第六話 千影、サボる①

「毎日毎日、俺はいったい何を一生懸命やっているんだろうな……」


乳色の雲が細くたなびく空をぼんやり仰ぎながら、千影はひとり、校舎の屋上で昼飯を食べていた。うららかな陽のもとで、万物の生きる力を写した光る風が虚ろな千影の冷たい心をかすめて通り過ぎていった。

弁当箱の中身を見ると、五穀米に大豆の煮豆とささみのチーズはさみが入っていた。以前、祖母に弁当を作ってくれと頼んだ時、蛍に教えられた通りのタンパクなメニューをリクエストしていたのだ。


(あーあ、またこれかよ。この飯、なんだかモサモサしていてあんまり好きじゃないんだよな。おかずだってパサパサしたものばっかり。

毎日あれだけ運動して、飯だってこんな脂っ気ないものばかり食ってるのに、体重は三キロ落ちたっきりでそれから全然変わらないし。

だいたい、こんなことをしたって、忍者になんかなれないっての!いやいや、目的は忍者になることじゃなくて、つばきたんの写真集だろう!危ない危ない、毎日忍者オタクの相手をしているせいで、うっかり中二病ワールドに引きずり込まれるところだった……)


「それにしても、俺、何やってんだか……」


千影は鶏のささみに思い切り箸を刺した。

 

 春雨がしとしとと大地へ降り注ぎ、桜や藤の花びらは流され、乾宮山の新緑がいっせいに萌える。晩春は花びらが散り少し名残惜しいが、若芽が生命の力をよりいっそう強く感じさせてくれる。

そんな春の終わりのある日の夜のこと。


「う、うそだろ……」


千影は、一日の中で唯一自分の好き勝手にしていい時間、就寝前の五十分間でネットサーフィンをしていると、その途中で戦国少女隊の緊急野外ライブの告知を見つけた。

それは、三日後の土曜日の午後二時から夕方六時まで。

土日のトレーニングは、真夜中のトレーニングに加えて、午前八時二十分から三時間と、午後五時半から一時間、自主トレをすることになっている。

ライブ会場までは、千影の家がある湯舟郷の西町からバスで片道二時間半はかかる。


(スケジュール通りに自主トレしていたら確実にライブに間に合わないな。だからといって、もしも自主トレをサボったりなんかしたら、きっと蛍アイツは怒って写真集の約束を破棄するかもしれない。

でも、初回限定アルバムを五枚以上購入した人限定でライブ後に抽選会があり、そこで選ばれた十名に戦国少女隊のメンバーのオリジナル超お宝限定フィギュア【非売品・メンバー全員のサイン付き】をプレゼントと書いてある。これは欲しい!何が何でも、欲しい!)


もう就寝時間をとっくに過ぎていたが、千影はまだ布団には入らず、パソコンの画面と広げた赤い巻物を交互に見ていた。

そして、小雨が降る真夜中、千影は予定通り午前一時までに村正神社に着くと、いつも通り、蛍に付き添われながら十キロランニングと腹筋背筋腕立て伏せをそれぞれ三百回ずつこなした。


「すごいぞ千影!今日は六時前に終わった!」


そう言って、蛍は千影の肩をたたいて喜んだ。

当初決められていたトレーニング時間は四時で終わる予定なのだが、千影はトレーニングメニューの目標回数や距離をやりきるので精一杯だったので、未だに時間は相当掛かった。

そうはいっても、千影はだいぶ成長した。

トレーニングを始めたばかりの頃は、五百メートルを走るのに何度も息が切れて立ち止まり、腹筋背筋はほとんど頭が上げられず、腕立て伏せに関しては腕を曲げることさえできなかったのだ。

それが今では、時速五キロではあるが、十キロランニングを一度も休むことなく走り、腹筋背筋、腕立て伏せも、だいぶゆっくりではあるが、目標回数をこなすことができるようになった。そして、一番の成果は、腹回りが少しずつ引き締まってきたことだ。

千影がいつもトレーニングの時に履いているジャージのズボンのひもの余り具合を、トレーニングが終わったあと、蛍はいつも確かめていた。


「よしよし、すごいぞ千影!着実に成果が出てきている!この調子でいけば、本当に下忍になれるかもしれないな!」


蛍は千影のズボンのひもを伸ばしながら嬉しそうに言った。


「そ、そうだね……」


千影はズボンのひもを黒装束の覆面忍者に引っ張られながら、浮かない顔をしていた。

それもそのはずだ。

トレーニングが終わった今、千影はあさっての自主トレを休んでも良いか蛍に許可を取りたかったのだ。

だが、目の前にいる忍者は、自分の腹回りが引き締まったことに喜び舞い上がっている。


(さすがに、この状況で、ライブに行きたいので、あさっての自主トレは休みますって言ったら、蛍のやつ、機嫌悪くするだろうなぁ)


結局、この日は蛍にライブのことを言い出せないまま、トレーニングが終了した。

それから、また次の日のトレーニングで千影はいつも通りメニューをこなし、トレーニングが終わったあと、蛍にズボンのひもを引っぱられていた。

この日も千影はどうやって話を切り出そうか悩んでいた。

だが、ふと、ある考えが頭に浮かんだ。


(夜中のトレーニングはいつも蛍が一緒なのに、土日の日中のトレーニングは長時間で、しかも、二回に分かれてあるのに、どうしてどっちも自主トレなんだろう?

もしかして、蛍は何か他に用事があって、俺を監視することができないんじゃないか?

もしそうだったら、かえってこのまま何も言わずに黙ってライブに行っちゃった方がバレずに済むし、いいんじゃないか?)


そう考えた千影はニヤリと笑った。


 

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