第六話 千影、サボる③

 その後も千影は蛍や忍びのことなどすっかり忘れてライブを思う存分満喫した。ライブは盛りに盛り上がり、終了予定時刻から二時間近くも延長した。

そして、今は午後八時過ぎ。これから三十分の休憩をはさんで、同じ会場で超プレミアグッツの抽選会が行われる。この抽選会は、初回限定アルバムを五枚以上購入した人限定のイベントなのだが、ファンは誰一人帰る者はいなかった。

千影はライブの熱気がいったん落ち着くと、雨で体が冷えたせいか、とつぜん強い尿意に襲われた。


(ったく、こんな時に小便行きたくなるとは……)


千影は、ライブが始まる前、ライブスタッフに初回限定アルバムを五枚以上購入したことを証明して受け取った抽選番号が書かれた紙をジャンパーの内ポケットから取り出して、無くしていないことをしっかり確認すると、その場にビニール傘とずぶ濡れになった忍者部の布袋を置いて自分の場所を誰かに取られないように陣取り、人ごみを掻き分けながら公園の入り口付近に設置されたトイレへ向かった。


「うわ!なんじゃこりゃ!」


そこには仮設トイレが八個ほどあったが、どこも長蛇の列ができている。

今から並んだら、自分の番がまわってくるまで三十分以上はかかりそうだ。

千影はここをあきらめて、ライブ会場から一番遠い、正反対の方にある公園のトイレへ行くことにした。

そこのトイレは一度公園を出て、公園の外を回って行かなければならない。

千影は腕時計を見た。休憩時間はもう残り二十分を切っている。


(どこかに公園内を突き抜けられる道はないかな?)


ライブの舞台の背後には雑木林が広がっている。そこをまっすぐ抜ければ、反対側のトイレへ近道をすることができる。

今はもうとっくに陽が沈んでいる。その雑木林は歩道も電灯も一切なく、大きな闇の塊のように見える。

だが、千影には遠回りしている時間の余裕も、トイレを我慢している余裕もない。

千影は意を決したように両手のこぶしに力を込めると、目の前の真っ黒な雑木林の影を目指して突進していった。雨はだいぶ小降りにはなったが、冷えた体には堪える雨であった。

千影は何度も身震いしながら走った。

雑木林の中は真っ暗で、ほとんど何も見えない。

千影は両手を前に突き出して、木の幹を一本ずつ探りながら前に進んだ。だが、前に進めど一向に明りが見えてこない。

ライブ会場の賑やかな音もほとんど聞こえなくなった。目はだいぶ暗闇に慣れたが、それでも目をよく凝らさないとまわりの様子が見えない。

千影は徐々に心細くなってきた。


(あぁ、もう、テキトーにここら辺で出しちまってすぐに引返そうかな……)


そう思った時であった。

突然、千影は背後に人の気配を感じた。そして、その瞬間、腰に何か固いものを押し付けられた。


「動くな」


千影が叫ぼうとした時、真後ろから男の低い声がした。


「動いたら、撃つぞ」


千影はとっさに両手を上げると、そのまま首だけ動かして自分の腰のあたりを見た。そこにはかすかに光る黒い筒があった。

千影は頭から血の気が引いた。


「藤林千影だな」


低くやや掠れた男の声がした。千影は何度も小刻みに頷いた。


「そうか。それでは手をあげたまま、こちらを向け。ただし、妙な動きをしたら、即刻お前を撃つ。いいな?」


千影はまた小さく頷くと、震えながらおそるおそる後を振り返った。すると、そこには、暗闇の中丸いサングラスをかけ、漆黒の長いコートに身を包んだ長身の男が一人、銃を構えて立っていた。

肩まである白髪混じりの長髪がちらちらと光る。鼻から下は、コートの立てた襟ですっぽり隠されて見ることができない。

千影はこの全く想定外の状況を目の当たりにして、尿意も抽選会も頭からすっぽり抜け落ちた。


「ひとつ、お前に訊ねたいことがる」


「は、はい!」


千影は肩をすくめて返事をした。男のサングラスがギラリと光った。


「お前は、この世には絶対不変の真理が存在すると思うか?」


ただでさえ頭の中はパニックに陥っているというのに、さらに訳のわからない質問をされて、千影の頭はショート寸前だった。


「時間がない。早く答えろ。それとも、その無言がお前の答えなのか?」


そう言うと、男は銃のボルトハンドルをカチャリと動かした。


「うわぁぁぁ!ま、待って下さい!お、俺、何のことだか、さっぱり分からなくて……」


「あぁ、その様子では、そうなのだろう。では、いたしかたない。お前にはもう用はないということが分かった」


「は、はぁ?」


「お前にはこの世の存亡がかかっている。だが、今のお前の反応を見て、お前ではとうていこの世は救えないと判断した。だから、すまないが、お前にはここで消えてもらう」


男は銃の照準を千影の頭に合わせた。


「う、うそ、だろう……」


千影は体が石のように固まり、身動きひとつとれない。


(なんで、どうしてこんなことになった?こいつは一体何者なんだ?それに、この世の存亡が俺にかかっているってどういうことだよ!)


そう思ったとき、千影は以前にも誰かにそのようなことを言われた気がしたが、それを思い出す余裕はなかった。


「大丈夫だ。すぐに逝かしてやる。だから、大人しくしてろ」


男は銃の引き金に指をかけた。


(あぁ、もう、だめだ……俺の人生、ここで終わりだ……。こんな……こんなところで……)


その時であった。とつぜん、頭上から千影の目の前に全身黒ずくめの者が降り立った。

その者は、片手に広げたビニール傘、もう片手には忍者部と書かれた布袋を持っていた。


「それは忍び破れに値する行為だ、杉谷さん」


目の前に立つ人間が言葉を放ったとき、千影はその者が誰であるかすぐに分かった。


「蛍!」


蛍の声を聞いたとたん、千影は全身の力が抜けてその場に座り込んだ。サングラスの男は銃を静かに懐へ収めた。そしてあっと言う間に姿を闇の中へと消した。


「千影、どこかケガはないか?」


蛍は地べたにへたり込む千影の顔を覗き込んだ。千影は口をヘの字に曲げ、唇を震わせながら涙を浮かべていた。


「うぅっ、蛍〜怖かったよぉぉぉ〜!」


千影は蛍の胸ぐらをつかむと、声を上げて泣き始めた。


「あぁ、よしよし。そうだな。まさか、こんなところで襲われるとは思わなかったよな」


蛍はそう言いながら千影の頭を優しくなでた。


「うぐっ、アイツ、いったい何者なんだよ!い、いきなりわけ分かんないこと訊いてきたり、うぐっ、鉄砲でおどしてきたり、うぐっ、俺、何が何だかさっぱりわかんなくて、うぐっ」


「あの人は、甲賀組の忍者、杉谷誠司すぎたに せいじだ。射撃が得意で、一度狙った獲物は絶対に逃さない」


「へ?に、忍者?」


“忍者”という言葉を耳にしたとたん、千影の青ざめた腹の内は、怒りでたちまちふつふつと煮えたぎった。


「忍者って……それじゃあ、アイツも蛍の仲間ってことか?」


千影はそういうと、突き放すように蛍の胸ぐらから手を離した。


「あぁ、まぁ、そうだといえばそうだが……今はどちらかというと敵対する間柄になってしまった」


蛍は乱れた胸元を直しながら少し言いづらそうに話した。


「はぁ?結局なんだよ、俺、アンタたちのいざこざに巻き込まれたっていうことなのか?アイツ、本物みたいな銃持ってたぜ!あんなの持ってて犯罪じゃないのか?こんなくだらない忍者ごっこをするために!」


千影は顔を真っ赤にして捲し立てたが、蛍は黙ったまま千影の顔を見ていた。

いつの間にか雨は上がっていた。天を見上げると、わずかにのぞく空には星が輝いていた。

しばらく二人は黙ったままだった。

その頃には、千影も冷静さを取り戻し、色々とまずい状況になっていることに気がついた。


(そういえば、どうしてこんなところに蛍がいるんだろう!さては、俺が自主トレをサボってライブに出掛けたことがバレたか!

しかも、俺、さっきまずいこと口走っちゃったな……忍者ごっこだなんて!忍者になりきっている人に対して絶対に言ってはいけない禁断のワードだったんじゃないか?

あぁ、もう、これで全て水の泡だ……あのつばきたんのお宝写真集は、もう二度と手に入らないだろうな……)


失意の底に沈んで青ざめる千影の顔を見て、蛍は少し笑った。


「千影、お前、いったいどうした?顔を真っ赤にして怒っていたかと思うと、今度は青くなって」


千影の体はビクリと跳ねた。


「え、い、いや、そ、その、ごめん。俺、ちょっと言い過ぎた……」


「いや、構わないさ」


そういうと、蛍はゆっくり立ち上がった。


「まぁ、お前が混乱するのは当たり前のことだ。俺も早いうちにお前に色々とこちらの事情を話したいところなんだが、お前はまだ忍者として認められていない。だから、今ここで詳しいことをあれこれお前に教えてやるわけにはいかないんだ。

千影、もう少しだけ辛抱してくれないか?今のお前は特訓だけに専念してくれさえすれば、それでいいんだ」


そう真剣に話す蛍の目を見て、千影は現実と虚構の区別をどこでしたらいいのか分からなくなった。


「大丈夫、お前のことは俺が命を代えても守る」


蛍はそう言うと、千影の目の前に手を差し伸べた。

差し出された手を見た千影は、ふと、遠い昔にも似たようなことがあったような気がした。だが、それがいつのことであったのか、いったい何であったのか、思い出すことはできなかった。

千影はコクリと小さく頷くと、その手をしっかり握った。


 雨上がりの星空は少しだけ潤んでいて、星のまたたきもすこしゆるんでいるようだった。

すっかり腰を抜かしていた千影は、蛍に背負われていた。

二人が雑木林から出てきた頃、抽選会もすっかり終わってしまっていて、このだだっ広い緑の敷地には、空っぽのライブ会場と、蛍と千影だけであった。


「あーあ。抽選会、出たかったなぁ」


千影は蛍の背中に全体重を預けながら、布袋を振り回して言った。


「お前なぁ。自主トレサボっておきながら、よく言えたものだな」


「え?あ、そ、それは……」


「まぁ、お前も今まで頑張ってきたことだし、今日だけは大目に見てやるよ」


蛍がそういうと、千影は蛍の首を絞めるように抱きついた。


「えぇ!ほ、本当か?じゃ、じゃあ、つばきたんの写真集の約束は……」


「あぁ、お前が下忍になれたら譲ってやるよ」


その蛍の言葉を聞いて、千影は、今朝からずっとビクビクしていた自分のことがばからしく思えた。


「ただし!次は、ないからな」


浮かれてはしゃぐ千影に蛍はぴしゃりとたしなめた。


「は、はい……」


星の海に浮かんだ三日月が、二人を見守るように優しく包んでいた。

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