第十一話 千影、試される④

 千影はまだ月が照る夜道をひとり、風を切るように帰った。

帰り道の途中、遠くの方ではどこぞのヤンキーたちがバイクをふかして粋がる音が響いていたが、千影の耳には全く入ってこなかった。千影の頭の中には先ほどの湊の厳しい言葉の数々が轟々と渦を巻いていた。

どこをどうやって帰ってきたのやら。

気がつけば千影は自室の真ん中に立っていた。体は未だに湿って泥臭い。体の表面は氷のように冷たくなっているのに、腹の中は煮えたぎる真っ赤なマグマのように熱い。


「くそっ!」


千影は足元に転がっていた作りかけの焙烙火矢を蹴飛ばした。千影は悔しくて悔しくてたまらなかった。

千影が本格的に忍びの修行を始めたのはほんの数日前。こんな短期集中で忍術を完璧に習得することなど無茶であることはさすがの千影でも分かっていた。

だが、千影は毎日一生懸命だった。朝から晩までみっちり修行した。自分の時間なんて一分たりともなかった。今まで経験がないほど努力をしたつもりだった。それが一切認められず、貶され蔑まれた。それだけではない。自分にずっと付きっきりで親身になって忍術を教えてくれた蛍までも責め立てられたのだ。


(この出来損ないの俺なんかに関わっちまったせいで……)


湊の言葉はまるで千影の全てを否定するかのようであった。千影は怒りで両手の拳を握りしめた。拳からは血が滴った。


「ぜってぇアイツを見返してやる!」


千影は全身をわなわな震わせた。


「銀狼潜入の忍務を成功させて、目に物見せてやる!!!」


湿気った忍び装束を身にまとったまま、千影は固く決心した。


 けっきょく、千影は一睡もしなかった。できなかったのだ。

湊の言葉があまりにも癪に障ったので、何としてでも見返してやろうと何度も心で決意した。

閉じたカーテンの隙間から一筋の朝日が薄暗い部屋に差し込んでいた。この光景を見たとき、千影は自分の体から泥の臭いが混じった異臭を放っているのに気がついた。


(……とりあえず、着替えよう)


そう思って千影が押入れの戸を開けようとした時、中からガコンと大きな音がした。千影は戸から手を離したのと同時に、天袋の戸がスーッと開いた。


「蛍!」


息を荒く吐く蛍が顔を出した。目の下にはくっきりとクマができている。千影は昨日の蛍に対する罪悪感が蘇った。


「蛍、ごめんな。俺のせいで……その、あれから湊さんにずいぶん怒られたんだろう?」


「え?」


蛍は目を大きくしてキョトンとしていたが、千影の目の前に降り立つと罰が悪そうに頭を掻いた。


「あ、あぁ……まぁ、な。お前は気にするな」


千影は蛍の手を両手で握りしめた。突然握りしめられた蛍は目を丸くした。


「蛍!俺さ、やるよ!」


「え?何を?」


「銀狼潜入の忍務だよ!ぜったい成功させてみせるから!蛍は俺のこと、信じてくれるだろう?」


この千影の突然の宣言に蛍はしばらく呆気にとられていたが、途端に目を細めて千影の手を握り返した。


「千影、お前なら大丈夫だ。だって、俺が忍術を教えたんだからな。いつだって俺はお前のことを信じているよ」


千影と蛍は熱く握手を交わしたのだった。夏休み最後の日のことである。


「ところで……蛍、お前、どうしてうちに来たんだ?あ、やっぱり、昨日のことで……か?」


「いや、違う。今日は最後の忍術をお前に教えに来た」


「最後の?」


「あぁ、そうだ。明日から千影の忍務が本格始動するわけだろう?だから、それに向けて最後の支度をするんだ」


蛍はそういうと、腰の巾着から何やらゴロゴロ取り出した。千影はそれを手に取ると大きく首を傾げた。


「ブリーチ?」


それは染髪剤であった。


「今回、千影に与えられた忍務は銀狼へ潜入してその内情を探り、かつ、リーダーに近寄り、艮宮山の魔王退治へ賛同、参戦してもらうように説得するというものだが……この潜入では“七方出しちほうでの術”を使う」


「七方出の術?」


「あぁ、これは変装術のことだ。昔の忍者は、虚無僧、出家、山伏、商人、放下師、猿楽、常の形の七つの変装を基礎としていた。常の形とは普段の格好のことで、その時々に合わせて変装を使い分け、白昼堂々と姿を紛らわせて怪しまれることなく敵陣内へ近づいたり、情報収集をしたりしたのだ。

現在では、その七方出の内容も多種多様になったが……今回、千影が用いる七方出は“銀狼のヤンキー”だ」


そういうと、蛍は千影に写真を何枚か千影に手渡した。その写真には、どれもひと昔もふた昔も前に流行ったような色とりどりのもっさりリーゼント頭のヤンキーたちが写っていた。


「え、も、もしかして、これ……」


「あぁ。この中から好きな髪型を選べ。俺がお前の頭を写真とまったく同じようにセットしてやるから」


蛍は懐からハサミとバリカンを取り出して準備を始めた。


「い、いやいやいや!俺、ぜったい嫌だからな!こんな頭ぜったいしないからな!」


千影は頭を両手で押さえながら後ずさりした。


「何言ってる。これからお前はこの写真に写っているヤンキーたちの中に潜入するんだぞ。そのためにはまず、銀狼のヤンキーたちと同じ格好をしなければならない。そうしないとヤンキーたちに警戒されたり怪しまれたりする。自分と同じ見た目だと、自然と警戒心が緩むものだ。

まず、銀狼のヤンキーと同じ見た目に扮装したお前は、銀狼の上位格のヤンキーに近づき、五情五欲の理を使い、相手に取り入って心に隙をつくらせる。そして、その隙をついて自分も銀狼の仲間に入れて欲しいと強く願い出るんだ。そして、第一関門である潜入はひとまず成功する……という忍計だ。だから、頭をリーゼントにすることは必須条件なんだよ」


突然のとんでもないイメチェン計画を提示された千影は、パニックで口をパクパクさせていた。

せっかく痩せて筋肉もほどよくつき、見た目もなかなかのものになったというのに、ここにきて頭を田舎くさくて時代遅れのもっさりリーゼントにしなければならないとは!

千影はこの計画を断固拒否した。


「まったくお前は。もし、そのパッとしない根暗オタクの常の形のまま銀狼へ入隊志願でもしたら、まったく相手にされないぞ。それどころか、返り討ちにあって忍務は失敗。お前は忍び破れとして社会的に抹殺されるぞ。

そうならないためにも、とりあえず、ここは素直に俺の言う通りにしておけ。俺はお前のために言ってるんだぞ」


蛍はハサミをカシャカシャ開いたり閉じたりしながら言った。


「いくら俺のためだっていっても……蛍さ、今、俺のことパッとしない根暗オタクってさりげなく小馬鹿にしていたよね。今の俺の冴えない見た目はともかく、リーゼントだけは死んでもごめんだよ!

要はさ、ヤンキーたちに舐められない格好をすればいいんだろ?だったらさ、もうちょっと他にも方法はあるんじゃないか?頼むよ蛍!もっさりリーゼントだけは勘弁してくれよ……」


「うーん」と唸りながら、蛍は腕を組みながら千影のつま先から頭のてっぺんまで何度も見ていた。


「もっさりリーゼントは銀狼に早く溶け込むための必須ポイントだったんだけどなぁ。まぁ、いい。お前がそこまで嫌がるのなら俺は強要しない。だけど、もしも何かあったら、とりあえず逃げるんだぞ」


千影のもっさりリーゼント頭計画は白紙に戻されたが、今のパッとしない見た目のままでいくわけにはいかないので、とりあえず、千影は髪を染めることにした。

蛍は千影の肩にビニール袋を掛けると、慣れた手つきで千影の髪を染め始めた。最初はどんな髪色にされるのか不安に思っていた千影だったが、昨晩は一睡もしていないうえ今までの蓄積された疲労も相まって、千影はあっとう間に深い眠りに落ちた。

 髪を染め始めてからどのくらい経ったのだろう。千影は頭がかゆくて目を覚ました。寝すぎて重たい頭を起こすと、寝ぼけ半分に千影は部屋を見渡した。

足元には中身の火薬がこぼれて散乱した作りかけの焙烙火矢が転がっている。

そして、ベッドには……「蛍?」。そこには、覆面姿のままの蛍がベッドに腰をかけたままぐっすり眠っていた。


(蛍が眠りこけている姿は初めて見たな……)


千影はそっと立ち上がると蛍に近づいた。

蛍はまだ起きない。腕を組んだまま気持ちよさそうに寝息を立てている。

千影は蛍の顔を覗き込んだ。

そして、ふと、疑問が思い浮かんだ。


(そういえば、俺、まだ蛍の素性を知らない……)


思えば、下忍認定日のあのとき蛍だけ素性を明かさなかった。正確には、明かす前に千影が気を失ってしまったのだが。

最初の出会いから蛍とはずっと一緒に長い時間を過ごしてきたのに、不思議と蛍の素性が気になったことがなかった。

だが、今、目の前でこんなにも無防備な姿を目の当たりにすると、千影は急に蛍の素性が気になりはじめた。


(どんな顔してるのかな……)


こんなことをするのはいけないと思いながらも、千影は習ったばかりの息の音を殺す呼吸法を活用しながらそっと蛍の覆面に手を伸ばした。そして、指先が蛍の鼻のてっぺんあたりに触れるか触れないかのところまで近づけた時、蛍の大きな両目がカッと開いた。それを見た千影も目を大きく見開いて固まった。

蛍は目を皿のようにして千影の顔を見た途端、絶叫に近い声をあげた。千影もこれに驚き叫んだ。


「あぁ!ち、千影……!!!」


蛍は珍しく取り乱して千影の顔を指差している。

千影が蛍の覆面をこっそり取って素顔を見てやろうとしたことがバレたのだろうか。

千影はとっさに頭を下げて謝ろうとした。だが、先に謝ったのは蛍の方であった。


「すまない!千影!」


「え?何が?」


千影は下げようとした頭を上げて蛍の顔を見た。


「どうやら俺は寝過ごしてしまったみたいだ……」


「は?」


千影はしばらく蛍が何に対して謝っているのか理解できなかったが、ふと、頭の強烈なかゆみと鼻をつく漂白剤の臭いを嗅いだとたん、すべてを思い出した。

千影は「あ゛ぁぁぁー!」と声を出しながら、慌てて壁に立てかけてある鏡の前まで走っていった。

そして、絶叫した。


「何じゃこりゃぁぁぁぁぁぁ!」


千影の髪の毛はすっかり脱色されて白髪になっていた。


「うそだろ……こんな爺さんみたいな頭……」


千影は鏡に映る薬剤が乾いてベタベタになった白髪頭を震えながら見入っていた。


「蛍……どうすんだよこれ〜!染め直したら元に戻るかなぁ……」


「千影、もう時間がないぞ!仕方がない、そのまま始業式に出るしかないな」


「は?」


千影は時計を見た。確か、髪を染め始めたのは朝の八時くらいだった。だが、今は朝の七時半……。どうやら、丸一日寝ていたようだった。


「すぐさまその頭の漂白剤を落として学校に行け!」


蛍はそう言いながら、鏡の前で呆然と立ち尽くす千影の左耳に何やら付け始めた。


「な、何?」


「これはピアスだ。だが安心しろ、これは穴を開けなくてもいいタイプのものだから。ピアスをじゃらじゃら下げるのは銀狼のヤンキーたちのトレンドらしいからな」


蛍はそう言うと、まだ上の空でいる千影の両肩を掴んだ。


「いよいよ今日から忍務開始だ。今日、お前は銀狼メンバーに接触する。いいか千影、これだけは守ってくれ。決して余計ないざこざを起こすな。もしも、入隊交渉がこじれてメンバーと一触即発の状態になった時には迷わず逃げるんだ。交渉で失敗したとしても、その後にまた違う案を練ればいい。だから、余計な騒ぎだけは絶対に起こすなよ!いいな?」


蛍はそういうと、自分もこれから別な用事があると言ってさっさと姿を消してしまった。

千影は片耳にピアスをじゃらじゃら付けたべったり白髪頭の自分を鏡越しにぼんやり見ていた。


(何でこうなったったんだけ……?)


こんなはずじゃなかったという感じが全身からモヤモヤ出ていたが、ハッと我に返った千影は、首を横に振り目元に力を入れると、もう一度鏡の自分を睨みつけた。


「千影!お前はやればできる男だ!やってやろうじゃないか!俺はもうプロの忍びなんだから!」

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