第七話 忍びの三原則

 桜の花びらが散り、山々の若葉色がいっせいに萌える頃、千影は相変わらず特訓に明け暮れていた。


“すべてはつばきたんのお宝写真集のため”


ランニングの距離は十キロから二十キロに増え、腹筋と背筋も各百回ずつから五百回ずつになった。

千影は日々頑張っていた。

体重も、百二十キロから九十キロまで落ちた。顔やおしりについた肉はなかなか落ちなかったが、腹まわりはだいぶすっきりした。

蛍はトレーニングが終わるたび、千影のズボンのひもを引っ張っては、どのくらい痩せたのか確かめていた。

そして、ちょうど今も、蛍は汗だくで草っ原に仰向けで倒れている千影のズボンのひもを引いていた。


「うーん。あまり変化がないな」


蛍がそう言いながらひもに顔を近づけた時だった。蛍はとつぜん口元を押さえてものすごい速さで後退りした。


「え?何?蛍、どうしたの?」


千影は苦しそうに息をを整えながら蛍を見た。蛍は両手を口元にあてたまま、荒い呼吸をしていた。


「お、お前、何なんだ?そのニオイは!」


「は?ニオイ?」


「あぁ、お前、ものすごく臭うぞ!」


「え?そうかなぁ。俺は別に気にならなかったけど。きっと今、汗かいたからじゃないかな?」


千影はそう言いながら、ジャージの上着の裾を鼻のところまで引っぱって臭いを嗅いでいた。


「いやいや、それは汗の臭いじゃない。なんというか、日々の汚れが蓄積された臭いというか、数日放ったらかしにした生ゴミの臭いというか、ドブ川の臭いというか……とにかく、ものすごく臭いぞ!」


蛍にそう言われると、千影はムスッとした。


「あぁ、悪かったね!洗えばいいんだろ?洗えば!家に帰ったらすぐ洗濯に出すよ」


「え、もしかして、そのジャージ、今まで洗っていなかったのか?」


「あぁ。そうだよ。だって、この真夜中のトレーニングでこのジャージは必要じゃないか。洗うひまなんてなかったんだよ」


千影がこう言うと、蛍は頭を抱えた。


「あぁ、千影。忍びたる者、クサイ体臭をプンプンさせてどうするんだ。体臭がある忍者は、すぐに敵に見つかって殺されてしまうぞ」


「はぁ」


「そうだ。これを機会に、これからお前の家へ行って、消臭術を教えてやろう」


「えぇ!これから?」


「あぁ。どうせ明日は土曜日だ。少しくらい眠らなくても大丈夫だろう?」


「はぁ……」


こうして、千影は蛍と一緒に自宅へ戻ることとなった。


(まったく!勘弁してくれよ!たかが消臭ごときに忍術なんていらねぇよ!)


心の叫びを今にも口に出してしまいそうになったが、千影はこの不満を腹の底でぐっと堪えた。


 千影の家の前まで来ると、千影はポケットから家の鍵を取り出して玄関のドアの鍵穴に差した。


「さぁ、お先にどうぞ……」


千影はそう言いながら後を振り向いた。だが、そこに蛍の姿はなかった。


「あれ?蛍?おーい、どこいったんだよ?」


千影は辺りを見て回ったがどこにもいなかった。


(何だよ、ついさっきまで一緒だったのに)


千影はもう一度、家のまわりを調べて蛍がどこにもいないことを確認すると、家の中へ戻った。


(あー疲れたなぁ。でも、なぜだか急に蛍もいなくなったことだし、これで睡眠時間は確保できそうだな。さぁ、さっさと風呂に入って寝るとするか……)


そう考えながら千影は自分の部屋に戻った。


「千影、遅いぞ」


ドアを開けた瞬間、千影は驚いて声を上げそうになった。


「な、なんで蛍が先に俺の部屋にいるんだよ!」


蛍はカップラーメンの空き容器を足で避けながら、部屋のど真ん中で仁王立ちしていた。


「お前、俺を誰だと思っている。俺は一応、中忍だぞ」


「は、はぁ」


その自信満々な様子の蛍の姿を見て、千影の頭の中では、ついさきほどまで考えていた計画が崩れ去る音がした。


「それにしても千影、この部屋はひどすぎる。とても人間の住むところとは思えない。お前が臭うのは、単にジャージを長期間洗っていないという理由だけではないな。この部屋も、お前とまったく同じ臭いがする。ベッドをひっくり返したら、ゴキブリやらネズミやらがわんさか出てきそうだぞ」


蛍はポテチの空袋が散乱した布団の端っこを指でつまみ上げて言った。


「忍びとは、“音もなく、臭いもなく、知名もなく、勇名もなし”と、言われるように、体臭は禁物なんだ。だから、こんな臭くて汚い部屋、忍者にとっては命取りになるぞ」


また蛍の小言が始まったので、千影はうんざりした。


「あーはいはい!わかりました!片付ければいいんでしょう?片付ければ!」


「分かってるじゃないか。そうと決まれば、さっそくやるぞ!」


蛍はそう言うと、懐の中から大きなビニール袋を取り出した。

そして、ジャージを着た少年と黒装束の忍者が、それぞれ片手にビニール袋を持って、土曜日の朝五時から部屋の片付けをしていた。


「忍者は臭いにとても敏感だ。だから、服は毎日洗うし、体も毎日入念に洗う。

そして、敵陣へ潜入する時には、消臭用のこうを焚くんだ」


蛍は床のいたるところに積み重なっているカップラーメンの空き容器を部屋の真ん中に集めながら言った。


「香?何それ」


「これだ」


蛍は懐に手を突っ込むと、中から小さなネズミ色の渦巻き状のものを取り出した。


「小さな蚊取り線香みたいなやつだな」


「あぁ、これが忍者の消臭用のお香、“邪避香じゃひこう”だ」


千影は蛍からそのお香を受け取ると、鼻に近づけて匂いを嗅いでみた。


「ん?この匂い、嗅いだことがあるぞ。どこで嗅いだっけなぁ……」


「昔の忍者は忍務に出掛ける前、これを焚いて煙を浴びて体臭を消していたんだ。それに、この香には防虫効果もあった。だから、野山に潜伏する忍者にとっては一石二鳥の代物だったんだ。さらに、この香の香りは、精神を落ち着かせる効果もある。これは千影にあげるよ。下忍になった暁には、この香を使うといい」


「あぁ、ありがとう……」


千影は手にした渦巻きのお香を見つめながら少し困った顔をした。


(こんなもの、どんな機会で使うっていうんだよ。まさか、俺、いつか忍者部の敵チームにでも送り込まれるっていうのか!?

それに、今は消臭スプレーっていう優れものがあるんだぞ。

それにしても、忍者オタクは忍者をより忠実に再現するために、わざわざ時代遅れの忍者グッズを使うものなのかな……)


千影はそんなことを思いながら、とりあえず忍者部の布袋にしまった。


「ところでさぁ、さっき蛍はチュウニンだって言ってたよな?」


千影はベッドの上に散らかるポテチの袋をかき集めてゴミ袋に突っ込みながら言った。


「あぁ、そうだ。俺は優秀だからな。史上二番目の早さで中忍になった」


蛍は部屋の真ん中に集めたカップラーメンの空き容器をせっせとゴミ袋に詰め込みながらサラリと言った。


「もしかして、俺がこれからなろうとしているゲニンって、上中下の下ニンっていうことなの?」


千影がこう言うと、蛍は手を止めて千影の顔を見た。


「まさか、お前、今まで下忍が何なのか分からないまま、下忍になる!って言っていたのか?」


千影も手を止めて首を傾げて蛍を見た。


「まぁ、そうだけど……」


千影がこう言うと、蛍は頭を抱えた。


「はぁ……お前っていうやつは、まったくもう……」


「それって、忍者検定とか何かの試験を受けたらなれるの?ほら、よくあるだろう?日本のお城検定みたいなやつ」


「お前なぁ。そんな趣味の検定みたいに言うなよ。忍者の階級は、すべて“上人しょうにん”という忍者の中でもっとも偉い方が決めているんだ」


「ふーん。じゃあ、上人っていうヤツに気に入ってもらえれば、すぐに下忍に認めてもらえるのか?」


「おい、上人のことをヤツって言うな。それに、ゴマすって下忍になれれば苦労しないよ」


「じゃあ、どうやって認めてもらえるんだ?紙の試験じゃないんだろう?もしかして、実技試験とか?」


「まぁ、そんなものだけど。上人の目の前で改まって実技を見せるという試験ではない。忍者には、その者の能力を上中下に振り分ける原則というものがある」


「原則?」


「あぁ、忍びの三原則というものだ。ちょうどいい機会だ。これから俺が教えてやるから、この前、千影に渡した赤い巻物に書き加えて覚えろ」


千影は慌てて部屋の隅に投げ捨ててあった忍者部の布袋から巻物を取り出すと、薄汚れた床に広げた。蛍は懐から筆を取り出すと、千影に手渡して一度だけ咳払いをした。


「では、言うぞ。忍びの三原則。

敵をも傷つけ己も傷ついてわずかに免るるは忍びの下なるもの。

敵を傷つけ己も傷つかずして危うきを凌ぐは忍びの中なるもの。

敵をも傷つけず己も傷つかず危うき凌ぐは忍びの上なるもの」


千影は蛍が言った言葉の一つ一つをひらがなで殴り書いた。そして、すべて書き終えると、腕を組んで小首を傾げた。


「何のことだか、さっぱり分からん」


「ほら、前に俺が言っただろう?余計ないざこざを残さないために、忍者は戦わずして逃げるって。この原則はそのことを言っているんだ。

敵と遭遇した時、戦って敵も自分も負傷したが、なんとか生還できる程度の腕前は、下忍レベル。

敵を負傷させて自分は傷つかずにその場を逃れることができる程度は中忍レベル。

敵と戦うことなくその場から逃げ去ることができる程度は上忍レベルだ。

なお、敵を殺して生き長らえることや、殺されて死んでしまうことは“忍び破れ”と言われて、生きている間も死んだ後も、最低最悪で不名誉なレッテルを貼られるから、気をつけるように」


「お、おいおい、殺したり殺されたりって!こんな平和な現代で、そんな物騒なこと言うなよ……」


「でも、現にお前も二度ほど殺されそうになったじゃないか。それに、今は平和な時代ではない。むしろどんどん悪い方へと向かっている。陰と陽のバランスが崩れている。この世は刻一刻と破壊の道へと進んでいて……」


「あー!はいはい!わかりました!忍びの三原則はしっかり覚えておくから、それ以上訳の分からない話はしないでよ!頭がガンガンしてくる!」


蛍の言葉をかき消すように千影は叫んだ。


「まぁ、いずれ、お前もそんな他人事みたいな態度を取ることができなくなるよ。とにかく、忍びの三原則は頭に入れておくように。

それじゃあ、片付けの続き、始めようか」


 けっきょく、部屋をすべて片付け終わったのは、太陽が徐々に西へと落ちていく頃であった。

四十リットルのゴミ袋が十三個もできた。

このあと、千影はひとりでこっそりとごみ置き場にゴミ袋を運んでいる最中、祖母に見つかり、自分の部屋を片付けていたことを話すと、祖母はふたたびエプロンの裾で目頭を押さえるのであった。

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