第八話 千影、術にかかる

 ここ湯舟郷は、山々に囲まれた平地である。水は豊富で、水田がいたるところに広がっている。

畦道に濃い紫色の杜若が咲く頃、ほとんどの田植は終わり、蛙の輪唱もよりいっそう賑やかになる。

千影は生まれてから小学六年生までずっと都会育ち、そのあと田舎へ移っても引きこもりだったので、蛙の鳴き声などテレビ以外であまり聞いたことがなかった。

そして、この日も月が水田に小さな月を浮かべる頃、ちょうどランニングを終えた千影は村正神社の鳥居の目の前の草原に仰向け大の字になって倒れていた。


「うるさいなぁ。ゲロゲロゲロゲロずっと鳴いてるよ。蛙の声ってこんなにうるさいものなのか?まるで小言をずっと言う蛍みたいだな……」


千影は濃紺の空にぽつんと佇む上弦の月を眺めながら独り言を呟いた。


「うるさくて悪かったな」


眺めていた月がとつぜん蛍の顔に変わったので、千影は飛び起きた。


「え、き、聞こえてたの?」


「俺を誰だと思っている」


蛍は腕を組みながら仁王立ちし千影の顔を見下ろしていた。


「“俺を誰だと思っている”の一言で、すべてがまかり通っちゃう蛍はすごいよ」


「フン。まぁ、明日からはこの小言もしばらく聞くことがなくなるから喜べ」


蛍は少しすねたようにそっぽを向いた。


「え?どういうこと?」


「明日のトレーニングからは、しばらく湊さんがお前を見てくれる」


「えぇ!何それ!まさか、蛍、本当に怒っちゃったの?」


千影は慌てて蛍の足元にすがりついた。


「アホか。俺はそんな器の小さい人間ではない」


「う、うん……」


「俺は明日からどうしても外せない用事があって、お前を見てやれないから、代わりに湊さんにお願いしたんだ」


その言葉を聞いて千影は、まだ一度しか顔を会わせたことがなくて、その上、何だか少しとっつきにくそうなあの大男のことを思い出してしょんぼりした。

急に元気がなくなった千影を見て、蛍は少しだけ笑った。


「大丈夫だ。湊さんはがっつり体育会系だが、悪い人じゃない。元気よく振る舞えば、怒られることもないさ。それに、あの人は忍者としても実力ある人だ。だから学ぶことも多いと思う。千影、気合い入れて頑張れよ」


「うん……」


千影の心は不安でいっぱいだった。


 そして次の日の真夜中、千影はトレーニングが始まる午前一時よりも十分早く村正神社に到着した。薄い雲がかかった月明かりで、鳥居のまわりはぼんやりと明るい。そこにはまだ誰もいなかった。

千影は落ち着きなく鳥居の前を行ったり来たりした。

カエルの鳴き声は今日も賑やかだ。

だが、今の千影の耳にはカエルの声などまったく入って来なかった。

たいして知らない人間と二人きりになるのがとてつもなく怖いのだ。


「よぉー悪い悪い。待たせたなぁ」


千影は、あぜ道の向こう側から大柄の影が手をゆらゆら揺らしながら近づいて来るのを見た。

そのとたん、心臓は不規則な動きをし始めた。

道の向こうから近づいて来る影は、やがて月明かりの下に出て来ると、黒装束に身を包んだ大男に姿を変えた。

千影はつま先立ちするように背筋をぴんと伸ばして固まっていた。湊は千影の目の前までやって来た。そして、首を傾げた。


「ん?お前……」


湊は千影に顔をぐいと近づけた。

鼻から下が覆面で隠れたその顔は、目元がきりりと引き締まっており、瞳がギラギラしていた。


「な、何でしょうか……」


千影がこう訊くも湊は何も言わず、あごに手を当てたまま、千影のつま先から頭のてっぺんまでゆっくり視線をずらしながらじっくり見ている。

千影は息が詰まった。


「いや。お前、とくに変わっていないなと思って」


「え?」


「いやぁ、お前が毎日一生懸命に修行に励んでいると、蛍から聞いたものだから、てっきりもっと痩せているもんだと思ってたよ」


湊が遠慮なしにそう淡々と言うので、千影はどんどん心細くなった。


「こ、これでもけっこう痩せたんですよ!腹回りも……ほら、だいぶスッキリしたし、体重だって、四十キロも落ちたんですから!」


千影は自分の腹を強調するように見せながら必死に言ったが、湊は「あ、そう」の一言だけであった。


(うわぁ、何だこの人!全然体育会系じゃねぇじゃん!それどころか、何かちょっと嫌みっぽいし、俺、こういうタイプの人間、苦手だ……)


千影はビクつきながら、湊の横顔を眺めていた。湊はかったるそうに背中をかきながら神社の目の前に広がる田んぼの方を眺めている。

カエルたちは相変わらず元気に鳴き続けている。

湊は何も言わない。

何も言わない湊の横顔を、千影は怯えながら見つめていた。

湊が大きなあくびをした。

千影はビクリとした。


「あーあ。うるせぇなぁ、カエル」


湊がそう言ったので、千影はまごまごしていた。


(いったい何なんだよ!何でそんなに面倒くさそうなんだよ!マジでこの人感じ悪いな)


「あ、あの、修行は……?」


湊の顔色を伺うように千影が言うと、湊は横目で千影の顔を見た。


「あ?修行?あぁ、そうか。お前、いつも何してんだ?」


「え?蛍から何も聞かされていないんですか?」


「あ?あぁ、確かにアイツは何やらごちゃごちゃ言っていたが、ほとんど聞いてなかった」


「えぇ!」


この湊のやる気の無さに呆れた千影はもう帰りたくなった。


(もしかして、実はコイツも俺と同じく嫌々忍者部に所属しているんじゃないか?)


千影は訝るように見ていると、湊はもう一度あくびをした。


「それで、いつも何してんだよ」


「二十キロランニングと、腹筋背筋をそれぞれ五百回ずつです」


湊が面倒くさそうにそう訊いてきたので、千影は早口で説明した。


「あっそ。じゃあ、すぐに始めろ」


「は、はい!」


千影はその場で少し足踏みをして湊が走り出すのを待っていた。蛍とはいつも一緒に走っているからだ。

だが、湊はだるそうに突っ立ったまま、一向に走ろうとしない。


「あ、あの……一緒に走らないんですか?」


千影がこう訊くと、湊は小さく舌うちをした。


「俺はここで待ってる。お前ひとりで走ってこい。そのあと、腹筋背筋して、全部終わったらここまで戻ってこい」


そう言うと、湊は草原にあぐらをかいて大きなあくびをした。


(なんだよコイツ!けっきょく放置かよ!マジで嫌みったらしいヤツだ!)


千影はムッとした表情で湊の眠たそうな顔を一瞥すると、いつものコースを走りにいった。

 そして、来る日も来る日も湊との修行は、ほとんど千影の自主トレのようなものであった。

千影がいつものメニューをひとりで黙々とこなし、その一方で湊は草原の片隅で寝転んで居眠りをしていた。

そして、千影がトレーニングを終えて湊の元へ行くと、決まって湊は千影に文句をつけた。


「お前さぁ、もうちょっと早く走れねえの?その走りじゃあ、忍びなんてなれねぇぞ」


「はい……」


「それにさぁ、ぜんっぜん痩せてねぇじゃねぇか。お前、俺に隠れて何か食ってねぇか?」


「い、いえいえっ!食ってません!」


「それから、お前のその態度。やる気が感じられねぇんだよ。お前、本当に忍者になる気あんのかよ」


「……」


 そして、湊との修行の最終日のこと。

とうとう、千影の腹の底に蓄積された不満が口から一気に飛び出した。


「たかが忍者オタクの部活で、どうして俺だけこんな目に遭わないといけないんだ!俺は好きでこんなくだらない忍者ごっこをやっているわけじゃない!すべてはつばきたんのお宝写真集のためだけだ!写真集が手に入ったら、こんな中二病の部活なんて、とっとと辞めてやるんだからな!」


千影は一息に不満を湊に向かって吐き散らした。

だが、湊は興奮する千影には目もくれず、あいかわらず田んぼの方に顔を向けたまま、眠たそうにカエルの声を聞いていた。

言いたいことをほとんど吐いてすっきりしたはずなのに、まったく無反応の湊を見ると、千影は胸の中心がモヤモヤした。

そして、互いに無言のまま、しばらくカエルの鳴き声だけを聞いていた。

その間、まったく心の内が読めない湊を目の前にもどかしく思ったり、一方では、不満をはっきり言ってやったんだという充足感に満ちたり、それから、いつまで経ってもカエルの鳴き声しか聞こえないこの空気が重たくて煩わしくて、千影の心は千々に乱れた。


「まぁ。要するにだな、お前は俺の術にまんまと引っかかったというわけだ」


突然、湊がそう言ったので、千影は大きく動揺した。


「は、はい?い、今……何て?」


何のことだかさっぱり理解できなくて、狼狽する千影を横目で見た湊は、意地悪そうな笑みを浮かべた。


「まったく、お前はそんなことを思いながら忍者の修行を続けていたとはな。お前のその言葉を蛍が聞いたら、あいつ、きっと悲しむだろうなぁ」


「え、えぇ!湊さん、まさか、蛍にこのこと、言っちゃうんですか?」


「さぁ。どうするかなぁ……」


湊はニヤニヤしながら月を見上げていた。


「ど、どうか!どうかお願いです!蛍には言わないで下さい!お願いです!」


千影は慌てて地べたに額をつけて土下座した。


「ここ数日で、お前は対人術のセンスがまったくないということがよくわかったよ。お前、友達ダチいねぇだろう?」


そう言われて心がひやりとした千影は、ぱっと顔を上げると、目の前に湊の鋭く光る眼光が二つあった。


「それにな、この先、忍者ごっこのつもりで修行に励んでいたら、後々痛い目見るぞ」


その言葉と湊の目を見た千影は息を止めたまま、何度も頷いた。

恐怖で顔を引きつらせる千影の顔を見ると、湊は目を細めて千影から離れた。


「まぁ、俺が言いたいことはだな、忍者には体術の他にも、敵の心に付け込むための心理術を身につける必要があるということだ。

これは、何も忍者に限った話ではない。

お前がこの先、社会に出たときにも十分役立つものだから、会得して損はないだろう」


「は、はい!」


千影は肩に力を入れてガチガチに固くなりながら、湊の言葉に全身全霊を傾けている。

その姿を見て、湊は吹き出しそうになりながらも言葉を続けた。


「では、お前には“五情五欲ごじょうごよくことわり”という術を教えてやろう。一回しか言わないから、耳かっぽじってよく聞いておけよ」


湊は間髪入れずに説明しだした。


「まず、五情とは人間の感情、喜怒哀楽、それから恐怖の五つの感情のこと。

五欲とは、食、性、名声、財産、風流の欲のことをいう。つまり、五情五欲の理とは、これら人の感情と欲を操作する、人心掌握の術である。

この術を使って、相手から情報を聞き出したり、自分に有利な状況を作り出したりすることができる。

たとえば、五情のうちの“喜の理”とは、人をおだてて喜ばせてその気にさせて、こちらの思うように動かすこと。五欲のうちの“財産の理”とは、金銭で人を動かすことだ。

ちなみに、俺がお前にかけた術は“怒の理”だ。

俺がわざとお前を怒らせて、平常心をなくしたお前は色々口を滑らしただろう?

まさにお前は怒の理の術に引っかかったということだ」


そう言われた千影は、とても居心地が悪くて小さく縮こまった。


「まぁ、気にすることはない。この術は俺がお前に身をもって学んでもらうためにわざとやったことだ。

この対人術は、忍びであれば必ず会得しておかなければならないものだ。

なぜなら、忍びの忍務の大半は、潜入と諜報だ。

敵陣営に潜り込み、敵に紛れつつ、敵から情報を引き出したり操ったりする。

そのためには、かなり高度な対人術が必要だ。

この五情五欲の理は、頭では簡単に理解することはできると思うが、実践することがとても難しい。

そもそも、対人関係自体が難しいものだからな。

その関係を巧く利用して自分にとって有利な方向に物事を動かすということは、至難の業だろう」


千影は湊の言葉ひとつひとつを聞くにつれ、顔が青ざめていった。


「この術を使うためには、まず、自分の感情をコントロールできるようにしなければならない。

さっきのお前は感情を抑えることができていなかったな。

自分の感情をコントロールできないヤツが、他人の感情を操ることなんて到底無理な話だ。

それに、感情に身を任せるのは危険だ。

正確な判断はできなくなるし、場合によっては敵に殺されたり、自滅したりしてしまう恐れがある。

だから、この術を会得する前に、まず、お前は常日頃から平常心を心掛けないといけない」


千影は耳が痛かった。


「それからもう一つ、この術を使うために忘れてはいけないことがある。

それは、術をかける相手のことについて、事前に詳しく調べてよく知っておくということだ。

だってそうだろう?そいつのことをよくも知らないまま喜の理の術をかけて、もしも、そいつがおだてに乗らない冷静なヤツだったら、まったく意味がないし、それどころか、かえって怪しまれて余計ないざこざを生むかもしれない。

だから、人心掌握術を使うときは、くれぐれも慎重にやれよ。

まぁ、俺が教えたかったのは、おおかたそのようなものだが、お前、何か質問や分からないことはあるか?」


湊が突然そう訊いてきたので、千影は慌てて必死に頭の中を巡らせ、湊の顔色を伺いつつ、おそるおそる手を挙げた。


「あ、あの、ええと、ふうりゅうって、何ですか?」


千影がそう言うと、湊は一瞬固まったが、咳払いをして説明を始めた。


「風流とは、まぁ、趣味のことだな。相手の趣味に取り入ったり、そいつが趣味で集めているものをそいつの目の前でちらつかせたりして操ることだ」


「ふーん……」


湊の言葉を聞いて、千影は心に引っかかるものがあった。


(何だろう……この術もどこかでかけられたことがあるような気が……)


だが、それが何であったのか、千影は思い出すことができなかった。

 後日、千影は試しに蛍を実験台にして五情五欲の理の術をかけた。

これは湊の指示のものであった。

「蛍アイツはナルシストの気があるから、うんとおだててやれ。そうしたら、厳しい修行も少しは楽になるかもしれないぞ」と、湊は千影に吹き込んだ。

そして、それを真に受けた千影は、蛍が戻って来たその日にこの術を試した。

しかし、蛍にあっさりと術を見破られ、その後こっぴどく扱かれるのであった。

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