第六話 千影、サボる②

 ライブ当日、時刻は朝の六時四十五分。千影は決められた起床時刻より一時間も早く起きた。夜中のトレーニングはつい先ほど終わったばかり。千影はほとんど睡眠を取らなかった。

それには訳があった。千影は目の下にクマをつくった顔を冷水でじゃぶじゃぶ洗い、タオルで拭うと鏡に向かって頬を両手でパンパン叩いた。


(今日は一世一代の大事な日だ。なぜなら、生でつばきたんを拝めるほかに、もしかしたら戦国少女隊のメンバーのオリジナルフィギュア【非売品・メンバー全員のサイン付き】というとんでもないお宝が手に入るかもしれないのだ。

ライブは午後二時からの野外ライブだ。席は自由席だから早い者勝ちだ。本当は前日の夜から並ぼうと思ったけど、蛍につき合っていたせいでそれはできなかった。だが、しかたがない。

すべてはつばきたんのお宝写真集のため。

今日のお宝は抽選だから手に入らないかもしれないけど、写真集は譲ってもらうと約束済みだ。だから、蛍との付き合いはおろそかにできない。

それよりも、今日は自主トレをサボってライブへ行ったことが蛍にバレるのは何としてでも避けたいところだ。もしも、バレてしまったりしたら、今までの俺の頑張りがすべて水の泡となってしまう)


千影は寝癖だらけの髪をきれいに整えると目元に力を入れて鏡の中の自分の顔を睨んだ。


「いいか千影、なんとしてもアイツにバレないようにうまくやるんだ!大丈夫、万が一ライブが長引いたとしても、夜中の一時までに神社へたどり着いていれば大丈夫!お前ならできるさ!千影!」


千影はいつも蛍から言われている言葉をまねして自分に言い聞かせた。


 

 外はあいにくの雨模様。千影は鉛色の空を見上げてため息をついた。


「野外ライブだっていうのに、今日はついてないなぁ。これじゃあ、つばきたんが濡れて風邪引いちゃうよ」


千影は朝食も食べずに、ヲタ芸グッツをパンパンに詰めた黒いリュックを背負って、片手にジャージと赤い巻物が入った忍者部の布袋を持つと、ビニール傘をさしてバス停まで小走りで向かった。

その間、千影はせわしなく左右後をキョロキョロ見回していた。


(蛍のヤツ、どこで見ているか分からないからなぁ。でも、トレーニングはついさっき終わったばかりだし、まさか、こんな時間まで俺なんかを見張ってるわけないよな……)


そう思いつつ、その後も、バスへ乗り込む時や車内の様子を注意深く確認しながら千影はライブ会場へと向かった。

千影は乗降客のひとりひとりを入念に観察しながらバスに揺られていた。だが、乗り換え一回含めての片道二時間半は千影にとっては睡魔との戦いでもあった。千影は何度もまぶたを落としそうになったが、太ももをつねって何とか眠気を堪えつつ、いつ蛍が目の前に姿を現さないか周囲を見張った。

延々と降り続く雨に濡れる森の景色がいつの間にか開けた。高層ビル群が目の前まで差し迫る。

千影は降車ボタンを押した。

ライブ会場は都会の入り口にある大きな国立公園の一角。一角といっても、八千人もの人が余裕で入ることができるほどの広い敷地である。そこに特設ステージが設けられてライブが開催される。

千影は目的のバス停までくると、あらかじめ用意していた小銭をすばやく支払い機の中に入れ、足早に降りた。

都会も同じく雨降りだった。だが、千影の顔は晴れ晴れしていた。


「ついに、蛍とは一度も会わなかった!」


千影は忍者部と書かれた布袋を放り投げてその場で飛び跳ねたかったが、人の目が気になったのでそれはやらなかった。

蛍が姿を現さなかったことと寝不足が混ぜ合わさって、妙な興奮が心の奥から湧いてきた。


(ついに、俺はやってのけたんだ!ついに蛍の目から逃れることができたんだ!もしもアイツが俺をずっと監視していたのなら、俺が湯舟郷でバスに乗る時に現れたはずだ。今のいままでアイツの姿を見なかったということは、やっぱり、俺はアイツから逃れることができたんだ!)


そう思うと、千影は歯を見せて不気味に笑った。


(これで、面倒くさい問題が一つ解決した!あとは、ライブを存分に楽しみ、抽選会で当選者十名のうちの一人に選ばれることを祈るだけだ!)


千影は忍者部の袋を振り回してスキップまじりの足取りでライブ会場へと急いだ。


「みんなー!元気だったー?」


戦国少女隊のリーダーであるさゆり、通称さゆさゆを先頭に、メンバーたちが一斉にステージ上へ出てきた。すると、「うぉぉぉぉぉ!さゆさゆ―!」と、さゆりのファンが一斉に声を荒げた。その後、他のメンバーがひとりずつオリジナルの挨拶をする。それを受けたファンは、絶叫に近い返事や奇声を発した。

ライブの告知が三日前だったというのに、その場に集まったファンはおよそ五千人。皆、オリジナルグッツで身を固めたコアなファンばかりだ。


「今日は、雨ふりでちょっと残念だけど、つばき、みんなに会えてすごく嬉しいです♡」


メンバーの最後につばき、通称つばきたんがおっとりした口調で挨拶すると、千影はつばきたんのメンバーカラーであるピンク色のタオルとサイリウムを振り回して声を上げた。


「うぉぉぉぉぉぉ!つばきたぁぁぁぁぁぁん!」


(今日のつばきたんはまた一段とかわゆい!可憐なピンクの衣装にお花の髪飾りが何とも言えないかわゆさ!あぁ、まるで、春の妖精さんみたいだなぁ……)


残念ながら、千影は前方の場所を取ることができず、熱狂的なファンがひしめき合う中、後方の片隅で必死につま先立ちしてサイリウムを振っていた。

ライブの中盤から雨脚が強くなってきた。それに合わせるように、ファンの熱気もどんどん高まる。気がつけば、傘をさす観客はひとりもいなかった。

千影は今まで少ない自由時間の中で練習を重ねてきたヲタ芸を、ここぞとばかりに踊りまくった。千影のキレッキレの踊りを見て、まわりのファンも負けじと踊り始めた。


(あぁ、なんて幸せな時間の過ごし方なんだろう!生つばきたんを拝みつつ、生つばきたんのかわいい歌声に乗せてヲタ芸を打つ……。これ以上に至福な時はないだろう!あぁ、これはきっと、今まで俺が頑張ってきたことへの神様からのご褒美だ!)


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