悪いという知識から日差しは避けた。
柔らかく陽光を遮る木陰のベンチを選び、並んで腰かける。
女は肩を寄せ、密着するような態勢。
距離が近い、と思ったがこれは絵本を覗き込むためだろう。
膝の上に絵本を載せて開く。
――その絵本は商業のものではなかった。
誰か市井の絵師が手作りした一品もので、質素なつくりのたった1冊。
聞き取りやすいようにとシメオンはひどくゆっくりとした口調で絵本を朗読する。
……物語の大筋ははこうだ。
ある村に、それは小さな小さな一人の少女がいた。
少女は小柄な事をからかわれ続けていたがひねくれる事もなく過ごす。
ある時村に小さな悪魔がやってくる。
悪魔は大人たちに甘くささやき、ねじくれた願いの叶え方をして苦しめる。
最後に小さな悪魔は少女と出会い、背を伸ばしてやろうと囁いた。
だが少女は誇り高く胸を張り、悪魔に何も願わなかった。
少女は逆に悪魔に願いはないのか尋ね。
悪魔はうっかりささやかな願いを口にする。
少女は微笑み、悪魔の願いを叶えてやり、引き換えに村人たちの魂を開放して貰う。
村人たちは優しく勇敢な少女に感謝し、彼女をからかう事はなくなった。
「——めでたしめでたし」
シメオンの締めの言葉に、女は小さく拍手を贈った。
「それで?
悪魔の願いとは何だったのだ?」
拍手が終り、興味深そうに問いが放たれる、だがシメオンには答えられない。
そこは作中でも触れられていない点であり、彼女にも疑問な部分だったからだ。
悪魔が何を願ったのか。
作中でもただ「願った」、少女が「叶えた」としか触れられていなかった。
「ううん、そこ、書かれてないんですよね。
読み上げた通りです、悪魔が何かを願って少女はそれを叶えた。
……この絵本にはそれだけしか書いてありません」
だが、類推する事はできる。
おそらく作者も明言せずに読み取らせようと考えたのだろう。
シメオンは絵本の最後のページを開く。
見開きの一枚絵、地の文も台詞も無くただ絵だけのラストページ。
こちらに背を向けて立つ少女と悪魔、2人は手を繋いで立っている。
自分の思うところを伝えようと口を開きかけて、結局シメオンは口を閉じた。
こういうものは自分で考え、感じるべきだと思ったからだ。
何を感じ取ったのか、女は無言で挿絵を指先でゆっくりと撫で、そして薄く笑った。
「――良い話だな。
ありがとう、そうだきみの名は?」
「あ、シメオンです、シメオン・フェテレイネン。
親しい人はシオンと」
「そうか、シオン。
私の事はジョルジュと呼んでくれ」
女が自然な態度で片手を差し出し、中身が日本人であるシメオンは一瞬反応に困る。
ややあって握手を求められているのだと気づき、慌てて手を伸ばしそっと握った。
「えと、もう2~3回読みますか?」
「いや、1度で十分だよシオン。
これでも物覚えは良い方なんだ。
――そうだな、お礼になるかはわからないが、私の秘密を1つ教えよう」
「秘密?」
まるで世界で一番大事な秘密を話して聞かせる魔女のように。
「きみは私が日本語の読み書きが苦手なのだと思ったのかもしれない。
それでこうしてつきあってくれているのだろうけれど、実は違うんだ。
私はね、シオン。
言葉が、文字全般が読めないんだ。
ディスレクシア、失語症というらしい、生来の体質なんだよ」
シメオンには覚えのない単語と、体質だったが、そういうものもあるのだろう。
最近は良くわからない、信じられないような事実ばかり目の当たりにしている。
なので驚きや疑いの感情はまるでなかった。
だが別の意味での疑問は湧く。
文字が読めないのに図書館に?
その疑問をシメオンは素直に言葉にした。
この
「それだと、図書館はつまらない場所なのでは?」
「そうとばかりも言えないが、強く否定もできないかな。
やりようによっては多少読める人もいるらしいんだ。
でも様々な方法を試してはみたが私は筋金入りらしくてね、まるでダメ。
けど〝本を読む〟という行為にずっと憧れがあって、諦め悪く通っているのさ。
いろいろな場所の図書館を回って、私に読める本はないか、とね。
この絵本は挿絵が気に入ってしまって、同じものが売られているわけではないと聞いたから諦めがつかずに連日通う羽目になってしまったよ」
「……それは」
言葉が見つからない。
自分が当然のようにできることができない、という状況が想像できなかった。
そしてできないことが当然という相手にかける言葉も思いつかない。
「気にしないでくれ、私も気にしてはいない。
知っているかい?
最近はスマートフォンで撮影すると文字を読み上げてくれたりするんだ。
昔から人に読んで貰って覚えていたから、聞いて覚えるのはすっかり得意だよ。
だから大丈夫、きみがそんな顔をするほど苦労はしていない」
言いながら、女が立ち上がる。
絵本に執着してすっかり滞在スケジュールを狂わせてしまったらしい。
だから調整をがんばらないと、と女は笑った。
「ありがとうシオン。
小さな友よ。
私は行かねばならないが、この恩、きみの優しさは忘れない。
必ず報いると約束しよう。
そしてきっと、またきみと私は出会うだろう、予感がするんだ」
きっと小さな友、とは軽んじての言葉ではない。
先の絵本を踏襲してあえて選んだ言葉なのだろう。
誇り高く胸を張る、小さな
だから
「ありがとう、ジョルジュ。
ともだちだと、そう言ってくれてぼくも嬉しいです。
良い旅を、あなたの行く先に幸運がありますように。
必ずまた、どこかで会いましょう」
ここ最近の図書館通いで増やした語彙を駆使して、格好の付きそうな謝辞を述べる。
気取っていたかもしれないが、この
名残を惜しむでなく、未練を残すでもなく。
ただ極々自然に、それこそ友人が別れを告げる気安さで。
どうということもなく、また明日会う、そんな態度で一礼し、そして背を向ける。
足取りは軽くも重くも無く、自然な速度で、立ち去って行く背中。
ほぅ、とシメオンは息を吐いた。
美しい人だった、ずっと緊張していた。
今日は随分と出会いに恵まれた日だな、とそんな事を思う。
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――むろん、出会いとは良いものばかりとは限らない。
「ねぇそこのかわいいきみ! お茶しよう!!」
雑踏の中で大声で叫ばれた。
かわいいきみと呼ばれて反応する程度にはシメオンは自分の外見への評価を新たにして自覚もしているわけだが。
が、足を止めるのも自意識過剰ではないか?と思い直して止めた足を再開する。
そもそもどう考えてもナンパである、付き合う義理はまるでない。
早足で前方に回り込んで来る誰か、声の主。
男、西洋人、くせっ毛の金髪、年のころは17~18ほどか。
「あってる! きみであってる!
きみに声をかけたんだって、ねぇお茶しようよ?」
まあ顔は良い方だろう。
だが今朝は立て続けに顔の良い少女と美女に出会っている、感覚が麻痺していた。
だいぶ
もっとも、昼間であっても並大抵の成人男性に負けるような
左手首内側の時計を一瞥する。
「――ごめんなさい、お茶するよりご飯が食べたい気分なの。
この通りの先に
常日頃なら無視の一手だ。
だが今日は機嫌が良かったので無茶振りとはいえ笑顔で応答してやる事にする。
言葉を交わす必要もまるでないのだが。
「
「――は?」
**************************************
どうしてこうなった。
血の滴るミディアムレアの10ポンドステーキ。
入口看板にも記載されている(値段を含めて)規格外の代物。
店の前を通る度に視線を奪われ、だが財布の重さもあって諦めて来たものだ。
1ポンドは453g、つまり10ポンドとは4.5kgである。
その巨大な肉の塊を前に、少女はまるで怯むでもなく。
店内は一種、異様な空気に包まれている。
ステーキをナイフで一口サイズに切り分けながら、内心シメオンは頭を抱えていた。
入口看板の値段を見れば引いてくれるかとも思ったがそんな事も無く、学生にしか見えないその青年はにこにこしたまま
そして現在、彼は彼女の正面に座って机の上でゆるやかに両手の指を組んで彼女の食べっぷりを眺めている。
どうしてこうなった。
もぐもぐと美味しい肉を食べながら唸る。
おいしい。
おいしいけれども。
巨大ステーキにも値段にも、彼女の食べっぷりにもまるで動揺しない。
実際大した人物なのかもしれない、あるいはただの馬鹿か。
ステーキ肉を切り分けながら、視線を少しだけ男に向ける。
ペイズリー柄の趣味の悪いワイシャツ、首元のボタンは3つほども開いている。
下半身は白いスラックス、足元は高級そうな革靴。
くせっ毛の金髪は適当にワックスで後ろに流していて、アクセサリの類は一切ない。
全体としては完成度の高いイケメン。
視線に気づいたのか、男はにっこりと笑って見せた。
食事の邪魔をする気はないのか言葉をかけて来る様子はない。
まあ、好感度を稼ぐタイプの笑顔だ。
男なれしていない年頃の少女なら一発でコロっと行くだろう。
もっとも元男性で現在も比較的男に興味の薄いシメオンにはろくに効果はない。
さしあたって目前のA5肉の方がよほど魅力的だった。
ろくな会話も無く黙々とステーキを解体し口に運ぶ、うま、うま。
6割ほどをやっつけたところでシメオンはナイフを下ろし、ナプキンで口元を上品に拭う。
「あなたは食べないんですか?」
「きみが食べてるところを見ているだけで、ぼくはお腹いっぱいだよ」
デート中の定番台詞な気もするが、この場合比喩抜きにただの事実めいてもいる。
とりあえず義理は果たしたかな、とナイフを握り直して食事を再開。
「我が父祖は、スティーヴン・K・ロングフェロー。
我が父は、ビヴァリー・K・ロングフェロー。
祖に繋がる我が名はケヴィン・K・ロングフェロー。
その
がち、と我知らずフォークを噛んでいた。
彼女は名乗っていない、1度も名乗っていない、だとしたらこいつは――。
ぱさ、と乾いた音を立てて。
「ぼくはきみに決闘を申し込む」
ぎょくん、と肉塊を飲み込む、返す言葉は思いつかなかった。
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