Cut.08 〝至り得る場所〟


シメオン・フェテレイネンは寝ぼけ眼のまま薬入れピルケースを手に取った。

健康に悪そうな紫色の錠剤を3錠、口に放り込んでペットボトルの水を飲む。

思考する必要すらなく、起き抜けに抗陽光薬S.L.Rを飲むのは完全に日課になっていた。




AM-02:27午前2時27分



「――あ」




飲んでから時計を見ていよいよ目が覚める。

自分の間抜けさにがっくりと肩を落としてしまう、まだ〝朝〟ではなかった。


しっかりと窓をふさいだ遮光カーテンを引くと、まだ夜は深い。

……というより、深夜だ。

時刻を思えばまあ当然ではある。


俗に言われる『草木も眠る丑三つ時午前二時からの三十分』。


朝どころか完全な深夜。

見事なやらかしであった。



抗陽光薬S.L.Rの効果が出るのは3時間後、6時前。

持続が10時間なので単純計算で夕方の4時前には効果が切れてしまう。

当たり前だが日没前に効果が終るのは非常に危険なことだと釘を刺されていた。


抗陽光薬S.L.Rには副作用と呼べるものはない。

だが4錠を超えると持続時間そのものに対する効果効率が大きく減少する。


記憶を辿る。



『1錠で6時間、3錠で10時間、6錠で12時間弱、9錠で約12時間。

 効果時間効率は飲むほどに悪化し、副作用は徐々にではなく一気に重くなる。

 1度効果が切れたら最低3時間、可能なら6時間間を置くように』



『基本的には4錠目までで合計11時間が限度だと思っておきなさい。

 どうしようもない時以外、5錠目を飲んではいけない。

 副作用が問題にならないと私が保証できるのはまでだ』



『――追加して伸びる時間は7錠目で+5分、8錠目で+2分半。

 9錠目はせいぜい+1分ってところ。

 7~9錠目まで飲んでも10分程度しか伸びないよ。

 10錠目なんてほぼ飲むだけ無駄』



トゥーラの講義レクチャーを思い出す。



どうしようもない時以外、5錠目を飲んではいけない、ということは。

どうしようもなかったら5錠目を使え、ということだろう。


シメオンが抗陽光薬S.L.Rを服用するようになって3ヶ月と半分ほど。

いまだ4錠目にすら手を付けたことはない。



「……1度、経験しておきますか」



ふ、と息を吐いて呟く。


良い機会だと思う事にする。

とりあえずどうなるのか体感しておくのは悪い事ではないはずだ。


やや緊張しながら4錠目を手に取る。

さすがにいきなり5錠目まで試す勇気むぼうさはシオンにはない。


シオンはゆっくりと4錠目を口に含み、ミネラルウォーターのボトルを手にする。




**************************************




耳障りな電子音アラームに男は両目を開き、ベッドから半身を起こす。


男の名はダノワ。

トゥーラ・フェテレイネンが遭遇した優男のそれが名であった。


アジア系の外見に似合う名ではなく、むろん本名ではない。

白杭ホワイトスティクス〟に名を連ねた瞬間から、男には本名も過去もない。

彼らは吸血鬼と戦うためにすべてを捨てるのが普通だった。


吸血鬼に肉親を人質に取られたり、巻き込んだりすることを避ける為に、だ。

そしてそんな〝白杭ホワイトスティクス〟の在り方も、時代とともに鋭さを失いつつあった。


今では彼のように過去を捨ててまで身を投じる人間は少ない。

絶無だと言ってもいい。


頭を振り、ベッドから降りる。

卓上に置かれた青磁の壺の蓋を開けて漆塗りの木匙スプーンを突き刺す。


鼻をつまんで大口を開け、摺り切り一杯を口内に流し込む。

ミネラルウォーターのボトルを指一本で開けて一息に嚥下する。


五時間に一度、睡眠を中断してすら続ける漢方薬の摂取。

白杭ホワイトスティクス〟内部でももう、数えるほどの人間しかやっていない肉体改造のバーヴァナ


無厭足アチャラー

 ――即ち彼の師にすら歓迎されなかった時代錯誤の訓練。


その源流は印度インドだか西蔵チベットだかに端を発するという。

もはやそのバーヴァナそれ自体も無厭足アチャラーの手により、西洋の錬金術すら織り込んで原型をとどめぬまでに改変されているという話ではあるが。


彼の言う〝先生〟つまり無厭足アチャラーにも止められた行為を、行う。


バーヴァナとは、数十数百の漢方薬、生薬を摂取し続け、腸内環境を変質させることにその意義があるという。

これも先生の受け売りであってダノワ自身完全に理解しているわけではないのだが。


漢方薬学は西洋薬学とは異なるアプローチで人体の状況を変化させる。

化学物質を直接に身体に影響させる西洋薬学とは異なり、漢方とは(少なくとも先生の言うところのそれは)腸内に特定の物質を送り込み、腸内細菌によってある種の化学変化、物質の生成を行わせることを目的とするという。


腸内環境コロニーの形成に成功すれば水だけで食事の代わりに充てる事ができる。

とはの言である。


腸内環境を変質させ、通常では腸内に存在しえない細菌バクテリアを育成する。

その変質した腸内環境をさらに変質させ次なる細菌を――。

繰り返される変質に次ぐ変質。

その果てに、ある種の古細菌アルカエアをすら腸内に飼うに至ってバーヴァナは完了する。


通常人体内で生成され得ぬ数多の化学物質を胎に生じせしめる秘奥。

一朝一夕に終わるものでもなく、七年の歳月をかけてすらまだダノワは道半ばだ。


だがその最果てに至れるものは少ない。

体質によって成否は大きく左右され、数十年を経て後にその先に進めぬ事を知る羽目になるものも多いという。


そうなればむろん、すべては徒労である。


『しかもそうまでして至ったところで得るものはないぞ、ダノワ。

 水だけで生きられると言えば聞こえはいい。


 天仙はこれ霊山に住み霞を食うというがなァ。

 それはという事よ。


 肉を断ち、五穀を断ち、草菜を断って解脱したところで待つのは無明。

 気の迷いで人と同じ飯を口にしたが最後、数十年かけて育てた胎は死ぬ。

 こんなもの、となんら大差はない』



――報われんよ、と他ならぬ仙の位に至った彼の師は嗤った。



それでも、と彼は思う。

人の身であの吸血鬼かいぶつたちと渡り合おうと思うなら安い代償だ。


彼は知っている。

知ってしまった。


無厭足アチャラー


あるいは羅刹ラクシャス


人の身をして鬼神の名を冠された己の師の強さを。


それは憧憬であり、尊敬である。

吸血鬼に対して憎悪があるわけではない。


人の極北。

彼は〝最強〟を体現する人間を見知ってしまった。


――男なら、憧れるだろ。


つまらない理由だという自覚はあったが、それでも。



「——あー、くそ。肉喰いてェ……」



ベッドに大の字に転がって目を閉じる。

空腹感から逃れるためにシーツにくるまって意識を手放す。


夜明けは、まだはるかに遠い。




**************************************





――5:30午前五時半


軽い仮眠と柔軟体操ストレッチで3時間を消費つぶしてシメオンは時計を見た。


カーテンを開いて陽光を腕に浴びせる。

問題がないことを確認して着替えを済ませ、マンションを出た。


今日の服装は久しぶりにスカートではなくハーフパンツ。

早朝のジョギングに相応しい服装を選んだだけで深い意味はない。


ゆるやかな駆け足で人の気配の薄い街中を走る。

ウェストポーチを胸の前に斜め掛けして財布などは入れている。


はっ、はっ、と断続的に息を吐きながら走る。

以前の自分はこんな風に健康的な運動をしたことがあっただろうか?


中学の時に何となくやっていた陸上部の頃を思い出す。

もっとも直ぐにバイト優先で退部してしまったのだが。


無心に手を振り足を動かす。

こんなに体を動かすのは楽しかっただろうか?


背後に流れていく街の風景。

短くリズムを刻みながら吐き出される自分の息。


世界は単純化されて思考が透明になっていく。


――どのくらいそうしていたのか。


緑の香りを肌に感じて足を止める。

呼吸はまるで乱れていない。


見覚えのない公園は朝日に照らされてさらさらと翠の気配を広げている。

何の気なしに足を踏み入れた。


時計を見る、6時10分。

30分以上も無心に歩を進めていた自分に驚く。


両腕を突き上げて背伸びを1つ。

いい気分。


朝の気配に抱かれて健康的にジョギングする吸血鬼、というシチュに何とも言えず笑いがこみ上げる。


ゆったりと歩を進める。

人の気配はない。


ゆったりと歩を進める。

人の気配はない。


ゆったりと歩を進める。

人の気配を感じてまた足を止めた。


背の低い観賞用の木々に混じって突っ立っていた自販機でミネラルウォーターを買う。


ぐるりと頭を巡らせて今感じた気配を追う。

ややあって、気配の主を見つけた。


芝の上に立つ、少女。

不思議な光景だった。


褐色の肌と銀と呼ぶには鈍い、灰色の髪。

不思議だったのはその少女が積み上げられた空き缶の上に立っていた事。


三段に重ねられたアルミ缶の上に、ふらつくこともなく少女は立っている。


狭い缶の上には片足しか載っていないのに。

ゆるやかに、自然な動作で缶を踏む足が入れ替わる。


バランス感覚、それとも重心操作だろうか?

大した運動神経だと思える。


緩やかに足踏みする気安さで入れ替わる両脚。

ややあって片脚が折りたたまれ胸の前に膝を引き付けて片脚立ちになる。


ゆっくりと、ゆっくりと畳まれた足が直立する。

アイ字バランス、というやつだろうか。


そのままゆっくりと持ち上げられた足が角度を得て斜めにずらされる。

今度はワイ字に。


軸足は微塵もブレる事無く、ゆるやかに半円を描いて持ち上げられた脚が真下へ。

踏み変えられる軸足。


今度は逆側の脚が同じように胸元に畳まれ、I字、Y字と再び変化する。

直立へと戻る姿勢。


緩やかに脇に垂れていた両腕が真横にピンと伸ばされる。

再び踏み変えられる軸足。


片脚ずつ同じようにゆったりと、時計の秒針のようなゆるやかさで半円を描く脚先。

新体操か、あるいはバレエでも見ている気分でその所作を眺めていた。


片脚で空き缶の上に立った少女の体が今度は旋回する。

オルゴール箱の上に立った人形のように。


ぐるりと旋回した少女の頭部がこちらを向いて。

シメオンと視線が噛み合う。


恐らく背後に立つ自分の気配にはとうに気づいていたのだろう。

悪戯っぽい笑みを浮かべて少女がシメオンを見た。


その直後に起こったことがシメオンにはまるで理解できない。

頭も、肩も、腰も脚も。

まるで動いたようには見えなかったのにストン、と少女の高さが変わる。


一瞬何が起こったのかわからず。

だがややあって何が起こったのか理解する。

少女が踏んでいた三段の空き缶はいつの間にか二段になっていた。


きょとんと、思わず少女の顔を見た。

今度こそしてやったりと悪戯が成功した童子の表情で少女が笑う。


片腕を胸の前に畳んで優雅に一礼。


階段を降りるような滑らかな動作で少女が地面に降り立つ。



「——もう、そんなに熱心に見られると照れるなぁ」


「あ」



そう声をかけられてはじめて。

シメオンは自分がぶしつけなまでに彼女を凝視していた事に気づく。



「ごめん、すごい、その。

 運動神経? だな、と思って」



「ありがと。

 そんな大したことじゃないよ?

 健康体操みたいなもので……。

 先生からサボらず続けろって言われてて、まあ日課?

 みたいなものだから」



へぇ、と間抜けな返事を返してシメオンはペットボトルを差し出す。

無意識の行動だったが余計な事だったろうか?という不安はすぐに溶けて消えた。

少女は一瞬だけ驚きの表情を浮かべた後、はにかむように笑ってそれを受け取る。



「ありがと。

 きみは散歩?」



「ああ、うん。

 そんな感じ。

 ちょっと早く目が覚めちゃったからなんとなく」



「なるほど。

 どおりで見たことないなって、日課とかじゃないんだね。

 ぼくは、ティエ。きみは?」



キャップをひねってペットボトルの中身を飲むのではなく、じゃばじゃばと頭から軽く浴びる少女にやや驚きながらシメオンは答える。



「シメオン。

 親しい人はシオンって呼ぶけど」



「へぇ。

 ぼくもシオンって呼んでいい?」



「うん、いいよ」



向けられた笑顔に笑顔を返しながらシメオンは頷く。

親しい人にしかされない呼び名を早速させろと初対面で言ってくる態度にも、渡されたペットボトルの水を浴びだす行動にも不思議と不快感はなかった。


頭髪だけを濡らし、2/3ほどになったペットボトルを地面に置いて。

ティエと名乗った少女は滑らかに柔軟体操らしき動きを始める。



「シオンは、あれ?

 怪我でもしたの?」



「え、なんで」



突然そんなことを言い出す少女に面食らう。

当然だが怪我の痕跡など既にない。

吸血鬼との闘いからはや2週間、完治には十分な時間が過ぎている。



「ん。

 動きがぎこちない。

 リハビリか何かしてる最中って感じがする」



驚く。


転成、そして先の大けがからの再構築。

ある意味ではリハビリの最中と言っても間違いではない。


既に自覚できる不自然さはほとんど消えているのだが。

対面して数分のうちにそんなことまで判別できるものなのか。



「——すごいな、わかるの?

 そういうの」



「まあ、カン? に、近いけど。

 よかったら少し見ようか?」



「え、いいの。

 じゃあお願いしようかな」



「おっけおっけ」



少女は笑いながらシメオンの正面に回って向き合うように立つ。



「はい。

 そこから手を前にあげたら、シオンの手はぼくに届くと思う?」



「え? どうかな……」



互いの距離は微妙な遠さ、腕を持ち上げて指先が少女に届くかはわからない。



「……とどく、かな?」



「やってみ」



言われて頷き、腕を持ち上げる。

惜しいところで指先は少女の肩に届かない。



「おっけー。

 じゃあ、腕を下ろして。

 指先がぎりぎり届くところまで前進して。

 もう1度やってみよう」



言われて、素直に腕を下ろす。

半歩にも足りないわずかな前進、そして腕を上げる。


今度は指先が少し肩に食い込む。

ぎりぎり、というには近過ぎたようだ。



「うん。

 もう1度下げて今度は下がって」



言われたとおりに腕を下げて気持ち後ずさる。

それから言われる前に腕を上げる、今度は指先がキレイに肩をかすめた。



「お」



「お、いいね」




少女は笑って半歩ステップ、距離がまた開く。

全身が視界に映る。


チャコールグレイのハーフパンツに水色のパーカー。

足元はしゃれっ気のないスニーカー。


思えば似たような服装、年頃も同じ14~15歳くらい。



「——じゃ、次ね。

 かもん」



指先を折り曲げてくい、とかかってこいの動作ジェスチャー




「え」



「大丈夫大丈夫。

 かかっといで。

 ぼくにさわれたらご飯をおごってあげよう」



「——言ったな」



笑って、踏み込む。

右腕をコンパクトに突き出す。


少女は笑いながら体をひねる。

指先はかすりもしない。


動きは止めない。

肩を入れて腕を伸ばし横に振る。


態勢を崩していたはずの少女の体は、だがすり抜けるように直立に戻る。

たたらを踏んで姿勢を崩したのはシメオンの方だった。


素人ではない。

武術か、格闘技か。

少女には何かしらの覚えがある、と判断。



「遠慮なしで行くよ」


ウェストポーチを背中の方へ軽く放って身軽になる。

わずかに腰を落として重心を下げる。


本当に遠慮はいらないらしい。

少しだけ本気でやろう、とシメオンは決意。


再び右腕。

だがこれはデコイだ。

本命は半呼吸遅れて振った左手。


少女が笑う。


「へへーい」



少女の左腕が緩やかに持ち上がる。

突き出したシメオンの右手首に少女の指先が触れる。

軌道をずらされた、だが関係、ない、あった。


ぬるりと外に引っ張られた右腕に釣られて肩、胸、腰と重心がブレる。

少女をとらえるはずだった左腕が進路を見失って虚空を薙ぐ。


右足を半歩下げる。

崩れた態勢を回復して左腕を引き戻しながら肩を狙う。


少女が無造作に左手でシメオンの肘の内側を突いて軌道はまたずらされた。


ふ、と息を吐く。


ギアが一段上がるのを感じた。

右腕をまた突き出す、間髪入れず左。


再びゆるやかに旋回した左腕に阻まれる。

指先は空を切る。


二手、三手、四手、五手――。


踏み込み、時に下がりながら両腕を間断なく振り込む。


届かない、触れられない。





六手目が空を切って七手目を、



「はいそこまで」



眉間に突き付けられた少女の指先にハッとする。

今、自分は上げてはいけない領域までギアを上げかけていた。



「シオン、怖い目つきになってたからレッドカー、ド。

 ここまでにしよっか?」



「——うん、ごめん、ちょっとムキになってたかも」



「いいよいいよ」



少女が自然な足取りで離れていく。

少し離れた場所、小枝にかけられていた小さな布鞄を開けてタオルを取り出す。


投げてよこされたそれを反射的に受け取って、はじめて汗をかいていた事に気づく。

黙礼して、ありがたく受け取ったタオルで額から流れ落ちてきた汗を拭った。



ゆるやかな足取りで近寄ってくる少女ティエの足元を見て、気づく。

先のやり取りの間、彼女は最初の位置から半歩すら動いていなかった。


健康体操みたいなもの、どころではなかった。

半ば人外の領域に踏み込みかけていたシメオンの動きを。

彼女は片腕一本で鮮やかに捌ききったのだ。


……いや、太極拳などは今ではほとんど健康体操の扱いだが歴とした武術ではある、そう聞いたことはある。

彼女のそれもそういった、健康運動の延長上にある、のだろうか。

だとしても大変な力量には違いないのだが。



「うん。

 大身ストゥーラは全然だね。

 小身スークシュマは善し、流身ナーディーもなかなか。

 重芯ニルマーナは立派なものだし、流芯ダルマはすごい。

 感芯サンボーガも相当だ、才能あるねシオン」



「え、何?」



よくわからない単語を重ねられて困惑する。

トゥーラといい、自分の周囲には説明が雑な人がどうも多い気がする。



「ああ、ごめんごめん。

 ぼくの流派、あっいっけない流派って言っちゃった。


 まあうん、先生の教えでね。


 大身ストゥーラとは大なるしん。総身を統括する自我。

 小身スークシュマとは小なる身。総身を制御する小脳。

 流身ナーディーとは呼吸器系、循環系を総称する内外をつなぐ概念。

 これをもって実の三神/身一体トリムールティと称するわけ。


 重芯ニルマーナは体幹と重心、重量の軸。

 流芯ダルマは血流と呼吸、機会の軸。

 感芯サンボーガが五感と直観、感覚の軸。

 これをもって虚の三神/芯一体トリムールティと称します。


 ――三身と三芯、その全なるいつ、虚実双方の合をもって不二一現アハンカーラを成す。


 ……とまあ、身体操作の奥義?

 みたいなもののことさね」



からりと笑って少女は手を振る。

やはり武術、のようなものを修めているのだろうか。



「えーっと、そうだなー。

 シオンはさ、自分の体をどうやって動かしてる?」



「え? どう、って」



困惑するシメオンに、にやりと笑って少女はいつのまにか拾い上げていたペットボトルを投げる。

反射的にそれをキャッチするが、言いたいことはまるでわからない。



「今、シオンは、でしょ?

 考えて体を動かしたわけじゃない、と言うべきかな」



「うん? 反射的に受け取ったけど」



「それが、小身スークシュマ

 飛んでくるペットボトルを見て、距離を計算して。

 腕を持ち上げて肘を畳んで距離を調整して五指を開き、受け止めた瞬間に肩をまわして衝撃を殺して五指を閉じてペットボトルを保持する。

 雑に言ってもこのくらいのことを今、きみはしたわけ。


 でもその一連の動きってまるで意識してないでしょ、反射ってやつ」



言われて、なるほどと漠然と理解する。

確かに今の一連の動きに意識や計算はない。

全て無意識の動きだ。



「いちいち全部考えてたら大変だからさ。

 人体ひとのからだって言うのは自動オートで雑事を万事こなすわけ。

 熱いものに触ったとき反射的に手を引っ込めるとか、ね。


 その働きが小身スークシュマ

 でもそれは、



ゆるやかに自然体で立って少女ティエは笑った。



「余計な事を考えない、思考の最適化。

 でもそれは小身スークシュマに動かして貰っている、だけ。

 だから物理運動としては、って考え方をするの。


 ぼくらはね。

 ではその丸投げをやめて、

 




 ――?」



 宣言と同時、少女は動いた、らしかった。


 気づけば少女のゆるく握られた拳はシメオンの眼前にある。



「——。」



ちょん、とシメオンの鼻先を撫でて少女ティエの指先が遠ざかっていく。



「ね?

 これが大身ストゥーラを修めるってこと」



まるで見えなかった、

初動、事のすら認識できていない。


震えが来るのを抑えられない。

恐るべき、というべきだろうその動き。


強化された吸血鬼かいぶつの五感ですらまるで捉えられない速度。


年端のいかない少女ティエですらこれだ。

先生、——おそらくは少女の師事する相手とはいかほどのものなのか。


吸血鬼であること/なったことで慢心していたと言わざるを得なかった。

だが、恐怖よりも先に感動があった。


人の身、武とはこれほどの域に届き得るのかと。



「シオン、また怖い目になってる。

 じゃ~、ここまでね!


 もっと意識して体を動かす事を意識してみて。

 ってところでばいばい、一応これ奥義の類だから怒られちゃう。


 ……内緒にしといてね」



少女は自然な足取りで背を向け、木立の向こうに消えていく。


ふ、と息を吐いて苦笑する。


怖い目になっている、か。

それはそうだろうと思う。


正直なところ思っていた。

本気で戦ってみたい、と。


だがなるほどそれは怖い考えなのだろう。


ふと地面に落ちたまま、二段になって立っている空き缶に気づく。

屈みこみ、拾い上げようとして、それに気づく。


二段ではなかった。

空き缶は三段のままだった。


2つの空き缶の間には。

ほとんどたいらと言えるほどまで縦に潰れた1つの空き缶が挟まっていた。













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