第十一話 千影、試される②
「これから、千影の会得した忍術がどれくらいのレベルであるのかテストするための演習を行う」
それは、夏休み最後の日から二日前の夜中のこと。
千影がいつも通り、蛍からの実技を受けようと夜中の二時に村正神社までやってくると、そこには蛍の他に伊賀組全員が揃って待ち構えていた。
神社の鳥居の前に横一列に並ぶ、闇夜に紛れる忍び装束に身を包んだ四人の人間の姿は、何だか非現実的で威圧的であった。
「テ、テスト?蛍!俺、そんなの聞いてないよ!」
小走りで駆け寄ると、千影は怯えるように蛍と湊の顔を交互に見ながら訊いた。
「そりゃそうだ。これは抜き打ちテストだからな」
湊はあっさり答えた。蛍は何も言わずに心配そうな目で千影を見ていた。
「そ、そんなぁ……」
「千影、お前はここから伊賀組のアジトまでの道はもう知っているな?」
千影は自信なさそうに小さく頷いた。すると、湊は千影に白い皿を一枚手渡した。湊の胸の真ん中にも同じ皿がくくりつけられてある。それは湊以外にも全員の胸に付けられていた。
「お前もこれを胸に付けろ。では、演習の内容を教える。お前には、今からここ村正神社の入り口から伊賀組のアジトまで一人で向かってもらう。その際、俺たちは様々なところに隠れて待機して、お前の行く手を阻み、お前の皿を割ろうと襲う。俺たちの襲撃を、忍術を使いながらかわし、逃れながら自分の胸の皿も俺たちの皿も一切割ることなくアジトまで辿りつくことができれば合格だ」
「えぇ!い、いきなりそんな実践だなんて!」
千影の小皿を持つ両手はガタガタ震えていた。だが、湊は血の通っていないような口調で淡々と続けた。
「これはすでに蛍から説明を受けたことだと思うが、もう一度言っておく。万が一、このテストで不合格になった場合、お前は“忍び破れ”とみなし、下忍の認定は取り消される。そして、忍びの極秘事項を知ってしまったお前は、生きてはいけないほどの恥をかかされ社会的に抹殺される」
「な、なにそれ!そんなの聞いてないぞ!」
「じゃあ、今言ったことをよく覚えておけ」
間髪容れない湊の返答に千影は思わず言葉を飲み込んだ。
「では、これから千影の最終テストを始めることとする。これから俺たちは千影一人だけをここに残して、一斉に定位置に身を隠す。蛍が乾宮山の山頂から花火を一発打ち上げたら、それがスタートの合図だ。花火が打ち上がったら千影はすぐにアジトを目指せ。
もう一度言うが、自分の皿も他のメンバーの皿も一切割ることなくアジトにたどり着くことができればお前は合格だ。さぁ、頑張れよ」
湊はそういうと、ハルやつばめに目配せをして、三人はあっという間に姿を消した。千影は皿を付けるのにまごついていたので、蛍は手助けをしてやった。
「いいか千影、とにかく冷静にその場の状況を判断して、忍術や忍器を駆使して逃げるんだ。決してパニックになって相手に危害を与えたり、逃げることを諦めたりするなよ。大丈夫。お前なら出来るよ」
蛍は皿を胸に括り付けるためのタスキを背中のところで縛りながら千影の耳元で囁くように言った。
「うん……俺、頑張ってみるよ」
千影は今にも泣きそうな顔で後ろを振り返ると、もうそこに蛍の姿はなかった。
月光ささやかな夜。空気は日中の暑さの残りを帯びて生ぬるい。だが、その中には確実に秋の気配がする。時おり吹く風にざわめく黒い草原。その真ん中には忍び装束に身を包んだ人影が及び腰で立っている。
今夜は、忍び装束の薄墨色が闇によく溶け込むはずなのに、千影はどの風景よりも不自然に浮き出ていた。
ドンと一発、花火が夜空に上がった。
それは空砲とかではなく、大きな打ち上げ花火であった。
大輪の花が濃紺の空で花開いたとたん、千影の背後からものすごく大きなエネルギーが動くのを感じた。背後を振り向くと、花火の明かりで照らされた草原から、三人の忍びの黒い影が一斉に飛び出した。千影は慌てて正面の村正神社の境内へと逃げ込んだ。
境内は苔とカビの湿気った空気がそろりそろりと不気味に漂う。まるで肝試しでもしているような気がした。
その時、拝殿へと続く道の両脇にずらりと並ぶ灯籠に次々と火が灯った。
千影は飛び上がった。
拝殿の手前に誰かが立ってこっちを見ている。背が高くて体格がしっかりした影。湊だ。
湊は正面切って千影に向かって歩いてくる。その足取りは徐々にスピードを上げていく。
千影との距離が五メートルを切ったくらいのところで湊は背中から忍者刀を引き抜いた。
「う、うそだろ……」
忍者刀を振りかざして全速力で湊が走ってくる。その気迫はまるで千影の命を奪ってやろうとでもするかのようであった。
千影は金縛りにあったようにその場に立ち尽くしていたが、我に帰ると、腰にぶら下げていた巾着の中から“
この煙玉の使い方は蛍と何度も練習した。
携帯用の火種でこの鳥の子の導火線に火をつけて地面に叩きつけ爆発音とともに煙幕を作り、爆音で相手がひるんだ隙に煙に身を隠してその場から逃げるというものである。
だが、この時の千影は完全に冷静さを失っていた。
手が震えて力が入らず、慌てて懐から取り出した火種を地面に落としてしまった。火種は儚く消えた。
湊はもう目の前まで迫ってきている。
千影は火の付いていないただの玉と化した鳥の子を湊めがけて投げつけると、喚き声を上げながら境内際の雑木林の中へと逃げていった。
「ったく、あのバカ……」
火の付いていない鳥の子を片手で受け取った湊は、首を横に振ってため息をついた。
林の中へ逃げ込んだ千影は、しばらく混乱してアジトへ向かうことも頭からすっかり飛んでいた。
「あの人、ぜってぇ、俺を殺そうとしてた……」
手の震えが治まらない。膝も笑い続けている。千影は今すぐにでも忍び装束を脱ぎ捨てて自分の部屋へ逃げ帰りたかった。
林の中は木々と草が時々吹く風でカサカサ音を立てる。キリギリスとコオロギが同時に鳴いたり交互に鳴いたりしている。
千影は大きな杉の木に突き当たると、幹に手をついて立ち止まった。
「慌てるな……落ち着くんだ。俺は連日連夜、忍術の修行に励んできたんだ。もう昔のようなヘタレな俺じゃない。大丈夫、落ち着いてやれば大丈夫だ」
ひとりでもごもご呟くように自分に言い聞かせていると、突如、頭上の木の枝で寝ているはずの鳥たちが一斉に羽音を立てて飛び立った。
「ひっ!な、何だよ!」
千影が頭を抱えてしゃがみこんだその時、目の前にひとり、忍びが降り立った。
「やっぱりテメェは忍び破れ、伊賀組の恥なんだよ!」
その声はつばめだった。
「えぇ!つばきた……いや、つばめちゃん、そんな言い方、ひどいよ……」
「甘えたようなキモい声を出すな!二度とその忍び装束を着ることがないようにしてやる!覚悟しろ!」
つばめは鎖鎌をぶんぶん振り回して襲ってきた。千影はとっさに幹の裏側へ身を隠したが、鎌がざくりと幹に突き刺さる音を聞くと、顔を青くしてその場から逃げ去ろうと走り出した。
「ど、どうしよう!どうしよう!どうしよう!」
千影は逃げながら腰回りにぶら下げている忍器を手で探った。そして竹筒から撒菱を取り出したが、慌てた千影は誤って自分の目の前に撒いてしまったものだから、前にも後ろにも行けず、その場で立ち往生してしまった。
その間につばめは背後から迫り寄る。
鎌が千影の耳横をかすめた。
千影は脇へ避けたが、そこは崖。足を滑らせて下へ転がり落ちていった。
崖下へ落ちた千影は自分がどうなったのか、生きているのか死んでいるのか定かではなかったが、回る視界が落ち着くと、月の弱い光が乱反射する水面が見えた。
そこはいつも千影が蛍と一緒に水術を訓練していた、アジトのすぐ裏にある大沼であった。
「ら、ラッキー……ここさえ越えればアジトへ辿り着けるぞ……」
千影は全身の痛みをこらえながら立ち上がると、胸元の皿を手で触った。
(割れては……いないな。よし)
確認し終わり皿から手を離した時、千影の頬に何かがかすった。
(虫か?いや、虫じゃないな。冷たくて、重くて鋭い何か……)
身の毛がよだった。
千影は胸の皿を両手で覆って守りながら、恐る恐る後ろを振り返った。
後ろを見たちょうどその時、氷のように冷たく鋭い光を放った苦無を持った小柄の忍者が襲いかかってくるところであった。
「お前みたいなのが村雨丸の使い手など冗談じゃない。さっさとその皿を割って忍びを辞めろ」
その冷ややかな声の主はハルであった。
ハルは千影の胸の皿めがけて苦無を振り下ろしてきた。
千影は叫び声を上げながらすんでのところで避けたが、避ける際に、苦無が手の甲にかすって電気が走ったような痛みを感じ、千影はまたパニックに陥った。
(どうしてつばめちゃんもハルも俺のことをこんなに嫌っているんだ?俺だって、できることならさっさと忍びなんて辞めちまいたいよ!)
ハルがもう一度苦無を振り上げたので、千影はポケットに忍ばせていた蛇や蜘蛛が入った袋を、袋ごとハルの顔めがけてぶん投げた。
そして、もつれる足で必死に大沼まで走っていくと、そのままドブンと飛び込んだ。
(もう嫌だ!何だよこのテスト!テストじゃなくてただの集団リンチじゃねぇか!)
千影は半べそをかきながら、ばちゃばちゃ激しく水しぶきを上げて泳いでいると、突然、目の前に、頭の上に小枝や葉っぱをのせた忍者が現れた。
「蛍!」
千影は藁にもすがる思いで蛍に抱きついた。
「お、おい!千影!俺も今は敵役だぞ!」
手甲鉤をつけた蛍は、爪先が千影に当たらないように注意しながら何とか千影を引きはがそうとするが、千影はものすごい力で抱きついて離れない。
「もうこんなの嫌だよぉ!蛍!助けてくれよぉ!」
千影があまりにも泣き乱れるので、蛍は一度千影を岸に引き上げた。
「これが本番だったら、お前は殺されてるぞ!」
蛍は手甲鉤を脱ぐと、千影の冷たく濡れた頬を軽く引っ叩いた。
千影は青紫色の唇をガタガタ震わせて蛍にしがみついたまま何も言わなかった。蛍はため息をつくと、両手で千影の頬を挟み自分の顔の方に向けた。
「お前はすぐに心を乱す癖がある。これは忍びにとって一番致命的だ。お前はもう身をもって知ったと思うが……敵に追われたり見つかったりしないように物陰に潜む時など、忍びにはかなりの精神力が必要とされる。計画通りに事が運ばないことなんてしょっちゅうある。そのような予期せぬ事態が突然起こったとしても、忍びは決して慌てることなく常に冷静沈着であらねばならない。だが、常日頃からそのように心掛けていたとしても、やはり、緊急事態に陥るとパニックになるものだ。
そういう時に、精神を安定集中させる護心術がある」
「護心術?」
千影の空で怯えた目は、やっと蛍の目をとらえた。
「あぁ、心を護る術と書いて護心術だ。護心術には様々な方法があるが、その中でも一番用いられているものが“
この術は両手で印を結びながら呪文を唱える」
そういうと、蛍は千影の目の前で、両手でゆっくり印を結びながら呪文を唱えた。
「
蛍は何度も繰り返して千影に見せた。
それを見ていた千影は心のざわめきが少しずつ鎮まっていく感じがした。
千影も見よう見まねで蛍の真似をしながら呪文をかすれた弱々しい声で唱えた。
それは不思議な感覚であった。
今の今まで死ぬほど恐ろしい体験をしてきたはずなのに、恐怖でカチコチに凍った心が溶けて温まるような感じがした。
「忍びの祖先は覡であることは前にも説明した通りだが、太古から、忍びにとって呪文は陰陽神と心を通じ合わせる手段だったんだ。
呪文を唱えると、心身は己の垣根を越えて宇宙と融合する。その領域に達すると、それまで抱いていた迷い、パニックに陥っていた状況など塵のようにちっぽけなものに思えてくる。その時、人は泰然自若となり、物事を冷静に俯瞰思索することができ、最善の答えや判断を見出すことができる。
呪文を唱えることはただの自己暗示だと思うかもしれないが、目まぐるしく移り変わる陰陽の気の流れの中で、常にあらゆる事柄に気を張り臨機応変に対応しなければならない忍びにとって、この呪文の一語一語に秘められた言霊の力は、あらゆる雑念を払拭して最善を目指すための道しるべであり頼みの綱なんだ。
ただし、この境地に至るためには相当な精神修行が必要だ。常日頃からこの呪文を唱え、心を集中させ、無我の境地に至る鍛錬を重ねること。とりあえず、今のお前は、呪文と印の結び方を確実に会得して、とっさの時にすぐさま唱えることができるようにしておくこと」
千影は蛍の話の半分も理解していなかったが、とりあえず、この呪文と印を結ぶという行為は、心を落ち着かせることができるということがわかり、あと、ちょっとだけかっこいいと思ったのだった。
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