Cut.06 〝牙は渇きに抗えず〟
――吸血鬼は、人間であった頃の
最も顕著な例は呼吸。
吸血鬼は
酸素を取込み持続的に熱量を供給する
独自の圧縮・解凍系を有する吸血鬼は酸素を必要としない。
酸欠は起こらず、呼吸を要せず、窒息しない。
にもかかわらず、年若い吸血鬼は
必用も無く外気を取り込み、時に風に毒を盛られて失態を犯す。
水中に没して狼狽し多大な隙をさらす。
首を絞められてもがき、あがく。
例えば。
戦闘中に消化器官を動かす必要はない。
ほんのわずかな熱量の備蓄差が、生死をわける可能性がある。
消化のための胃酸を生産しておいて内臓の破損時に自分の臓腑を焼く愚を犯すのか。
消化行為によって消費する熱量は、その後で手に入る熱量と必ずしも等価ではない。
例えば。
渇きによって冷静さを失い、致命的な失敗を犯す。
吸血鬼の最大にして唯一の共通項、
過去に出会ったあらゆる吸血鬼が絶望し、恐れ慄いたその力を。
――その小娘はまるで恐れるでもなく飛び掛かって来た。
頬を裂いた脅しの後に続く
少なくとも行動不能に陥らせる気で放ったのは間違いない。
実際、左肩と右腿を裂かれ、傷の再生ができずに
だがそれだけだ。
シメオン・フェテレイネンは引き裂かれた左肩と右腿を一瞥する。
脳髄の奥は煮え滾るように熱く、自分を見つめる
なるほど、傷は再生しない。
まるで再生する気配はない。
薬指を折りたたんで爪を手のひらに押し付ける。
自分でつけたその傷は、戦闘態勢に入り活性化した肉体によって瞬く間に癒えた。
再生能力それ自体が停止しているわけではない。
それを試し、確認し、判断に要するまでおよそ2秒。
なんだ、くだらない。
煮え滾る脳はあっさりとそう結論した。
加速された新陳代謝が右手の爪を
――切り裂かれた太腿の傷口に爪を食い込ませ、無造作に肉を抉った。
傷口それ自体に再生不能の効果を与える血祷ならばなんということはない。
傷そのものを自分で上書きしてやればよい。
おそらくは再生を阻害する何らかの効果が発生しているのだろうから、その部位を丸ごと捨ててしまえば良いだけの話。
脚が完調すると同時に踏み込んだ。
鉤爪を振るう、やられたならばやり返さねばならない。
反射的にかざした右手に衝撃。
体格差のせいか
問題なし、空中で体勢を立て直し難なく着地する。
右手を一瞥する、小指と薬指が切り飛ばされていた。
特に驚きも動揺も無く、傷口を嚙み千切り更新、2秒で鉤爪まで含めて再構成。
口内にある自らの血と肉とわずかな骨を
勿体ないったらありゃしない、肉と血と骨を無駄にしてしまう。
視線を
――なんだその顔、なんだその
笑わせる、おまえも怪物、
だというのに
笑ってしまう。
笑ってしまったついでに左肩の肉を抉って投げ捨てた。
これでもう、損傷はない。
だが。
懐に入って痛打を与えたとしても、引き換えに受ける傷の再生にかかる
状況は圧倒的に最悪で、勝機はまるで見当たらない。
だが、引く気にも逃げる気にもならなかった。
だってとてもとても渇いているから。
とてもとてもとても飢えているから。
傷の再生を止められたままでは不利。
傷の更新を放棄するという手は選べない、それはあまりに不利過ぎる。
周囲を見る、一瞬だけ視線をずらして使えそうな
怪物たちの戦場と化した森林公園に、使えそうなものはまるで見当たらない。
木ぎれ程度では一瞬もアレを止めるには
手札が足りない。
このままではあいつ
――
数多の夜を超えて己の
それは人の心が辿り着けぬ場所、その
人間は手にする事ができないというその
――かちりと、まわる
ハ。
と息を吐いて大地を蹴る。
跳ねかかる獣のように、獣そのものとなって。
世界はゆっくりと引き延ばされてゆく。
走馬灯?
――だから、なんだと言うんだろう。
なんて
ほかならぬ自分さえ、自分を人だと思ったことはないじゃないか。
――だが、仮に、
そいつはよほど頭がおかしいか、ハナっから人として壊れているに違いない。
シメオン・フェテレイネンは、
恐らく世界でもっとも有名な処刑具の名だ。
最も慈悲深く、最も歴史上多くの命を奪ったとされるその処刑具の名は。
――
それは、
慈悲深き虐殺者の名に相応しく、ボワは血刃を振るった。
建て直しの余地など与えない。
一撃で首を刎ねればそれで終わり。
慈悲深き奪命。
飛び込んできた
防御?
無駄だ、その
バギィンとでも言うような激しい破砕音が響いた。
見開いた
「――は?」
傷が再生できぬのならば。
そもそも傷を受けなければいい。
実に単純で明快な解。
必用なのは、
眼前にかざされた左腕、肩を貫いた右腕、その双方の表面を。
鈍い銀白色に光る、菱形の構造物が覆いつくしている。
「――うろ、こ?」
呆然と
そう、それは鱗だ。
体内のカルシウムと鉄分、様々な金属をかき集めて作られた即席の
男は、哀れな
だが、違う。
悲しいほどにその想像は外れていた。
――さあ、
だがこの
こんなにもこんなにもこんなにも、渇き果て飢え果てているというのに。
そうだ、
こいつを切り刻みほどよい大きさに整える
呆気なく、血剣を握っていた男の右肩から先が千切れ跳んで地面に転がる。
そのまま左手が男の首筋を掴む。
ばき、と。
人間の顎関節の可動域を超えてばっくりと開いた
吸血鬼の
悲鳴は間に合わない。
トラバサミの罠のように開いて、そして閉じた鋭利な牙の列は、たった一度で
吸血鬼は
恐怖していた。
己は絶対の捕食者などではなかった。
自分もまた捕食される側でしかないのだと気づかされたのだ。
そうだ、あの日あの時だって。
自分は奪われる側だったんじゃないか。
鉤爪が肉を抉るのも構わず身をよじり、
吸血鬼の怪力は己の肉体の損壊と引き換えに死の抱擁からの脱出を成功させる。
安堵はない、逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ――!
幸いにも脚は無事だ、両方ともきっちりと機能を残している。
逃げられる、逃げられる逃げられる逃げられないわけが、
ばたんと、無様に横転して男は声にならない悲鳴を上げる。
ねじるように体をばたつかせて、自分の右脚を掴んだそれを振りほどこうとした。
愕然とする。
両腕はだらりと垂れ下がり、その瞳は虚空をぼんやりと眺めている。
なら、なにが。
男の足に巻き付いていたのは細く、だが引き絞られ束ねられた
理解には数秒を要した、ああ。
――これはあいつの尻尾だ。
両腕と同様、その尾もまた
男はもう、心のどこかが壊れていた、壊れていたから冷静だった。
引きちぎれない、刃も通らない、恐らく振りほどくこともかなわない。
なら、自分の足の方を切断しよう。
およそ正常とは思えぬ判断だが、今この瞬間に限っては何よりも正しい。
吸血鬼は
命を奪われることに比べたらなんということもない。
最も、その判断を実行することはついぞかなわなかったのだが。
視界が旋回した。
何が起こったか理解できぬまま全身を襲う衝撃。
一瞬の間をおいて再び視界が旋回する。
衝撃、旋回、衝撃、旋回、衝撃。
折れた頸椎と零れ落ちる
自分はあの尾に振り回され、あちらにこちらに叩きつけられているのだと。
何度目の旋回だったか。
何度目の衝撃だったか。
壊れた脳は世界がずっと回っていると告げている。
けれどよくよく考えれば衝撃はなかった。
世界が廻っているのは脳が壊れているから。
もう、
けれども、とうにその
よくよく考える脳が残されてはいなかったのです。
がふ、がふ、と。
**************************************
「まっずいなぁ……」
思わずそう呟いて、トゥーラ・フェテレイネンは慌てて手のひらで口を塞ぐ。
背にした彼女より年若い若木の向こう、20mほど先には絶賛お食事中の
いざというときに備えて様々な用意をしていた。
直接の戦闘力が高くない彼女がそれでもなお、〝
例えば
アガフィヤにも埋め込んでいる特殊なGPS
だから本日夕刻、緊急事態を告げる
――実のところ、2者の戦闘を彼女は最初からずっと見守っていたのだ。
割って入らなかった理由はいくつもある。
例えば襲撃してきた吸血鬼の
なぜかシオンが最初からブチ切れていたこと。
そのシオンのむき出しの激情がどんなものか興味があったこと、等々。
むろん、シオンを見捨てる気はなかった。
苦労して手に入れた協力者だから、というのも勿論ある。
だが正直に言えば3カ月も暮らせばそれなりに情も沸くのである。
だが、結果はこれだ。
戦闘で熱量を消費し過ぎて〝渇く〟までは想定内。
その結果として正気を失い暴走するのも、まあ想定内。
だが、たかだか
ましてやそれが一番扱いに困る〝
――というか、なんだあれ。
人間性を捨てて獣性を剥き出しにする〝
むしろ地域によっては多い方だと言ってもいいくらいだ。
だが自ら理性を手放すこの手の
少なくともトゥーラの認識ではそうだった。
トゥーラの見立てではシメオンはそういうタイプではないと思っていたのだが。
大外れ、どころではなかった。
そもそもが獣化どころの話ではない。
爪、鱗、牙、あげくに尻尾だと?
加えて異質なのはそれらが『順に』生成されたことだ。
自身に別の獣、別の存在を投影するという心理は理解できる。
広義で言うなら
だがそうならば変化は一気に全身に及ばなければならない。
百歩譲って基本の新陳代謝の応用とみるにしても鱗はない、せいぜい爪までだ。
一見して獣化に等しく見えるあの
とはいえ、である。
「——まずはこっちから片付けるか」
背にしていた若木から体を引きはがし、トゥーラは三歩進み出て前髪をかきあげる。
吸血鬼の中には銀に対するアレルギー反応を示す個体が少なくない。
時代を遡るほどその傾向は強くなる。
古参の側であるトゥーラもそうだ、自身で作成した薬品でほとんど無効化してこそいるが、その金属への感覚、忌避感は失われていない。
臭いがする、尋常でない銀の香りが。
「隠れてるつもりならお粗末様。
出てきたら?
そんなに銀の臭いを漂わせて
暗い森の中に呼びかける、果たして反応はあった。
ゆらりと歩み出たのは上下を黒い
だが、やたらと飾られたピアスも、ネックレスも銀。
あれは頭部と首筋を吸血鬼から守るための防具だ。
だらりと手にしているのは1mと半分ほどの鉄の棒。
鉄パイプではない、みっしりと中身の詰まった一本もの。
それを軽々と携えて体幹が
「やあ、夜の散歩?
そんなに警戒しないでよ」
ヘラヘラと笑いながら男が肩をすくめる。
軽薄な態度に反して
「——近づくな。
私は忙しい、おまえ〝
「——ハ。
なるほど見た目通りの年齢じゃないってわけ?
その名前を知ってる
〝
――吸血鬼絶滅組織、吸血鬼の減少に伴い鳴りを潜めて。
そろそろ消えてなくなった頃合いかと思えばまだ居たとは驚きを隠せない。
「……面倒だ、一言で答えろ。
おまえの狙いはどっちだ?」
「そういう、あんたの身内はどっちよ?」
沈黙は一瞬、互いに状況は把握している。
駆け引きはすぐに終わった。
「喰ってる方よ」「喰われてる方さ」
同時にそう、口にする。
安堵の行を吐く、最悪の展開はこれで免れる。
男の方も同感だったのか、わずかに緊張を解いて
「最近巷で殺しまわってる馬鹿を追ってたんだが。
突然、吸血鬼同士で殺しあい、挙句にあんたみたいなのもいるし。
なんなの?
てかあれ、止めれんの?」
男は笑いながらそう問うた。
その瞳は笑っていない、むしろ氷のように冷めている。
必要とあれば殺すけど?男の瞳は雄弁にそう言っていた。
「止めるさ。
子の不始末は親が尻拭いをしてやるものだ」
「へぇ、あんたの子か。
なら話は早いな
「親が子に強制命令権を持つというのは俗説だ。成り立ての吸血鬼の脳神経系は常人と大差ないから洗脳なり暗示なりで行動を縛ることはできるしそういう仕込みをしておけば半ば永続的に子の行動を支配できるというだけの話で私はそういうタチの悪い仕込みは――」
思わず長々と説明しそうになってしまい、口を閉じる。
悪癖だという自覚はあった。
男は目を丸くしながらトゥーラを見て、へぇ。とつぶやき。
「じゃあどうやって止めんのよ?
ありゃ見た感じだいぶキマってんぜ?」
言われるまでもない。
成り立てでろくな
あんな木っ端の吸血鬼を踊り食いしたところで〝渇き〟を止めるにはまるで足りまい。
そろそろお食事も終わるだろう、猶予はない。
「——万が一の時には始末してくれていい。
そんな事にはしないつもりだが」
そう告げてトゥーラは白衣のポケットから道具を取り出す。
白衣を半分脱ぎ棄てて上着の左袖をまくる。
露出した左腕の上腕に手早くゴムバンドを巻いて血流を止め、ケースから抜き放った注射器を無造作に左手下腕に突き刺し薬液を注ぎ込んだ。
「あ? おいあんた」
「生憎、
まともにやると親子喧嘩に負けそうだから、まあただの仕込みだよ」
注射器を投げ捨てる、ゴムバンドはほどかずに袖を下ろして白衣を羽織りなおす。
これで左腕は使えないが、まあ片腕でもなんとかなるだろう。
ならなければここで終わりだ、何もかも。
完全に血流を阻害することはできない、時間制限は約二分。
躊躇なく、駆け出した。
「——シメオン!!」
叫ぶ、彼の名を呼ぶ。
反応はない、
だが彼女は彼の人としての名を知らない、聞こうともしなかった。
瞬く間に20mあった相対距離は3mを割る。
ようやくシメオンが緩慢な動作で振り返るところ。
感覚系は特に際立って強化されているわけでもないのか。
ずっと力を込めていた右腕を振りかぶる。
無造作に振りぬく、
仰け反るその姿を見て笑いが出る。
全力でやって仰け反る程度か、恐ろしい。
鱗の1枚や2枚は剥がれたかも知れないが、ろくにダメージは通っていまい。
シメオンが手を伸ばす、反動で砕けた右腕をつかまれて激痛が走るが無視する。
「そっちじゃない!
くれてやるのはこっち!!」
足を止める、地面を踏みしめ大地を砕きながら左手を突き出す。
開かれた
喉奥を抉られて苦鳴を漏らすようなかわいげすらない。
ギロチンのように牙が落ちて来て、肩口から左腕が食い千切られる。
――素直で結構。
内心で笑いながらトゥーラはシメオンの胴を蹴り無理やり距離を取る。
「おいアンタ!?」
背後で男が怒鳴るのが聞こえる。
うるさい、こいつを刺激するな。と口内だけで舌打ちする。
跳ねるように後退。
後ろを確認する、男は近寄ってはいなかった。
最悪は免れたか、と安堵する。
「さあ、どうだ?」
一瞬の間があった、これで足りないとなればいよいよ覚悟を決めねばならないが。
幸い足りたようだった。
ぐらり、と
「……何したんだ」
「そこらの木っ端吸血鬼とはわけが違う。
私の左腕だぞ、栄養満点さ」
腐っても数百年を生きる〝
左腕が内包する漆黒器官の抱える
それを丸ごとくれてやったのだ。
これでも食い足りないと言われては立つ瀬がない。
食いしん坊めとそれこそ殴り倒してやるしかなくなるところだった。
腹が満ちればしめたもの。
あらかじめ左腕に仕込んでおいた特性の鎮静剤が効いて来るという寸法だ。
「——手間のかかる子だよ」
思わず苦笑する、ゴムバンドはもう少し上の方がよかったか。
こうなるのを
思ったよりがっつりと持っていかれた。
「毒、……か?」
「毒なんぞ効くものか。
鎮静剤だよ、腹が満ちて緊張が解ければお
安堵交じりの息を吐いて、だがトゥーラは油断していない。
一段落はついたが、まだ
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