第九話 千影、下忍になる

 季節が徐々に移りゆく。シトシト降るあじさい色の雨が上がると、いよいよ夏本番。山々の緑はよりいっそう青々と茂り、色の濃い青空には、天を貫くほどの入道雲がそびえ立つ。田んぼでは、青々とした稲と稲の間に太陽の筋がギラギラと走る。

その季節の移ろいの中、千影は一日たりとも欠かさず課せられたスケジュールをこなした。蛍も毎日千影のトレーニングに付き合った。ランニングも二十キロの距離を一時間で完走できるようになり、腹筋背筋も五百回から三千回まで増えた。

季節とともに千影も変化した。あのMサイズの忍び装束も、今では余裕で入る。


そして、今日、ついに運命の日を迎える。八月十六日を迎えた午前零時ちょうど。千影は八月のカレンダーに星印を付けてあるところを指差した。


「ついに来た。下忍の認定日。つばきたんのお宝写真集を手にすることができるかどうか、今日で決まるんだ……」


千影は極度の緊張でいてもたってもいられず、押し入れまで飛んでいくと、中からサイリウムを八本取り出し、ラジカセで曲をかけて乱舞した。


「おい、千影。お前何してるんだ」


急に曲が止まると、蛍の声がした。


「精神統一だよ!今日はお宝が手に入るかどうか……あ、いや、無事に合格して下忍になれるかどうかが決まる日だ。いてもたってもいられないんだよ」


「その気持ちはわかるが、もうそろそろ着替えろ。今日はお前の認定日だから、みんな早めにアジトに集まっているんだ」


「え、そうなの?わかった。すぐに着替えるよ!」


千影はいそいそと服を脱ぐと、手慣れた様子で忍び装束を身につけた。

 今日は新月。薄墨色の忍び装束が完全に闇へとけ込む。

日中の熱を抱いた風が田んぼのうえをかすめて真っ黒な山の影へと吹き上がる。木々がざわめく。

千影と蛍は、この風を追い風にしてアジトへ飛んでいった。


「奮励努力」


アジトのドアの前まで来ると、蛍はかがんでドアを四回ノックして合い言葉を言った。


「無為自然」


冷気のような声がドアの向こう側で返すと、中から覆面姿のハルが顔を出した。


「千影を連れて来た。みんなは揃っているか?」


「うん。もうみんな到着しているよ」


蛍は背後に立つ千影を見上げた。


「千影、大丈夫だ。お前は十分頑張ったんだから」


緊張してガチガチに固まる千影の顔を見て、蛍は少し目を細めると、千影を先に中へ入れた。


「失礼します!」


千影は小さなにじり口をいとも簡単にくぐって中へ入った。中にはすでに三人の忍びが揃っていた。

千影の姿を見た途端、ハルのいつもの冷たく沈んだ黒い瞳は珍しく輝き、ツバメは漫画を両手で持ったまま、目をパチクリさせた。だが、湊は太い腕を固く組んだまま、覆面の隙間からわずかに覗く、鋭く光る目つきで千影の顔を見据えていた。


「お待たせしました」


蛍はいつものように戸口から首を出して外を確認して戸を閉めた後、千影の少し後ろに立膝をついて言った。


「ん。まぁ、座れ」


湊は千影から一度も目を離さないまま、手を差し出した。


(いったい、これから何が始まるんだろう……)


千影も湊の目を瞬きせずにじっと見たまま、ロボットのようにその場に座った。空気がピンと張り詰めている。

皆、物音ひとつ立てない。

息をする音も服が擦れる音も聞こえない。シーンという静寂だけが耳の奥に響いてくる。

千影は耐えられず、唾をごくりと飲んだ。すると、湊の覆面の口の辺りがもぞっと動いた。

千影は身震いした。


「藤林千影よ」


とつぜん自分の名前が呼ばれたので、千影は少し間を作った後に返事をした。湊は固く組んだ腕をスッと解くと、両手をあぐらをかいた両膝にのしっと置いた。


「合格だ」


「へ?」


千影は何のことだかさっぱり理解できない千影は、眉間にしわを寄せて首を傾げた。


「よかったな、千影。今日からお前は晴れて下忍だ」


背後から蛍が嬉しそうに言った。


「えぇ?試験とか……面接とかないの?」


千影は蛍と湊の顔を交互に見た。


「んなもんは、とっくの昔から始まっていたさ」


湊はガハハハと笑いながら言った。千影の合格を聞いたハルは、何やら不満そうにそっぽを向き、つばめは、目の前にいる千影と呼ばれる男が、この間会ったあの丸々と太った男である、ということが未だに信じられないというふうに首を傾げていた。

千影もいまいち自分が合格したという実感が湧かなかったが、とりあえず、蛍の嬉しそうな顔を見て、合格したのは事実のようだったのでほっと安堵した。

湊がとつぜん立ち上がった。そして、緩んでいた目元をキリッと引き締めた。


「いいか、お前ら!今日から藤林千影は俺たち伊賀組の仲間となった。

では早速、各々の“表の姿”を千影に明らかにすることとしよう。なお、千影よ、ここで明かした皆の正体は絶対に他言無用である。もしも、ここにいる伊賀組以外の他の誰かにバラすことがあったのなら、お前を即刻処分する」


そう言うと、湊はとつぜんその場で大股を開くと、片目を手で覆い、「うぉぉぉぉ……」と唸り始めた。そのあまりにも迫真の姿に、千影は思わず身を乗り出して見入った。

だが、湊はポーズを決めて唸り続けるだけで、どこも何も変化が見られない。

千影はだんだん嫌な予感がしてきた。


(まさか……これが、中二病患者のみが持つと噂される特殊能力、“邪気眼じゃきがん”なのか!?)


そう思った途端に気まずくなった千影は、顔を引きつらせて小さく縮こまっていた。

すると、その隣で千影の様子を見ていた蛍はため息をついた。

そして、突然、千影の両目を手で覆った。


「しょうがない。このままだと、お前には何も見えないだろうから、少しだけ、開眼してやるよ」


これまた中二病感満載なセリフを吐いた蛍に、千影は恥ずかしくて今すぐにでもこの場から逃げ去りたかった。


「開眼!」


蛍がそう言って千影の目から手を外した。


(もう……頼むから、これ以上恥ずかしいことはするなよな……黒歴史として一生残るぞ……)


そう思いながらゆっくり目を開いた千影は、目の前で唸り続ける湊の姿を見て絶句した。


「う、嘘だろ……」


片目を手で覆って唸る湊が火だるまになっていた。

あまりに突然目に飛び込んできた光景だったので、千影はパニックに陥り慌てふためいた。


「うわ、わぁぁぁ!いくら何でもやり過ぎだって!だっ、誰か早く!水!水をかけなきゃ!」


すると、背後にいた蛍は千影の肩に手を置いた。


「落ち着け、千影。これはただの幻術だ。まぁ、この世において……だがな。お前が今、目にしている光景は幻影。ただの幻だよ」


蛍がそう説明しているうちに、湊の全身を包んだ炎はいつの間にか消え去り、そこには警察官の格好をした大柄の男が一人、筋肉隆々の腕を組んで立っていた。

男の四角張った顔は、一度捕らえた獲物は絶対に逃さない獅子のような眼光と、凛々しい鼻筋が印象的であった。帽子から少しはみ出た前髪は白髪のような銀髪で、顔立ちがまだ若いので違和感を感じた。


「え?も、もしかして、湊さん……?」


目の前で繰り広げられた幻術にすっかり心が奪われた千影は、ぼうっとしたまま訊ねた。


「あぁ、そうだ。俺の表の姿は見ての通り、警察官だ。俺はお前の学校近くの西町交番に勤務している」


湊はそう言うと、腰にぶら下げていた警棒で帽子を少し上にずらして顔を出すと、いたずらっぽくニヤリと笑ってみせた。


「湊さんが……警察官……」


千影は未だに現実が受け入れられていない頭を、何とか動かしてあれこれ考えようとしたが、無理だった。

湊は警棒で部屋の隅で膝を抱えて俯くハルを差した。

すると、ハルは一度顔を背けたが、やがて大きなため息を一つつくと、面倒くさそうに立ち上がった。そして、ゆっくり左手を挙げると、背中の忍者刀を素早く抜いた。すると、どこからともなく金粉が吹雪のように散り始め、いつの間にかハルの姿が見えなくなっていた。


「こ、これも幻覚なのか?」


千影は興奮と恐怖で震える手を必死に押さえ込みながら、ハルの術から目を反らせないまま蛍に訊いた。


「あぁ。この世において……ではね」


ハルは金のベールを切り裂くように、絶え間なく舞い散る金煙を忍者刀で真一文字に素早く切った。すると、そこには全身真っ黒でひょろりとした背の低い男の子が現れた。

真っ黒おかっぱ頭に、真っ黒なパーカーに真っ黒なズボン、真っ黒な靴下。そこに青白い顔がぼうっとひとつ、浮かび上がっている。長く厚い前髪の下には大きな目が二つ。深い闇色をした瞳孔が不気味なほど大きく開いている。

ただし、その瞳は決して千影に向くことはなかった。


「ハルの表の顔はフリーターだ。コンビニ店員や警備員、大工やコールセンターのオペレーターまで、色々な職を兼業して、そこから色々な情報をかき集めているんだ」


蛍はハルの不機嫌な態度を少し気にしながら千影に教えた。


「へ、へぇ……」


千影は激しく鼓動を打つ左胸を抑えて荒く息をしながら答えた。

表の顔よりも何よりも、この奇妙な幻術とやらが、千影にとっては一番気になるところであった。


「じゃあ、次は……つばめ。お前の番だ」


湊が警棒で肩を叩きながらつばめを指差した。すると、つばめはびくりと肩をすぼめると、慌てたように湊から目をそらした。そのままいつまでも顔を背けていたので、湊はため息をついた。


「おい、早くやれ」


湊が面倒くさそうにそう言うと、「そ、それは……できない……」と、消え入りそうな声でつばめは言った。

妙な空気が流れる。

千影は未だに幻術の罠にかかって錯乱していたが、だんだんつばめが頑なに拒む理由が気になり始めた。

湊が警棒で床をドンとついた。つばめと千影の体が同時に跳ねた。


「千影は今日から俺たち伊賀組の一員となった。だから、千影をこの伊賀組の仲間として受け入れたという証に、表の顔を晒さなければならない」


湊はつばめを睨みつけながらそう言うと、つばめは少し目を潤ませて湊の顔を見た。


「で、でも……もしも表の顔を晒したら、こいつきっと……」


つばめは声を震わせてそう言いながら、千影の顔をちらっと横目で見た。その目は何かに怯えているような、不安でいっぱいの色をしていた。それを見た千影も何やら得体の知れない恐怖を感じた。


「どうせ、これから共に行動する仲だ。今ここで表の顔を明かさなくても、いずれお前の素性は千影にバレる。それが今なのか後なのかという違いだけだ。

だったら、今、明かしておいたほうが、後々お前にとっても楽なんじゃないのか?」


湊がそう言うと、つばめは湊の言葉を自分に言い聞かせるように何度も頷き、重たい腰を上げた。

つばめの少し涙で潤んだ瞳が、千影の顔へまっすぐ向いた。その瞳からは先ほどの不安の色が消え去っていて、力強く光っていた。

千影は石像のようにカチコチに正座をしたまま、つばめの目を見た。

つばめは懐から青々とした木の葉を一枚取り出すと、それに手のひらの上に乗せ、千影に向けると、木の葉に息を吹きかけた。


(また……来る!)


千影は心の底で身構え、腹の下に力を込めた。

ふわりふわりと一枚の木の葉が蝶のように宙を舞う。やがて、その木の葉は蝶の群れに変わった。無数の白い蝶が千影の目の前で回り踊る。やがて、花の蜜のような甘く心地よい香りが漂ってきた。その匂いは脳みそをとろかしてしまいそうであった。

いつの間にか、千影は思考と視界がすっかり奪われていた。心が浮き足立って、頭はぼんやりとしてくらくらする。千影は乳白色の雲の中に浮いているような感覚であったが、その雲はやがて霧となり、やがて霧が晴れると、目の前には、青いセーラー服を着た一人の少女がこちらを向いて立っていた。千影はしばらくぼんやりと少女の姿を見ていたが、やがて、頭の中の靄も消え去ると、千影は心も体も真っ青になった。


「うそだろ……」


栗色の明るくさらりとしたストレートのロングヘア、小さな顔には綺麗な瞳が二つ、可愛らしい小さなピンク色の唇。小春日和のような雰囲気。


「つばきたん……」


そう口にした途端、頭上からに五千トンの大岩が落ちてきた。

千影は意識を失った。



 千影は夢を見ていた。柔らかな日差しと桜色が混ざった暖かく心地よい風景の中に、その女の子は立っていた。


「あ!つばきたんだ!俺の愛してやまない大天使、つばきたんだ!」


栗色の長い髪を春風になびかせながら、その女の子は千影の方を振り返った。

すると、その途端、周りの景色は一変、日差しは黒い雲に隠れ、辺りは真っ暗になった。少女は闇に紛れる薄墨色の覆面忍び姿になっていた。少女は覆面を外した。


「おいテメェ!何ガン飛ばしてんだよ!千影のくせに!」


それは忍び装束を着たつばきたんだった。


「うわぁぁぁぁぁぁ!」


飛び起きた千影は全身ぐっしょり汗で濡れていた。そこは千影の自室のベッドの上であった。

千影は荒く息をして乱れ打つ心臓を抑えながら、必死に意識を悪夢から現実世界へと戻そうとした。


「やっと起きたか」


突然、真横から声がした。千影は飛び上がって声がする方へ顔を向けた。

ベッドのすぐ横には、闇に紛れる覆面姿の蛍がいた。


「大丈夫か?お前、三日三晩寝込んでいたんだぞ」


「俺……そんなに寝ていたのか?」


千影は部屋の電気をつけると、眩しそうに目を細めながら時計を見た。時計の針は夜中の三時二十分を差している。

千影は秒針が進むにつれて、あの夢のようで夢ではない奇妙で悪夢のような下忍の認定式のことを徐々に思い出した。


「俺……やっぱり、忍者部、辞めるよ」


千影は蛍の顔を見ずに言った。蛍は千影の少し俯く横顔をまっすぐ見ていた。


「どうしてだ?」


蛍がそう訊いても千影は何も答えない。

蛍もしばらく何も言わずに千影を見ていた。そして、口を開いた。


「つばめの正体が、つばきたんだったからか?」


蛍がそう言うと、千影の指先がぴくりと動いた。


「つばめちゃんは、口は悪いしわがままだし、挙げ句の果てには俺のことを好いていないようだ。そんな子が、まさか、心底愛してやまないあのつばきたんだったとは……。あぁ、俺はもうつばきたんに幻滅した。だから、もう写真集はいらないし、忍者になる必要もなくなったから、辞めよう……っていうのか?」


蛍は無感情でそう言うと、千影は恨みがましい目つきで蛍を見た。

蛍はため息をついた。


「千影、お前はアイドルつばきの本性を知ってしまったんだ。それを今さら忍者を辞めたところで、その事実を払拭することはできない。

いいか。“知る”ということは、それがたとえ受動的であれ能動的であれ、必ず“責任”が伴う。知った、知ってしまったという責任が。知った事実がたとえ自分にとって不都合なことであっても、その紛れもない事実から目を背けてはいけない。ちゃんとその事実を、身をもって受け入れなければならない」


蛍がそう言っても、千影は表情を変えない。それどころか、反抗的な目つきはますます酷くなる一方だ。


「お前のつばきへの愛情はその程度だったということか?たとえ、つばきの裏の顔が粗暴でアイドルの時とはまるで正反対のものであったとしても、その負の部分も全部ひっくるめて好きだと言える奴こそが、真のファンではないのか?」


「つばきたんは俺のどん底の人生に光を照らしてくれた天使だ!」


千影は蛍が言い終わらないうちに、怒鳴るように言った。

すると、蛍は少し表情を緩めた。


「忍者を辞めたいと言っても、もう遅い。お前はつばきの正体よりももっと重い事実、忍者の存在を知ってしまったんだ。もうどこにも逃げも隠れもできない。だから、腹をくくれ。千影」


忍者になるということが、今後の自分の人生を大きく揺るがすことになるとは、この時の千影にはまだ知る由もなかった。

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